↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【打ち切り】チョーマ  作者: 近江もののふ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/31

第29話 規則正しい生活

 夕食後、靴を磨いて襟の白布を直すと、また外へ出された。


 今度は夕べの散歩だった。そう呼ばれていたが、好きな方向へ歩いていいわけではない。中隊で縦隊を組み、軍曹の後について営庭を回る。


 兵舎の窓には明るい空が映っていた。昼の熱が残ったアスファルトの上を歩くと、磨いたばかりの長靴へまた砂がつく。


 アンドリューハが横でぼやいた。

「今日、何周したんだよ」

「掃除してた時間は引け」

「その間も立ってたぞ。少しは座らせろよ」


 前方で軍曹が声を張った。

「歌だ! 前から始めろ!」


 少し間があり、列の前から歌声が上がった。


 「シネヴァ」だった。


 兵舎で古参が口ずさんでいた曲だ。最初の節は聞き覚えがある。俺も途中から加わったが、すぐ歌詞が分からなくなり、周りの声へ合わせて口を動かした。


 アンドリューハがこちらへ顔を寄せた。

「今、誤魔化しただろ」

「お前も途中から黙ってたぞ」

「だから聞こうと思ったんだよ」


 後ろではルスランが歌っていた。俺たちが黙ったところも続いているので、そちらを聞いて覚えようとした。


 軍曹の声が飛んだ。

「後ろ、前の歌を聞いているだけか! 声を出せ!」


 仕方なく、知っているところから声を張った。


 上手い奴ばかりではない。前の方には、歌うというより怒鳴っている奴もいた。だが、何十人もの声が重なると、一人が外したくらいでは止まらなかった。


 兵舎の壁から歌が返ってきた。列が曲がると前の声が聞き取りやすくなり、俺もさっき分からなかった箇所を拾えた。


 アンドリューハがまた違う言葉を歌ったが、今度は教えなかった。言い合っていると俺まで歌詞を見失う。


 何周かするうち、歌の途中で息を継ぐ場所が分かってきた。足も、いちいち前の奴を見なくても合わせられた。


 軍曹が振り返った時には、俺も歌っていた。


 散歩が終わると、兵舎の前で夜の点呼になった。


 名前を呼ばれた者が答える。自分の番が済んでも喋れない。全員の確認が終わり、翌日の指示を聞いてから中へ戻った。


 俺は朝まで眠れる側ではなかった。


 中隊の当番兵、ドネヴァーリヌイに割り当てられていた。入口の定位置に立つ番は交代で回り、俺は夜明け前を受け持つ。先に休めと言われたが、起こされることが分かっていると、横になっても時計が気になった。


