第29話 規則正しい生活
夕食後、靴を磨いて襟の白布を直すと、また外へ出された。
今度は夕べの散歩だった。そう呼ばれていたが、好きな方向へ歩いていいわけではない。中隊で縦隊を組み、軍曹の後について営庭を回る。
兵舎の窓には明るい空が映っていた。昼の熱が残ったアスファルトの上を歩くと、磨いたばかりの長靴へまた砂がつく。
アンドリューハが横でぼやいた。
「今日、何周したんだよ」
「掃除してた時間は引け」
「その間も立ってたぞ。少しは座らせろよ」
前方で軍曹が声を張った。
「歌だ! 前から始めろ!」
少し間があり、列の前から歌声が上がった。
「シネヴァ」だった。
兵舎で古参が口ずさんでいた曲だ。最初の節は聞き覚えがある。俺も途中から加わったが、すぐ歌詞が分からなくなり、周りの声へ合わせて口を動かした。
アンドリューハがこちらへ顔を寄せた。
「今、誤魔化しただろ」
「お前も途中から黙ってたぞ」
「だから聞こうと思ったんだよ」
後ろではルスランが歌っていた。俺たちが黙ったところも続いているので、そちらを聞いて覚えようとした。
軍曹の声が飛んだ。
「後ろ、前の歌を聞いているだけか! 声を出せ!」
仕方なく、知っているところから声を張った。
上手い奴ばかりではない。前の方には、歌うというより怒鳴っている奴もいた。だが、何十人もの声が重なると、一人が外したくらいでは止まらなかった。
兵舎の壁から歌が返ってきた。列が曲がると前の声が聞き取りやすくなり、俺もさっき分からなかった箇所を拾えた。
アンドリューハがまた違う言葉を歌ったが、今度は教えなかった。言い合っていると俺まで歌詞を見失う。
何周かするうち、歌の途中で息を継ぐ場所が分かってきた。足も、いちいち前の奴を見なくても合わせられた。
軍曹が振り返った時には、俺も歌っていた。
散歩が終わると、兵舎の前で夜の点呼になった。
名前を呼ばれた者が答える。自分の番が済んでも喋れない。全員の確認が終わり、翌日の指示を聞いてから中へ戻った。
俺は朝まで眠れる側ではなかった。
中隊の当番兵、ドネヴァーリヌイに割り当てられていた。入口の定位置に立つ番は交代で回り、俺は夜明け前を受け持つ。先に休めと言われたが、起こされることが分かっていると、横になっても時計が気になった。
ようやく眠ったところで肩を揺すられた。
「ケルジャコフ。交代だ」
服を直して廊下へ出た。眠っていた間に冷えた長靴が、足布越しでもひんやりする。前の兵士から引き継ぎ、中隊当直の軍曹へ報告して定位置に立った。
入口の脇には勤務の要領を掲げた台があり、近くの武器保管室は施錠されていた。当直の机には電話と勤務の書類が置かれ、照明が机の上だけを明るくしている。
誰が出入りしたかを見る。部外者を勝手に通さず、武器や物品が無断で持ち出されないよう注意する。騒ぎや異常があれば、中隊当直へ知らせる。
説明を聞いている間は、忘れそうなことがいくつもあった。
立ち始めると、何も起きなかった。
寝室から咳が聞こえ、しばらくしてベッドが鳴った。その後は、誰かのいびきが続いた。
壁の時計を見た。次に見ても、針は思っていたほど進んでいない。
俺は小さく呟いた。
「長えな」
机の向こうから軍曹が答えた。
「始まったばかりだ」
「聞こえたんですか」
「聞こえる声で言っただろ」
「何も起きませんね」
「そのまま引き継げればいい。前を見ていろ」
眠気を追い払おうと、靴の中で足の指を動かした。壁へ寄りかかりたいが、軍曹から丸見えだった。
昼間は人が行き来していた廊下も、今は床の艶が見えるほど空いている。朝から磨かされた場所だった。こんな時間まで眺めることになるとは思わなかった。
イヴァノヴォでは、夜中に起きているのは珍しくなかった。
酒を飲み、車に乗り、女と喋っていれば、帰る時間などすぐに来た。ここには時計しかない。しかも、それを見るたびに腹が立つ。
煙草を吸いに出ることもできなかった。箱は持っていても、火をつける場所まで行けない。
