第30話 分からなくなったら止めろ
翌朝、俺たちは訓練塔の下へ並ばされた。
緑に塗られた鉄骨の継ぎ目には、古い塗料が厚く残っていた。階段を上がる軍曹の靴音が、頭の上まで続いていく。昨日までの低い台なら、踏み外してもすぐ下にマットがあった。
アンドリューハは塔を見上げたまま黙っていた。俺は肘で小突いた。
「どうした。飛行機がなくて残念か」
「階段、多いなと思って」
「お前、高いところ駄目なのか」
「工場の物置の屋根なら上がったことがある」
「ここより低いだろ」
「低かったよ。何回も聞くな」
こいつは上着の裾を指で捻っていた。笑ってやるつもりだったが、そこまで嫌そうにされると、次の言葉が出なかった。
チェルノフが列の前へ来た。
「今日は装置を使って離脱の動作を練習する。自分の落下傘を開くわけではない。上では担当の教官に従え。呼ばれるまで階段へ入るな」
先に軍曹が実演した。足場を離れた身体を装置が支え、下では別の兵士が待っていた。地面へ戻った軍曹は装具を外し、俺たちへ場所を空けるよう手を振った。
アンドリューハがその後ろ姿を見た。
「あいつ、何でもねえ顔してるな」
「何回もやってるんだろ」
「俺も何回かやれば、ああなるのか」
「先に1回やれよ」
順番が進み、ルスランも戻ってきた。脚に当たっていた帯の位置をさすっている。アンドリューハがすぐに聞いた。
「どうだった」
「締め方は、上でちゃんと見てもらえ。吊られると違う」
「高さの方だよ」
「怖かった。でも、下ばかり見てても終わらないぞ」
名前を呼ばれると、アンドリューハは大きな声で返事をした。階段へ向かう背中を、俺は呼び止めた。
「終わったら煙草1本やる」
「今寄越せ」
「下りてからだ。落としたら拾いに行かねえぞ」
上に着くまでは早かった。ところが、装具の確認が済むと動かなくなった。教官が横に立ち、顔を覗くようにして何か話している。
後ろで誰かが鼻で笑った。俺は振り返った。
「お前の番も見ててやるからな」
そいつは塔へ目を戻した。俺も上を見た。早くやれとは言わなかった。
やがてアンドリューハが頷いた。号令の後で足場を離れ、すぐに下まで響く声を上げた。
「うわっ、クソッ!」
今度は俺も笑った。地面へ戻ってきた本人は、装具を外してもらう間、俺の方を睨んでいた。
列へ戻るなり手を出してくる。
「煙草」
「忘れてねえよ。どうだった」
「お前も行け。下で聞いててやる」
渡した1本をしまう時、胸ポケットのボタンに手間取っていた。俺が見ているのに気づくと、背中を向けて留め直した。
次に呼ばれたのは俺だった。
階段の途中までは、あの悲鳴を思い出していた。足場へ出ると笑う気が失せた。下の連中の頭と肩が見える。さっきまで俺も、あそこで気楽に見上げていた。
軍曹が装具を確認した。擦れた帯も、留められた金具も、下で着けた時より気になった。手を伸ばしかけると止められた。
「触るな。気になるところを言え」
「脚のところです。さっきよりきつく感じます」
「ここか」
確かめてもらい、もう一度立ち直った。軍曹は俺の顔を見た。
「どうだ」
「大丈夫です」
「習った動作を言ってみろ」
答えられた。口が乾いていたが、声は普通に出た。それで少し安心したところへ、前へ進むよう指示された。
足場の端で足が止まった。
アンドリューハを笑ったことなど、今は何の役にも立たない。下を見かけ、軍曹に顔を上げるよう言われた。
合図を聞いて踏み出した途端、足の裏から支えがなくなった。腹が浮くような感じがして、勝手に声が出た。
装具へ体重が掛かり、帯が脚の付け根へ食い込む。下から指示されても、最初の声は聞き取れなかった。もう一度言われ、ようやく顔を向けた。
地面へ戻ると、アンドリューハが待っていた。
「よく聞こえたぞ」
「お前ほどじゃねえだろ」
「もう1回叫んでみろよ。比べてやる」
「お前が先にやれ」
