第2話 銃声
立派な店ではなかった。1階の酒場の奥に狭いダンスフロアがあり、入口には革の上着を着た男が2人立っていた。入場料を取る相手も、金額も、そいつらが決める。
先月はミーシュカだけ余計に払わされた。椅子の弁償だと言われ、本人はテーブルしか壊していないと食い下がっていた。
ジグリは店から少し離して停めた。デーニャが残ったビールを座席の下へ押し込み、ドアを閉める。一緒に拾った男女は、さっさと入口へ向かっていた。
アーニャが俺の腕を掴んだ。
「今日は喧嘩しないで。外で待たされるのはもう嫌よ」
「中で飲んでろ。迎えに行く」
「今度始めたら帰るから」
「分かったよ」
腰へ手を回すと、指をつねられた。それでも腕は離さなかった。
入口の男はミーシュカを見ると、連れの男へ何か言った。ミーシュカは聞こえないふりで通り抜けた。俺も笑わずについていった。
店内は暑かった。煙草の煙が照明の周りに溜まり、壁際の扇風機が回っていた。奥ではカセットからダンス曲が流れ、低音に合わせてカウンターの空き瓶が触れ合っている。
踊る連中の間を抜けると、汗で湿った腕が触れた。香水の臭いが鼻につく。誰かのビールが靴にかかったが、振り返っても持ち主は分からなかった。
デーニャが折れたルーブル札をカウンターへ置いた。バルメンは札を広げ、後ろの棚からウォッカを取った。外国酒の瓶も並んでいたが、俺たちが頼める値段ではなかった。
釣りを数えたデーニャが、小さなグラスを俺へ押した。
「次はお前だぞ。前の分も忘れるな」
「金が入ったら返す」
「どこから」
「これから考える」
悪態と一緒にグラスをぶつけられた。飲み干すと喉が焼けた。パンを食ったくらいでは足りなかったらしく、胃まで熱くなる。
その後はビールにした。ミーシュカは女に断られ、隣の女にも同じ台詞で声を掛けた。デーニャが笑うと、肘で脇腹を小突いて黙らせた。
俺はアーニャと踊った。彼女が酒を取りに行っている間に別の女へ声を掛け、腰へ手を回したところで脛を蹴られた。
戻ってきたアーニャが、ビールを俺の胸元へ突きつけた。
「私に酒を取りに行かせて、何してるの」
「お前も来いよ」
「頭から掛けられたい?」
手首を押さえ、グラスを取った。もう一人の女は俺たちを見比べ、連れのところへ戻っていった。
日付が変わる少し前、デーニャに肩を叩かれた。
「ローマがいる。飲んだら出ようぜ。連れがまずい」
奥にロマン・ユーリエヴィチ・グロモフがいた。23か4。市場の露店から金を集め、盗難車や横流しの酒を扱う連中の使い走りもしている。
最近は金回りがよくなり、知らない年上の男とつるんでいた。今も3人連れている。俺とは2度殴り合ったが、どちらが勝ったかで話が合ったことはない。
ローマはバルメンから酒を受け取り、金を出さずに離れた。俺は自分のグラスへ目を落とした。
「まだ半分ある」
「だから飲め。見るなよ」
「もう来た」
ローマは2人を連れて近づき、俺の隣へ肘をついた。一番年上の男だけが、奥に残って飲んでいた。
「学校を出ても、デーニャの奢りか」
「お前が払うか? 市場で集めた金があるだろ」
「仕事なら紹介してやるぞ。暴れるしか能がなくても使い道はある」
「お前の後ろを歩く仕事か」
「まず言われたことを覚えろ。それからだ」
連れが笑った。ローマの手が肩へ載り、酒と煙草の臭いが顔にかかった。
「親父は空挺だったよな。家じゃ何も教わらなかったのか」
「手をどけろ」
「人が話してるんだぞ」
払い落とすと、連れの男が胸を押してきた。背中がカウンターへ当たる。デーニャが俺の腕を掴んだ。
「行くぞ、チョーマ」
「こいつをどけろ」
「出口は空いてる。来い」
一度は背を向けた。その背中を押され、カウンターの角へ腰をぶつけた。倒れたグラスからビールが流れ、袖を濡らした。
後ろで笑い声がした。
振り向きざまに男の顔を殴った。拳が歯に当たり、指の付け根が痛んだ。男が椅子へ倒れ込むと、ローマが襟を掴んできた。
