第22話 自分でやれ
格闘訓練が終わり、マットを片づけていると、ルスランが反対側へ回ってきた。
「背中はどうだ」
「見りゃ分かるだろ。運べるよ」
「最初に倒れた後、しばらく起きなかったから聞いてるんだ」
俺は縫い直された持ち手を掴んだ。持ち上げると背中が痛んだが、先に下ろすのは嫌だった。
「お前が投げたんだぞ」
「倒れかけてから、無理に捻っただろ」
「倒れたくなかったんだよ」
「だから受け身を練習したんじゃないか」
2人で壁際まで運び、積んであるマットへ重ねた。表面を叩くと埃が上がり、高い窓から差す光の中を漂った。
ルスランが次のマットへ向かう前に、俺は呼び止めた。
「最初のは、何をしたんだ」
「どこのことだ」
「気づいたら倒れてた。俺が何をした時に、投げられると思ったんだよ」
ルスランは俺の顔を見た。
「もう一度勝負しろって話か?」
「違う。次も分からねえまま転がるのは嫌なんだよ」
「聞くだけじゃ、できるようにはならないぞ」
「聞かなきゃ、何を直すかも分かんねえだろ」
そこまで言うのは腹が立った。だが、2回とも同じように倒されたくせに、偶然だと言い張る方がみっともなかった。
ルスランは残っているマットを見てから、軍曹のところへ行った。壁の時計を見ていた軍曹が話を聞き、俺を手招きする。
「まだやるつもりか、ケルジャコフ」
「さっきの動きを教わりたいんです」
「勝負の続きなら認めんぞ」
「違います、同志軍曹」
軍曹は俺たちの足元を見た。
「投げるところまではやるな。ゆっくり動きを確かめろ。俺が出る時には終わりだ。マットも戻してから帰れ」
返事をして、片づけかけたマットを敷き直した。覆いの端がめくれると、ルスランが屈んで伸ばす。俺も隣の一枚を押し寄せ、隙間を詰めた。
軍曹は入口脇の机へ戻った。ほかの連中が出ていくたび、廊下の靴音が響いた。
今度は組んでも、ルスランは俺を倒さなかった。ゆっくり動き、途中で止まる。その状態で、自分の足元を見るように言われた。
立っているつもりだったが、あいつが少し動いただけで足を出さなければならなくなった。
ルスランが掴んでいた手を緩めた。
「さっきも、そこで踏ん張れなくなってた」
「そんなに崩れてたか」
「自分じゃ分からなかったんだろ」
「ああ。押してる間は、こっちが勝ってるつもりだった」
上着から手を離した。掴んでいたところに、俺の指の形で皺が残っている。
力を入れれば相手も押し返すものだと思っていた。ルスランは付き合わず、俺が倒れる方へ動かしていたらしい。
俺はもう一度組もうとした。
「今度は俺がやる」
「急ぐなよ。説明したところまでだぞ」
真似してみたが、ルスランは動かなかった。
さっきと同じつもりでやり直す。上着を握る指に力が入り、腕が疲れるだけだった。
「お前、踏ん張ってるだろ」
「立ってるだけだ。さっき言ったことを忘れてるぞ」
「やってるよ」
「今は腕で引っ張っただけだろ。一度、手を緩めろ」
壁際で笑い声がした。
アンドリューハが、脱いでいたベルトを片手に立っていた。
「銃の部品と違って、勝手には動いてくれねえな」
「見てるだけなら黙ってろ」
「俺にもやらせろよ」
「お前、昨日は嫌がってたじゃねえか」
「投げられるのは嫌だ。今はそこまでやらねえんだろ」
こいつはベルトを壁際へ置き、軍曹の方を見た。軍曹が加わっていいと言うと、さっさとマットへ上がってきた。
俺も最初から、勝負ではなく教わると言えばよかったのかもしれない。
ルスランはアンドリューハにも同じ動きを見せた。こいつも真似しようとして、俺と同じように止まった。
俺は横から声を掛けた。
「どうした。さっきは簡単そうに見てたろ」
「うるせえ。まだ始めたばかりだ」
「俺より先にできるんじゃなかったのか」
「そんなことは言ってねえよ」
ルスランが組んだ手を外した。
「喋ってる間は休んでいいか。俺も腕が疲れるんだ」
