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【打ち切り】チョーマ  作者: 近江もののふ


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第31話 怖いままだ

 朝から兵舎には靴墨の臭いがこもっていた。


 体力錬成は短く終わったが、その分だけ身なりを直す時間が増えた。襟へ縫いつけた白布を見られ、ベルトを直され、磨いた軍靴まで窓の明かりへ向けて確かめられる。


 アンドリューハは鏡の前で制帽を被り直していた。

「昨日まで泥の中を這わせてたくせに、今日は汚すなって何なんだよ」

「今日も這いたいのか」

「そうは言ってねえだろ」


 俺は上着の裾を引いた。寝台の上には脱いだ普段着が畳んである。いつもと違う服を着ると、腕を下ろす位置まで気になった。


 ルスランが俺の肩から糸くずを取った。

「後ろも見てもらえよ。自分じゃ見えないだろ」

「お前のも取ってやろうか」

「さっき頼んだ」

「誰に」

「お前に」


 そういえば見た。こいつの背中には何もついていなかった。


 軍曹が入ってくると、鏡の前にいた連中まで姿勢を正した。

「今日は家族も来る。軍旗の前へ出てから帽子を触ったり、隣と喋ったりするな。昨日の予行を思い出せ」


 アンドリューハが俺を見る。何か言いそうだったので、俺は先に正面へ向き直った。


 営庭の端には、もう家族らしい人たちが集まっていた。


 花束を抱えた女、紙袋を提げた男、母親の手を引く小さな子供。写真機を首から下げた人もいる。軍服ばかり見ていたせいか、女物の明るい服がひどく目についた。


 俺は知っている顔を探しかけ、列の前へ目を戻した。親父たちが来るかどうかは、まだ分からなかった。


 軍楽隊は将校たちの脇に並んでいた。大きな管楽器の先が朝日に光り、小太鼓を吊った兵士が指揮者を見ている。誰かが短く音を出すと、近くの子供がそちらを向いた。


 号令が掛かった。


 俺たちは一斉に姿勢を正した。演奏が始まり、旗手と護衛が営庭へ入ってくる。


 運ばれてきた軍旗は赤かった。房飾りが歩調に合わせて揺れ、布が開くたびに刺繍が光る。ロシア連邦への宣誓をする日に、連隊が受け継いだ赤い旗の前へ立つ。そのことを、俺は旗が近づいてきてから改めて意識した。