喉が締まった。俺も胸倉を掴んで殴ったが、近すぎて拳に力が乗らない。デーニャが割って入ろうとして、もう一人に頬を殴られた。
デーニャはよろめきながら相手の髪を掴み、カウンターへ押しつけた。バルメンが瓶を奥へ引っ込めるのが見えた。
後ろから俺の腕が掴まれた。最初に殴った男だった。振りほどこうとしたところへローマの拳が入り、唇が歯に挟まった。
「放せ、クソ野郎!」
口に血が広がった。人を押し分けてきたミーシュカが、ローマを俺から引き剥がした。
俺の腕を放した男がミーシュカを殴った。ミーシュカは顔を背けながら相手の胴へしがみつき、テーブルへ突っ込んだ。脚が床を擦り、倒れた天板の下でグラスが割れた。
ローマに押され、カウンターへ背中をぶつけた。腹を殴られ、息が詰まる。襟を掴む腕に爪を立てていると、横から用心棒が割り込んだ。
「外へ出ろ!」
腕を背中へ捻り上げられた。踏ん張ろうとすると、肩へ痛みが走った。
「放せ。あいつが先に――」
「歩け!」
客は壁際へ寄り、こちらを見ていた。音楽はまだ鳴っている。割れたガラスを踏んで出口まで押され、歩道へ突き出された。
外気が濡れたシャツを冷やした。空にはまだ薄明かりが残り、向かいの建物の輪郭が見えた。唾を吐くと、血が混じっていた。
ミーシュカも追い出された。鼻の下を拭い、赤くなった手の甲を見ている。ローマは入口で用心棒に何か言ったが、連れごと外へ押された。
アーニャが俺の袖を引いた。
「帰るわよ。デーニャ、車まで連れてって」
「来い、チョーマ」
数歩進んだところで、ローマの声が追ってきた。
「明日もその面で歩けると思うなよ。親父に泣きついとけ!」
俺はアーニャの手を外した。
「先に行け」
「もう待たないからね」
返事をせず引き返した。デーニャの罵声と足音がついてくる。
ローマの腹へ拳を入れようとすると、頭を抱え込まれた。首が脇の下に挟まり、息が苦しい。腰へしがみついて押すと足が絡み、2人で歩道へ倒れた。
肘を擦りむいた。構わず上になり、顔を殴ったところで横腹へ靴がめり込んだ。
息が途切れ、ローマの上から転がり落ちた。頭を庇ったが、次の蹴りは来なかった。ミーシュカが相手へ体当たりし、駐車中の車へ押しつけていた。
腹を押さえて立つと、デーニャが叫んだ。
「ナイフだ!」
もう一人が刃物を握っていた。鼻血が顎まで流れ、口で息をしている。入口から見物していた連中が離れた。
俺は足を止めた。
「しまえよ」
「寄るな! 刺すぞ!」
ローマが起き上がり、口元を拭った。
「下げろ。こんな所で使うな」
「俺の顔を見ろよ!」
「分かったからしまえ!」
デーニャが俺の胸を押した。
「下がれ。ミーシュカ、そいつを放せ!」
車に押さえつけられた男が暴れ、ミーシュカごとこちらへ崩れてきた。避けた拍子に男に腕を掴まれた。振り払ったところへ、刃物を持った奴が踏み込んできた。
何が起きたのか、その瞬間はよく分からなかった。
左腕に熱い痛みが走った。
袖が裂けていた。布の下から血が滲み、肘へ伝った。俺は足元の空き瓶を拾った。刃物の男が下がる。
追おうとしたところで、デーニャに肩を引かれた。
「止まれ!」
奥で飲んでいた年上の男が、上着から拳銃を抜いていた。
「離れろ。全員だ!」
ミーシュカが相手を放した。俺は瓶を握ったまま動けなかった。銃口がゆっくりと上を向き、ローマの腕がそこへ伸びていくのが、やけにはっきりと見えた。
「撃つな!」
銃声が建物の間で響いた。
首が竦んだ。耳の奥に高い音が残り、目の前の口が動いているのに何を言っているか聞き取れない。
入口へ客が押し寄せ、ドアの前で詰まった。女が悲鳴を上げていた。ミーシュカは身を屈め、両手を半端に上げている。
誰かがミリツィヤと叫んだ。
拳銃の男が真っ先に走った。ローマたちも散った。俺は瓶を落としたが、割れた音はよく聞こえなかった。
デーニャがミーシュカの背を叩き、車の方へ押した。
「チョーマ、走れ!」
左腕を抱えて後を追った。走るたびに脇腹が痛んだ。




