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【打ち切り】チョーマ  作者: 近江もののふ


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第28話 気に入らねえな

 1993年、7月下旬。

 ロシア連邦、リャザン州、リャザン。

 第137親衛落下傘連隊。


 降下の地上教育が始まって4日目、朝食の後に渡されたのはバケツと雑巾だった。


 昨日まで吊帯が食い込んでいた脚の付け根は、まだ少し痛い。今日も吊られるのかと思っていたが、チェルノフは廊下の掃除道具入れを開けさせた。


 俺はバケツを受け取りながら聞いた。

「今日は掃除ですか」

「そうだ。寝台の下まで出してやる」

「午後は降下訓練ですか」

「目の前の仕事を始める前に、次の心配をするな」


 窓、床、洗面所、便所と担当が分けられた。寝室では寝具を上げ、床を傷つけないよう寝台を持ち上げて動かす。俺とアンドリューハは、同じ2段ベッドの両端へ回った。


 脚を下ろすと、今まで隠れていた床に埃の帯が残っていた。髪の毛と糸屑に混じり、潰れたマッチ箱がある。


 アンドリューハがそれを拾った。

「お前、ここで吸ってたのか」

「お前のベッドの下でもあるだろ」

「吸い殻はねえな」

「探すなよ。見つかったら俺たちのせいになるぞ」


 先に掃き集め、それから濡らして絞った雑巾で拭いた。床板の隙間へ埃が残り、端を指で押し込むと黒い筋になって出てくる。


 毎朝掃除していたはずなのに、寝台を動かすだけで別の部屋みたいだった。


 廊下では、長い柄のついた床磨きを兵士が往復させていた。塗り込んだ床用ワックスの臭いが寝室まで入り、洗面所の方からはバケツを置く音が続いている。


 俺が通路を拭き終えたところへ、便所担当の兵士が戻ってきた。濡れた長靴の跡が一つずつ残った。


 俺は雑巾を持ったまま顔を上げた。

「おい、そこを歩くな」

「ここを通らなきゃ戻れねえだろ」

「端を通れよ。今拭いたんだぞ」

「端も濡れてるじゃねえか」


 言われて見ると、確かに全部拭いていた。


 チェルノフが廊下から来て、靴跡を見た。

「ここは誰がやった」

「俺たちです。今、こいつが通りました」

「では、もう一度やれ。今度は通れるところを残せ」


 兵士が先へ行くのを待ち、また拭いた。


 その後は窓担当がバケツを運び、縁から水をこぼした。3度目には怒鳴る前にそいつへ雑巾を渡したが、チェルノフに俺も手伝えと言われた。


 午前中だけで、同じ床を何度も見ていた。


 最後の確認では、上級准尉が暖房器の裏へ指を入れた。抜いた指先に黒い汚れがついている。

「ケルジャコフ。ここだ」

「見えませんでした」

「今は見えただろ。落とせ」


 俺は屈み、鋳鉄の隙間へ雑巾を押し込んだ。外では汗が出るほど暑いのに、使ってもいない暖房のために、さらに汗をかいている。


 アンドリューハが横で笑ったので、チェルノフはそちらを向いた。

「コロトコフ。終わったなら洗面所を手伝え」

「まだ、こっちが残っています」

「ケルジャコフがやる。行け」


 笑いが消えた。


 上級准尉が離れると、俺は暖房器の下から顔を出した。

「次も笑えよ。便所まで行けるぞ」

「お前はそこの裏まで潜れ。まだ埃があるだろ」


 近くで窓枠を拭いていたルスランが笑った。俺たちがそちらを見ると、笑いながら雑巾を動かし続けた。


 昼食後は、被服と装備を並べさせられた。


 野戦服の破れ、ボタン、ベルトの傷み。長靴も脱いで見せ、足の皮が剥けていないか確かめられる。俺の踵は治っていたが、軍曹は前に擦れた場所まで見た。


 アンドリューハは、持参した靴下に穴が見つかった。


 軍曹が指先で広げた。

「いつからだ」

「今日、気づきました」

「では今日直せ」

「替えをもらえませんか」

「縫える穴だ。裁縫道具は持っているな」

「はい」

「使え」


 替えが出ると思っていたアンドリューハが、穴へ指を入れた。俺が煙草1本で縫ってやると言うと、軍曹の前でも構わず自分でやると答えた。


 残りの午後は隊列教練と体力訓練だった。


 朝に磨いた長靴へ砂がつき、腕立てで手をつけば袖口まで汚れる。終わる頃には、新しく縫った白い襟布も首の汗を吸っていた。


 兵舎へ戻る前、アンドリューハが自分の靴を見た。

「朝の仕事、もうやり直しかよ」

「床まで汚したら、そっちもだぞ」

「今日は窓から入るか」

「今度は窓拭きまで増える」