「分かったよ。もう一度頼む」
アンドリューハが言い、俺も黙った。
交代して何度かやるうち、ルスランの足が一歩動いた。俺はそこで手を止めた。
「今のでいいのか?」
「ああ。今はさっきよりよかった」
「お前がわざと動いたんじゃねえだろうな」
「だったら最初からそうして、帰ってるよ」
もう一度やると、今度は動かなかった。できたと思った直後なので、余計に腹が立った。
ルスランは最初の姿勢へ戻るように言った。教わったことを思い出そうとしていると、壁際の軍曹から、足元ばかり見るなと声が飛んだ。
上官が座っているだけでも、見ていないわけではないらしい。
終了を告げられる頃には、背中より腕の方が疲れていた。3人でマットを運び、めくれた覆いを直して壁へ寄せる。
アンドリューハがベルトを締めながらぼやいた。
「余計に疲れたぞ。もう夕食にしてくれねえかな」
「お前が混ざってきたんだろ」
「次は見てる」
「途中で気が変わっても入れねえからな」
体育館を出ると、風が濡れたテルニャシュカへ冷たかった。営庭では別の組が行進を続け、揃わない長靴の音に軍曹の号令が重なっていた。
俺は野戦服の襟を直し、ルスランへ追いついた。
「今の、また教えろよ」
「時間があればな」
「次は少しはできると思う」
「じゃあ、今日言ったことは覚えておけよ。毎回同じ説明をするのは嫌だからな」
偉そうな言い方だったが、今回は言い返さなかった。
背後からアンドリューハが肩へ腕を回してきた。
「素直になったな。2回投げられると違うもんだ」
「痛えから離せ」
「まだ痛むのか」
「お前が寄りかかるからだよ」
腕を払い落とすと、こいつは笑いながら離れた。
ルスランがこちらを見た。
「痛むなら診てもらえよ。次にやる時まで隠しておくな」
「分かってる。お前に投げられたって言っとく」
「軍曹も見てたんだから、そう言えばいいだろ」
少しも困った顔をしなかった。
兵舎へ戻ると、寝室には靴墨の臭いがしていた。窓際では長靴を磨く奴が肘をぶつけ合い、ベッドの縁では野戦服の襟から白布を外している。
俺も裁縫道具を出した。母さんが入れた小さな包みは、もう何度も開いている。出発の朝には、針の場所などどうでもいいと思っていた。
襟の内側から外した白布には、首に触れていたところへ茶色い筋がついていた。新しいポドヴォロトニチョクを当てると、古い方がどれほど汚れていたか分かった。
針へ糸を通そうとして、2度失敗した。さっきまで上着を握り締めていた指が、細かい仕事になると言うことを聞かない。
ルスランはもう縫い始めていた。俺はそちらへ椅子を少し寄せた。
「それも前からできたのか」
「ボタンくらいは自分でつけてた」
「俺は母さんに渡してたな」
「ここじゃ送っても、明日の朝までには戻らないぞ」
俺は針を窓の明かりへ向けた。今度は糸の先が通り、抜けないうちに反対側から引っ張った。
廊下では当直が、夕食の集合まであと何分か怒鳴っていた。隣の奴が急いで立ち上がり、開いた靴墨の缶を蹴りかける。アンドリューハが足で止め、礼を言えと催促した。
俺は白布を押さえて縫い始めた。ルスランのように同じ間隔にはならないが、外れなければいい。そう思って雑に進めかけ、襟の表へ針が出ていることに気づいた。
糸を戻してやり直す。誰かに直される前に気づいたのだから、まだましだった。
アンドリューハが横から針を差し出した。
「チョーマ、糸を通してくれ」
「自分でやれ」
「今できたんだから、ついでだろ」
「煙草1本」
「糞野郎。そんな仕事に1本も払えるか」
こいつは窓へ顔を近づけ、また糸の先を舐めた。
俺は自分の襟へ目を戻した。ルスランは金も煙草も取らずに教えてくれたが、針へ糸まで通してやったわけではない。
しばらくして、アンドリューハの手がまた伸びてきた。今度は針と煙草を一緒に持っていた。
俺は先に煙草を受け取った。