装具を外されても、脚の間に帯の感触が残っていた。俺は塔を見上げた。軍曹はもう次の奴を迎えている。
列の前でチェルノフが告げた。
「終わった者も残れ。もう一巡する」
アンドリューハが俺を見た。
「もう1本出すか」
「次はお前が俺に出せよ」
2回目も怖かった。ただ、軍曹に聞き直されずに返事はできた。下りてから声が出たかどうかで揉めていると、ルスランに、両方聞こえたと言われた。
それから数日、地上訓練が続いた。
塔へ上がる日もあれば、低い台の着地からやり直す日もあった。吊り下げ装置では、覚えたつもりの動作が出てこず、軍曹の前で宙に浮いたまま説明を聞いた。
落下傘の梱包が始まると、今度は長い作業台の前から動けなくなった。
持ってこられた収納袋には、黒い文字と番号が押されていた。付属の記録書類を教官が確かめ、俺たちは勝手に袋を開けずに待った。
壁の教材には、青いベレー帽を被った兵士が描かれている。端に残るソ連の略号も、折り目をテープで補修した図も、そのまま使われていた。
広げられた傘体は、袋に入っていた時からは考えられないほど大きかった。薄い布に細かな目があり、縫い合わせた線が何本も走っている。その先へ延びた吊り索を見て、俺は作業台の長さに納得した。
教官は実演の途中で何度も止まった。俺たちも決められた段階ごとに確認を受ける。見せる前に先へ進むと、そこまで戻して広げ直させられた。
俺の相手はアンドリューハだった。
向こう側を持つよう頼むと、こいつは手を伸ばす前に袖口のボタンを留め直した。布へ引っ掛けるなと、さっき注意されたところだった。
「持ったか」
「待て。……いいぞ」
「じゃあ、こっちへ寄せる」
「急に引くなよ。まだそっちが余ってる」
台の端から落ちかけた布を、2人で戻した。薄くて軽いくせに、1人で扱おうとすると余計なところまで動く。
小銃なら、自分の分を先に終えていられた。ここでは俺が急ぐと、向こうの手元までやり直しになった。
しばらくして、アンドリューハが腰を伸ばした。
「これ、毎回自分でやるのか」
「教わってるんだから、やらせるんだろ」
「畳んであるのを渡してくれりゃいいのに」
「お前、誰が畳んだか聞くだろ」
「そりゃ聞くよ」
俺たちは手元へ目を戻した。俺が畳んだと聞いて、喜んで背負う奴もあまりいそうになかった。
チェルノフが台へ来た。
「どこまで済んだ」
「教わったところまでです。確認をお願いします、同志上級准尉」
上級准尉が見ている間、俺たちは布から手を離して待った。途中で一箇所を示され、アンドリューハと一緒に直す。
「これでいい。続けろ」
隣では、確認を待たずに進めた組が広げ直していた。片方がもう片方へ何か言い、軍曹に2人とも呼ばれている。
俺はアンドリューハへ顔を向けた。
「分からなくなったら止めろよ」
「お前もな。分かった顔で引っ張るな」
「今のは引っ張ってねえだろ」
「今の話じゃねえよ」
少し先の台で、ルスランたちも教官を待っていた。あいつの相手は布へ手を置きかけ、何か言われて引っ込めた。
俺はそれを見て小声で言った。
「あっちも細けえな」
「代わってもらうか」
「こっちでいい」
夕方には、屈んでいる腰より、確認を待つ時間の方がつらくなった。窓の外から別の中隊の号令が聞こえる。あいつらが終わるまでに、俺たちも終わりたかった。
アンドリューハが次へ進みかけたところで、俺は止めた。
「待て。ここ、もう一度見てもらう」
「何か違うか」
「さっき直されたところと、同じに見える」
こいつは手を離した。俺が軍曹を呼ぶと、自分も横へ退いて場所を空けた。
直されたのは、ほんの少しだった。軍曹が離れてから、アンドリューハが俺を見た。
「呼んでよかったな」
「お前も見てたなら言えよ」
「俺は分からなかったんだよ」
今度はその返事に文句を言わず、俺は布の端を持った。向こうも持ち直すまで待ち、2人で続きを始めた。