 入口で2人とも靴底の土を落とした。掃除した床を踏まれた時の腹立たしさだけは、よく分かるようになっていた。


 夕食前、洗面所へ向かうと、奥で何かが壁へ当たった。


 続いて、低い声が聞こえた。

「もう一度だ。聞こえなかったのか」


 アンドリューハも足を止めた。俺たちは流しの向こうを覗いた。


 古参兵が2人いた。片方は壁へ背を預け、もう片方は新兵の前へ立っている。新兵は頬を押さえかけた手を下ろし、床へ両手をついた。


 少し離れたところでは、別の新兵が古参の長靴を磨いていた。持ち主は椅子へ座り、テルニャシュカの腹を掻いている。


 開いた荷物袋の横に、煙草と菓子が出ていた。


 俺は入口から声を掛けた。

「何やってんだ」

「関係ない。行け」

「それ、そいつの荷物だろ」

「お前のじゃないだろうが」


 立っていた古参がこちらへ身体を向けた。床の新兵は顔を上げない。靴を磨いている方も、布を動かし続けていた。


 アンドリューハが俺の腕を引いた。

「チョーマ、よせ」

「まだ聞いただけだろ」


 背後から、今度は肩を掴まれた。


 サーシャだった。俺の横から洗面所を見て、それから廊下を指した。

「出ろ」

「何で俺が」

「ここで始めるな。来い」


 引かれるまま廊下へ出てから、手を払った。アンドリューハもついてきた。


 俺は洗面所を指した。

「俺には出ろって言って、あいつらには何も言わねえのか」

「お前が殴りかかりそうだったからだ」

「あいつらはもう殴ってるぞ」

「見たよ」


 サーシャは声を落としていた。いつものようには笑っていない。


「俺らも最初はやられた。靴も磨いたし、煙草も取られた」

「だから今度は自分らが取るのか」

「俺はお前に靴を磨かせてない」

「菓子は持っていこうとしただろ。仲間と3人で殴りやがって」


 サーシャが口を閉じた。


 あの時はチェルノフが来たから終わった。それを、こいつが自分からやめたことにされては困る。


 アンドリューハが洗面所へ目をやった。

「上級准尉を呼べばいいんじゃねえの」

「今ここにはいない。呼んで戻るまで、あいつらが同じことを続けてると思うか」

「なら当直は」

「本人が言えば動くだろうな」


 俺はサーシャへ向き直った。

「俺たちも見たぞ」

「言うなら、見たことを言え。ただ、お前が報告した後も、あの2人はここで寝るんだ」


 洗面所の方を見る。物音は止まっていた。


 初日の俺も、申告した後は同じ部屋だとチェルノフに言った。あの時の言葉を、今度はサーシャから聞かされていた。


 俺は声を低くした。

「じゃあ、黙ってろってことか」

「お前が今ここで喧嘩を始めても、あの2人が楽になるとは限らないって話だ」

「お前は何もしねえんだな」

「俺まであいつらと揉めたくない」


 それだけは、はっきりした答えだった。


 サーシャは俺たちを外の喫煙場所へ連れ出した。兵舎の壁沿いには、夕食の集合を待つ連中がいた。誰かが服をはたき、別の奴が煙草の火を借りている。


 あそこから少し離れただけで、いつもと同じだった。


 サーシャが箱を出し、俺へ向けた。

「吸うか」

「それも誰かから取ったのか」

「自分で買った」

「俺は自分のがある」


 胸ポケットから箱を出した。アンドリューハには1本やり、火をつけた。


 サーシャも何も言わず吸い始めた。


 しばらくして、さっきの新兵2人が兵舎から出てきた。片方は荷物袋を抱え、もう片方の頬は赤かった。


 俺が目を向けると、頬の赤い奴はすぐに顔を逸らした。2人とも立ち止まらず、兵舎の角を曲がっていった。


 追いかけて何と言えばいいのか、分からなかった。大丈夫かと聞けば、大丈夫だと答えそうだった。


 俺は煙を吐いた。

「気に入らねえな」

「俺に言っても仕方ないだろ」

「お前もやった側だから言ってるんだよ」


 サーシャは吸い殻を落とし、長靴で消した。


「お前の荷物には、もう触ってない」

「俺のだけなら、それでいいのかよ」


 返事はなかった。


 夕食の集合が掛かり、周りの兵士が煙草を消し始めた。サーシャも兵舎へ戻っていく。


 アンドリューハが俺の袖を引いた。

「行くぞ」

「ああ」


 列へ入ると、さっきの2人が前にいた。頬の赤い奴は、軍曹に聞かれる前に帽子を被り直した。


 俺はサーシャを捜したが、別の列に入ったらしく見えなかった。


 煙草をくれることと、人の荷物へ手を出さないことは、別の話だった。一本もらったくらいで忘れてやる必要はなかった。

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