第1話 盗んだジグリ
1993年、6月中旬。
ロシア連邦、イヴァノヴォ。
俺の名前はアルチョム・ヴァシリエヴィチ・ケルジャコフ。18歳。仲間からはチョーマと呼ばれている。
学校を出て3週間、まだ仕事には就いていない。母さんは毎朝、工場でも職業安定所でもいいから行けとうるさいが、働く気は起きなかった。
隣の男は工場へ通っているのに、何か月も給料が出ず、母さんに煙草代を借りに来る。朝から晩まで働いてそれなら、家で寝ている方がましだ。
親父は軍人だった。ソ連がなくなった今も軍服を着て、毎朝決まった時間に家を出ていく。家でも時間と規律にうるさく、俺が昼過ぎまで寝ていたと知った時の、あの露骨に嫌な顔。
働けと怒鳴られるのも嫌だが、親父と同じように軍隊へ入るのはもっと御免だった。朝から晩まで親父みたいな奴に指図されるなんて、考えるだけでうんざりする。
酒を飲み、女と遊び、仲間と街を走り回る。飯は家で食えるし、金が足りなければ誰かに借りる。いつまでも続くとは思っていなかったが、明日からやめる理由もなかった。
その夕方、俺は集合住宅の裏に停まっていた白いVAZ-2101へ潜り込み、ハンドルの下を弄っていた。
古いジグリだった。床には砂が溜まり、座席の裂け目から黄色い詰め物が出ている。助手席には作業用の手袋と、パン屑の残った袋が置かれていた。
開いた窓の向こうでは、金属の棒に掛けられた絨毯を女が叩いていた。乾いた音がするたび、風に乗った埃がこっちへ来る。俺は鼻を擦り、狭い足元へ身体を押し込んだ。
デニス・アレクサンドロヴィチ・ソローキンが窓から覗いた。幼なじみのデーニャだ。車はいつもこいつが用意するが、今日は俺がやると言い張った。
「チョーマ、そろそろ代われ。持ち主が帰ってくるぞ」
「もう少しだ。入口を見てろ」
「前もそう言って、最後は俺にやらせただろ」
「今回はできる。耳元で喋るな」
デーニャが離れた隙に身体を起こすと、シャツが背中に張りついていた。あいつは集合住宅の入口を眺めながら、ビールを飲んでいる。
俺は窓から手を出した。
「少し寄越せ」
「さっき、いらねえって言っただろ」
「今はいるんだよ。全部飲む前に渡せ」
瓶を受け取り、口をつけた。もう温い。大して残ってもいなかった。俺が突き返すと、デーニャは残りを飲み干し、瓶を車の脇へ置いた。
またハンドルの下へ屈み込む。しばらくして、ようやくエンジンがかかった。身体を起こした俺に、デーニャが低い声を飛ばした。
「動いたなら出せ。上のバーブカが見てる」
「どこだよ」
「2階。窓からこっちを睨んでる」
「手でも振っとけ。知り合いの車だと思うだろ」
「お前が振れ。俺は顔を覚えられたくねえ」
見上げると、開いた窓から老女が身を乗り出していた。俺は手を振る代わりに、助手席のドアを内側から開けた。デーニャが手袋と袋を床へ払い、乗り込んでくる。
その時、ミハイル・ニコラエヴィチ・バラノフが建物の角から現れた。ミーシュカは大柄で、袋を抱えた額に汗を浮かべていた。
喧嘩になれば、相手の人数を数えるより先に俺の隣へ来る。ただし逃げ足は遅い。俺は窓から腕を出して急かした。
ミーシュカは袋を先に入れ、後部座席へ身体を押し込んだ。膝が運転席の背に当たって、俺の身体は前へ押し出される。
「足をどけろ。邪魔だ」
「お前が少し詰めろよ。こっちはこれ以上下がれねえ」
「何を持ってきた」
「黒パンとサラミ。お前ら、どうせ食ってないだろ」
袋が開くと、急に腹が減った。ミーシュカがパンにサラミを載せて寄越す。俺は受け取りながら後ろを見た。
「立派な嫁さんになるな、お前」
「食費を寄越す亭主を探すよ。お前は駄目だ」
「車を用意してやっただろ」
「他人の車じゃねえか」
デーニャが笑う。俺はパンを齧り、ジグリを路地へ出した。
売るつもりはなかった。今夜乗って、朝までにどこかへ置いていく。それだけだ。持ち主も探せば見つけられるし、この程度の車なら多少傷が増えても気づかないだろう。