 普段なら靴音と怒鳴り声ばかりの営庭に、金管の音が響いていた。同じ兵舎も、磨かれたベルトの金具が並ぶ隊列越しに見ると、少し違って見える。


 部隊長の訓示が始まった。


 宣誓の意味と、軍務に就く者の責任。これまで教室で聞いた話だったが、今日は途中で隣へ冗談を言う気にはならなかった。


 やがて、宣誓を行う者の名前が呼ばれ始めた。


 兵士が列を出て、用意された台の前へ進む。声に出して読み、署名して戻る。よく通る声もあれば、最初だけ大きく、途中から小さくなる声もあった。


 アンドリューハが呼ばれた。

「コロトコフ、アンドレイ・セルゲーエヴィチ!」

「はい!」


 こいつは前へ出た。歩き方を間違えないか気になったが、余計な動きはしなかった。読み終えてペンを取る時だけ、少し手間取った。


 戻ってきたこいつが、唇をわずかに動かす。

「手が震えた」

「見えなかったぞ」

「ならいい」


 ルスランも呼ばれた。声は普段より大きかった。聞き慣れた声なのに、俺たちと話している時とは違う。


 次に、自分の名前が響いた。


「ケルジャコフ、アルチョム・ヴァシリエヴィチ!」

「はい!」


 返事をして列を出た。


 営庭を歩くのは毎日のことだ。だが、今日は誰も前にいない。自分の軍靴の音が聞こえ、腕を振りすぎていないか気になった。


 台の前で止まる。開かれた書類には、何度も読んだ文が印刷されていた。紙の端を留めている金具が光っている。


 息を吸い、最初の行を読んだ。


「私、ケルジャコフ・アルチョム・ヴァシリエヴィチは、我が祖国、ロシア連邦への忠誠を厳粛に誓います」


 思っていたより声が出た。


 親父の名前から来た父称を、今日は誰かに問い詰められる前に自分で名乗っている。家族のいる方を見たくなったが、そのまま次の行へ進んだ。


「その憲法と法律を厳守し、軍規の定め、指揮官および上官の命令を厳格に遂行することを誓います」


 法律を守る。


 ついこの前まで、盗んだジグリで走り、ミリツィヤから逃げていた。そんな奴が読むには、随分立派な文だった。


 それでも途中で笑ったり、言葉を濁したりはできなかった。前にいる将校も、列に残った連中も、黙って聞いている。


「軍人としての義務を立派に果たし、ロシアの自由、独立および憲法秩序を、人民と祖国を、勇敢に守ることを誓います」


 最後まで読み終えた。


 係の将校が署名欄を示した。ペンを取ると、指が少し汗ばんでいる。いつものように名前を書いたつもりだったが、最後の線だけ長くなった。


 書き直すほどではない。ペンを戻し、姿勢を正した。


 列へ戻る途中は、行く時より短く感じた。


 アンドリューハがこちらを見たが、今度は何も言わなかった。俺も正面を向いて、次の兵士の声を聞いた。


 全員が終わると、部隊長が祝意を述べた。返答の声が営庭に揃い、続いて軍楽隊が国歌を演奏する。


 グリンカの『愛国歌』だった。


 今の国歌には、決まった歌詞がない。俺たちは歌わずに立っていた。管楽器の旋律が兵舎の壁へ響き、家族のいる方も静かになっている。


 演奏が終わり、分列行進へ移った。


 小太鼓が刻み、行進曲に合わせて列が動き出す。何週間も直された歩幅と腕の振りを、今さら考え直す必要はなかった。前後の間隔を保ち、そのまま進む。


 家族の並ぶ場所が視界に入った時、母さんを見つけた。


 隣には親父がいた。制服姿で、肩章の星も、胸の降下徽章も見える。


 母さんが小さく手を上げた。俺はそちらを見すぎそうになり、慌てて向きを戻した。足は何とか乱さずに済んだ。


 式が終わり、面会を許されると、母さんの方から近づいてきた。


「痩せたじゃない」

「ちゃんと飯は食ってるよ」

「まだ聞いてないでしょう。顔も焼けたわね」


 袖を掴まれ、肩まで触られた。近くでは別の母親が息子を抱きしめ、その向こうで子供が兵士の帽子を欲しがっている。


 俺は親父へ顔を向けた。

「来ると思わなかった」

「来られたから来た」

「仕事は?」

「済ませてきた」


 相変わらず話が短い。だが、本当に来ている。俺は少し笑った。

「行進、どうだった」

「途中でこっちを見たな」

「見えたんだから仕方ねえだろ」

「足は乱さなかった。それでいい」


 母さんが親父を見た。

「最初から後の方だけ言えばいいのに」


 親父は答えなかった。俺は笑い、母さんから差し出された重い袋を受け取った。


 中には包んだピロシキと菓子、缶詰が入っている。端には煙草の箱まで見えた。

「これは誰が入れた」

「父さんよ」


 親父を見ると、袋の中を覗くなと言うように顎を動かした。

「持ち込める物か、先に確認しろ」

「煙草くらい大丈夫だよ」

「食べ物もだ」


 母さんは少し離れたところへ目を向けた。

「あの子、さっき隣にいたでしょう」


 アンドリューハが家族へ何か話していた。こちらに気づくと、妙に行儀よく頭を下げた。俺の前でもそのくらいやれと思った。


「コロトコフ。アンドレイ。いつも一緒にいる」

「仲良くしてるの?」

「今はな」

「今は?」


 説明すると面倒なので、袋の中の菓子を持ち上げた。

「これ、あいつらと食っていいんだろ」

「そのために多めに持ってきたのよ」


 面会の残り時間が告げられると、母さんは手紙の返事をもっと書けと言い始めた。元気だと書けば、それだけでは様子が分からないらしい。


 親父はその話が途切れるのを待って聞いた。

「降下の準備はどうだ」

「地上教育をやってる。もうすぐ初降下」

「分からないところは残すなよ」

「聞いてるよ。嫌になるくらい繰り返してる」


 親父が頷いた。俺は少し迷ってから聞いた。

「親父も最初は怖かった?」

「怖かった」

「すぐ出られたのか」

「出た。怖いままだ」


 あまりに普通に言われ、次の言葉が出なかった。


 親父は俺を見ている。

「怖くないふりをして、説明を聞き落とすな」

「……分かってる」


 母さんが最後に俺を抱きしめた。周りが気になったが、振りほどくほどでもなかった。

「手紙、待ってるからね。アーニャにばかり書かないで」

「何で知ってるんだよ」

「あの子とも話すもの」


 親父とは握手をした。何か言われるかと思ったが、手を離す前に短く言った。

「今日はよかった」


 今度は余計な注意が付かなかった。俺も、何がだよとは聞かなかった。


 兵舎へ戻ると、アンドリューハがすぐ袋へ目をつけた。

「何貰った」

「食い物」

「こっちは菓子がある。交換しようぜ」


 ルスランも自分の包みを持ってきた。俺たちは決められた場所へ食べ物を出し、誰の母親がどれだけ持たせたかで笑った。


 ピロシキを割ると、中にはジャガイモが詰まっていた。もう冷めている。それでも、家で食っていた味だった。


 アンドリューハが口に入れ、旨いと言った。俺はもう1つ取ろうとした手を止めずに頷いた。


 親父も最初は怖かった。


 数日後、降下口に立った時には思い出すだろう。だから怖くなくなるとは思わないが、今日それを聞けたのはよかった。


 母さんへの手紙にも、来てくれてありがとうくらいは書いてやるつもりになった。

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