便所へ向かう兵士が寝室から出てきた。俺を見て立ち止まり、眠そうに聞いた。
「あとどれくらいだ」
「お前が代わってくれるなら今終わる」
「じゃあ、頑張れ」
そいつは便所へ消えた。戻ってきた時には、俺の方を見もしなかった。
しばらくして、また寝室の戸口で人影が動いた。
サーシャだった。テルニャシュカの裾を直しながら廊下へ出てきたので、俺は声を落とした。
「どうした」
「水を飲む」
「そっちへ行くのか」
「洗面所に用があるんだよ」
サーシャが俺の前を通った。昼間、新兵が床へ手をついていた場所を思い出した。
俺は呼び止めた。
「サーシャ。あの2人、今は寝てるのか」
「寝てる」
「見たのか」
「ああ。今、横を通ってきた」
俺は寝室の方を見た。ここからでは、奥のベッドまでは分からない。
サーシャは少し待ってから言った。
「何か聞こえたら、そこの当直に言え。お前はここを離れるなよ」
「お前に言われなくても分かってる」
「ならいい」
それで洗面所へ行った。
昼には揉めたくないと言っていたくせに、今は当直へ言えという。自分が間に入らずに済むなら、それでいいのかもしれない。
俺は机の軍曹を見た。書類へ何か書き込んでいる。洗面所で騒ぎが起きれば、ここまで聞こえるだろうか。
聞こえた時に考えればいい。
耳を澄ませると、蛇口の水が流れる音がした。止まってから足音が戻ってきた。
サーシャが俺の前で立ち止まった。
「眠そうだな」
「お前は寝てろよ。見てるだけで腹が立つ」
「もう少しで全員起きる」
「俺は交代だぞ」
「起床の仕事があるだろ。当番なんだから」
時計を見ると、確かに朝が近かった。
俺は当直の机へ顔を向けた。
「同志軍曹。交代したら休めますか」
「起床の後は洗面所を見ろ。寝室が空いたら掃除だ。休息は交代で取らせる」
「……了解しました」
サーシャが笑いかけたので、俺は睨んだ。
「何だよ」
「朝まで立てば終わりだと思ってたのか」
「寝る前に思い出させてくれりゃよかったな」
「思い出したら逃げたか?」
「お前を起こした」
サーシャは手を振り、寝室へ戻った。
ようやく次の兵士が来ると、俺は引き継ぎを済ませた。異常はなく、外へ出た者もいない。武器保管室の周辺も変わりなかった。
交代の兵士が定位置へ立った。
「何かあったか」
「便所と水飲み。あとは全員寝てた」
「静かだったんだな」
「時計の音まで聞こえたぞ」
当直へ報告し、入口を離れた。脚を曲げると膝の裏が張っている。
自分のベッドへ行き、腰を下ろしかけた時、照明が点いた。
入口から起床の声が響いた。
ベッドが次々に鳴り、毛布がめくられた。上段からアンドリューハが顔を出し、立っている俺を見た。
「今日は早いな」
「今まで当番だったんだよ」
「ああ。寝られたか」
「お前、何を聞いてた?」
こいつは答える代わりに欠伸をした。殴りたくなったが、俺まで欠伸が出た。
ルスランも起き、畳んであった服へ手を伸ばした。
「交代したのか」
「ああ。今から掃除だってよ」
「少し後なら休めるだろ」
「今がいいんだよ」
廊下から軍曹に呼ばれ、俺は返事をして戻った。
洗面所はすぐに男で埋まった。蛇口を奪い合い、濡れた手を振り、床へ水を落としていく。昨日、何度も拭いた場所だった。
俺は戸口で声を掛けた。
「床へ飛ばすな。流しの中でやれよ」
アンドリューハが歯ブラシを咥えたまま、こちらへ手を上げた。洗い終えると、俺の横で口を拭く。
「お前、朝からうるせえな」
「後で拭くのが俺だからだ」
「じゃあ、頼んだ」
背中を小突く前に逃げていった。
窓の外は、もうすっかり明るかった。皆が営庭へ出ると、俺はバケツへ水を汲んだ。
昨日は床を磨き、訓練で汚し、夜中は誰も踏まない床を見張った。今朝は、起きた連中が汚した分をまた拭く。
親父には、規則正しい生活をしていると書いてやってもよかった。
何時に寝ているかまで聞かれたら、返事は後回しにするつもりだった。