 ようやく眠ったところで肩を揺すられた。


「ケルジャコフ。交代だ」


 服を直して廊下へ出た。眠っていた間に冷えた長靴が、足布越しでもひんやりする。前の兵士から引き継ぎ、中隊当直の軍曹へ報告して定位置に立った。


 入口の脇には勤務の要領を掲げた台があり、近くの武器保管室は施錠されていた。当直の机には電話と勤務の書類が置かれ、照明が机の上だけを明るくしている。


 誰が出入りしたかを見る。部外者を勝手に通さず、武器や物品が無断で持ち出されないよう注意する。騒ぎや異常があれば、中隊当直へ知らせる。


 説明を聞いている間は、忘れそうなことがいくつもあった。


 立ち始めると、何も起きなかった。


 寝室から咳が聞こえ、しばらくしてベッドが鳴った。その後は、誰かのいびきが続いた。


 壁の時計を見た。次に見ても、針は思っていたほど進んでいない。


 俺は小さく呟いた。

「長えな」


 机の向こうから軍曹が答えた。

「始まったばかりだ」

「聞こえたんですか」

「聞こえる声で言っただろ」

「何も起きませんね」

「そのまま引き継げればいい。前を見ていろ」


 眠気を追い払おうと、靴の中で足の指を動かした。壁へ寄りかかりたいが、軍曹から丸見えだった。


 昼間は人が行き来していた廊下も、今は床の艶が見えるほど空いている。朝から磨かされた場所だった。こんな時間まで眺めることになるとは思わなかった。


 イヴァノヴォでは、夜中に起きているのは珍しくなかった。


 酒を飲み、車に乗り、女と喋っていれば、帰る時間などすぐに来た。ここには時計しかない。しかも、それを見るたびに腹が立つ。


 煙草を吸いに出ることもできなかった。箱は持っていても、火をつける場所まで行けない。


 便所へ向かう兵士が寝室から出てきた。俺を見て立ち止まり、眠そうに聞いた。

「あとどれくらいだ」

「お前が代わってくれるなら今終わる」

「じゃあ、頑張れ」


 そいつは便所へ消えた。戻ってきた時には、俺の方を見もしなかった。


 しばらくして、また寝室の戸口で人影が動いた。


 サーシャだった。テルニャシュカの裾を直しながら廊下へ出てきたので、俺は声を落とした。

「どうした」

「水を飲む」

「そっちへ行くのか」

「洗面所に用があるんだよ」


 サーシャが俺の前を通った。昼間、新兵が床へ手をついていた場所を思い出した。


 俺は呼び止めた。

「サーシャ。あの2人、今は寝てるのか」

「寝てる」

「見たのか」

「ああ。今、横を通ってきた」


 俺は寝室の方を見た。ここからでは、奥のベッドまでは分からない。


 サーシャは少し待ってから言った。

「何か聞こえたら、そこの当直に言え。お前はここを離れるなよ」

「お前に言われなくても分かってる」

「ならいい」


 それで洗面所へ行った。


 昼には揉めたくないと言っていたくせに、今は当直へ言えという。自分が間に入らずに済むなら、それでいいのかもしれない。


 俺は机の軍曹を見た。書類へ何か書き込んでいる。洗面所で騒ぎが起きれば、ここまで聞こえるだろうか。


 聞こえた時に考えればいい。


 耳を澄ませると、蛇口の水が流れる音がした。止まってから足音が戻ってきた。


 サーシャが俺の前で立ち止まった。

「眠そうだな」

「お前は寝てろよ。見てるだけで腹が立つ」

「もう少しで全員起きる」

「俺は交代だぞ」

「起床の仕事があるだろ。当番なんだから」


 時計を見ると、確かに朝が近かった。


 俺は当直の机へ顔を向けた。

「同志軍曹。交代したら休めますか」

「起床の後は洗面所を見ろ。寝室が空いたら掃除だ。休息は交代で取らせる」

「……了解しました」


 サーシャが笑いかけたので、俺は睨んだ。

「何だよ」

「朝まで立てば終わりだと思ってたのか」

「寝る前に思い出させてくれりゃよかったな」

「思い出したら逃げたか?」

「お前を起こした」


 サーシャは手を振り、寝室へ戻った。


 ようやく次の兵士が来ると、俺は引き継ぎを済ませた。異常はなく、外へ出た者もいない。武器保管室の周辺も変わりなかった。


 交代の兵士が定位置へ立った。

「何かあったか」

「便所と水飲み。あとは全員寝てた」

「静かだったんだな」

「時計の音まで聞こえたぞ」


 当直へ報告し、入口を離れた。脚を曲げると膝の裏が張っている。


 自分のベッドへ行き、腰を下ろしかけた時、照明が点いた。


 入口から起床の声が響いた。


 ベッドが次々に鳴り、毛布がめくられた。上段からアンドリューハが顔を出し、立っている俺を見た。

「今日は早いな」

「今まで当番だったんだよ」

「ああ。寝られたか」

「お前、何を聞いてた?」


 こいつは答える代わりに欠伸をした。殴りたくなったが、俺まで欠伸が出た。


 ルスランも起き、畳んであった服へ手を伸ばした。

「交代したのか」

「ああ。今から掃除だってよ」

「少し後なら休めるだろ」

「今がいいんだよ」


 廊下から軍曹に呼ばれ、俺は返事をして戻った。


 洗面所はすぐに男で埋まった。蛇口を奪い合い、濡れた手を振り、床へ水を落としていく。昨日、何度も拭いた場所だった。


 俺は戸口で声を掛けた。

「床へ飛ばすな。流しの中でやれよ」


 アンドリューハが歯ブラシを咥えたまま、こちらへ手を上げた。洗い終えると、俺の横で口を拭く。

「お前、朝からうるせえな」

「後で拭くのが俺だからだ」

「じゃあ、頼んだ」


 背中を小突く前に逃げていった。


 窓の外は、もうすっかり明るかった。皆が営庭へ出ると、俺はバケツへ水を汲んだ。


 昨日は床を磨き、訓練で汚し、夜中は誰も踏まない床を見張った。今朝は、起きた連中が汚した分をまた拭く。


 親父には、規則正しい生活をしていると書いてやってもよかった。


 何時に寝ているかまで聞かれたら、返事は後回しにするつもりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。