助手席の足元では、デーニャの靴が作業用の手袋を踏んでいる。仕事に使う車かもしれない。そう思ったが、もう通りへ出ていた。
買い物袋を提げた女たちが前を横切る。俺が車の鼻先を出すと、一人が袋を振り上げて怒鳴った。デーニャが投げキスを返し、俺は追いつかれる前に車を進めた。
カセットデッキには持ち主のテープが入っていた。再生ボタンを押すと、聞き覚えのあるイントロが流れ出す。
キノーの「グルッパ・クローヴィ」だ。ミーシュカがパンを飲み込み、ツォイに合わせて歌い始めた。俺も音量を上げ、ハンドルを指で叩いた。
ミーシュカは歌詞の怪しいところだけ声を落とし、知っているところへ来ると急に張り上げる。デーニャが振り返った。
「お前の声しか聞こえねえよ」
「だったらもっと上げろ」
「ツォイを聴きてえんだ。お前じゃねえ」
「細けえ奴だな。前を向いてろ」
窓から入る風が、煙草の煙を後ろへ押し流していく。通り沿いの建物にはまだ日が当たり、歩道には買い物帰りの人間が多かった。
アーニャはキオスクの前で待っていた。小さな販売窓口の脇に煙草とガムが並び、値札を貼ったガラスに彼女の姿が映っている。
アンナ・ヴィクトロヴナ・モロゾワ。俺より1歳下で、赤い口紅を塗り、短いスカートを穿いていた。
俺と会わない日に誰と遊んでいるかは知らないし、向こうも聞かない。それでも呼べば大抵は来る。ただし、約束に遅れると怒る。恋人なのかもはっきりしないのに、そこだけはうるさい。
車を寄せると、アーニャは窓から俺を見た。
「これ、誰の車?」
「今夜は俺のだ。乗れよ」
「盗んだ車で迎えに来ないでよ。ミリツィヤに止められたらどうするの」
「俺を知らないって言えばいいだろ」
「だったら今から知らないふりをしようかしら」
「好きにしろ。俺たちは行くぞ」
アーニャは後ろのドアを開け、ミーシュカの膝にあった袋を押しやった。
「パン屑を払って。ストッキングにつくでしょう」
「食うか?」
「頂戴。サラミも」
「今、散らかすなって顔をしただろ」
「私が座るところには落とさないでってことよ」
ミーシュカが場所を空け、アーニャが隣に収まる。俺が鏡で見ていると、目が合った。
「何よ」
「降りると思ってた」
「歩かせたいなら迎えに来るなんて言わないで。あと、窓を開けて。この車、男の靴みたいな臭いがする」
走り出して間もなく、後ろから肩を叩かれた。信号を無視したのを見られたらしい。
「赤だったでしょう」
「車は来てなかった」
「来てからじゃ遅いわよ。ちゃんと前を見て」
「怖けりゃミーシュカにつかまってろ」
ミーシュカが運転席の背へ手を掛けた。
「俺を巻き込むな。ぶつけるならデーニャの方へぶつけろ」
「何で俺なんだよ」
「さっきから一人で飲んでるだろ。後ろへ回せ」
デーニャは開けたばかりの2本目を渡した。ミーシュカが飲み、アーニャも口をつける。俺が後ろへ手を伸ばすと、彼女に払いのけられた。
「あんたは着いてから」
「俺の分も残せよ」
「店で飲めばいいでしょう」
「お前の奢りか?」
「私に借りたお金を返してから聞いて」
デーニャが吹き出したので、次の曲がり角で少し強くハンドルを切ってやった。
その先で、さらに2人を拾った。デーニャへ声を掛けた男と、その連れの女だ。名前は聞いたが、音楽とミーシュカの声に紛れて覚えていない。
後部座席へ4人が詰まり、狭いと文句が出た。それでも降りる奴はいない。
6人分の重みで、ジグリはなかなか速度が上がらなかった。俺はアクセルを踏み込み、前を走る車の尻へ近づいた。デーニャが窓枠を叩いて囃し、知らない男まで後ろから身を乗り出してきた。
酒代が足りないことも、帰ったら親父に会うかもしれないことも、その時にはどうでもよくなっていた。
俺たちは市内のナイトクラブへ向かった。




