第21話 8年
射撃場から戻ると、小銃を持ったまま教室へ入れられた。
机へ敷物を広げ、手入れを始める。朝も汚れは出たが、今度は布を替えても黒くなった。爪の脇に油が入り、額の汗を拭いた奴は、軍曹から顔まで汚すなと言われた。
開けた窓からは、営庭を走る車のエンジン音が聞こえた。風はほとんど入らず、教室には銃油と汗の臭いが溜まっていた。
チェルノフが隣の机で足を止めた。
「ここが残っている。もう一度だ」
「まだ駄目ですか」
「自分で見ろ。布にもついているだろう」
俺も拭き終えた部品を見直した。確認に来てから見つかると、また最初から疑われる。
アンドリューハは汚れた布を広げた。
「撃った時間より、こっちの方が長えぞ」
「あと5発欲しいって言ってたろ」
「掃除も増えるなら考える」
「撃つ前に聞いとけばよかったな」
こいつが布をこちらへ寄せたので、肘で押し返した。俺の敷物まで汚されてはたまらない。
アンドリューハが、俺の手元を覗いた。
「お前は飽きねえのか」
「またこれで撃つんだろ。途中で動かなくなったら嫌だ」
「教官を呼べばいいじゃねえか」
「お前が撃ってる横で、俺だけ待つのも嫌なんだよ」
ようやく確認が済み、番号を照合して小銃を返した。手を洗っても爪の黒さは残ったが、夕食の集合までに落とし切るのは諦めた。
食後、兵舎の外の喫煙場所へ行った。
赤く塗られた吸い殻入れの周りに兵士が集まり、一本の火を隣へ回していた。俺たちが入る場所を探していると、壁際でルスランが腕を伸ばしているのが見えた。
アンドリューハが煙草を咥えたまま声を掛けた。
「まだ運動かよ。今日の分じゃ足りねえのか」
「肩が張ってるんだ」
「俺なんか全身だぞ」
「じゃあ、お前も伸ばせばいい」
アンドリューハは断り、縁石へ腰を下ろした。俺も煙草に火をつけたが、ルスランが片腕を曲げ伸ばしするのを見ていた。
射撃でも懸垂でも負けたままだ。こいつが疲れた顔を見せないのも、気に入らなかった。
俺は煙を吐いてから聞いた。
「少し組んでみねえか。レスリングが得意なんだろ」
「ここでか?」
「殴らねえよ。組むだけだ」
「地面を見ろ。転んだら頭を打つぞ」
足元には砂利と吸い殻が散っていた。俺が靴先で小石をどけると、ルスランは腕を下ろした。
「場所を空けろって意味じゃない。明日の午後、格闘があるだろ。その時にやれ」
「じゃあ、相手はお前な」
「教官が組ませたらな」
アンドリューハが嬉しそうに俺たちを見比べた。
「俺、その組は見てるだけでいいぞ」
「お前も後でやれよ」
「何で俺までだ。今、口を出すんじゃなかった」
俺は吸い殻を消した。ルスランは初日の喧嘩を見ているが、あれは3人がかりだった。1対1ならどうなるか、まだ知らないはずだ。
翌日の午後、俺たちは体育館へ連れていかれた。
高い窓の下に木製の肋木が並び、天井からは登り綱が下がっていた。床の一角には厚いマットが敷き詰められ、継ぎ目の覆いだけ色が違う。壁には、組み合う兵士を描いた古い教材図が掛かっていた。
ルコパーシヌイ・ボーイ。予定表にあった格闘訓練だった。
担当の軍曹は俺たちより数歳上に見えた。野戦服を脱いだ上半身はテルニャシュカ姿で、太い腕が青と白の縞から出ている。チェルノフは入口近くで、全員が入るのを待っていた。
ベルトを外し、ポケットの中を空にするよう命じられた。小銭を出した奴が床へ一枚落とし、拾い終わるまで、その列だけ立ったまま待たされた。
軍曹がマットを指した。
「今日は組み方と受け身からだ。勝手に殴るな。教えた動作だけやれ。止めと言ったら、すぐに相手を放せ」
準備運動が終わると、倒れては起きる練習が始まった。
最初は低い姿勢からだった。それでも背中を落とすとマットの中の空気が押し出され、古い帆布の臭いが顔へ上がってきた。髪を短くした頭に埃がつき、手で払うと軍曹に次の動作へ戻された。
俺の近くで、倒れかけて手を突いた奴が止められた。軍曹は全員を座らせ、同じ動きをもう一度見せた。
「怖がって手だけで受けるな。怪我をすれば、お前だけでなく相手の練習も止まる」
俺も首の位置を直された。ルスランは一度で通され、今度は軍曹の相手をして見本までやっている。
早く組ませろよ、と思った。だが、立とうとすると、まだ座って見ていろと言われた。
やがて2人ずつになり、掴み合った状態で相手の体勢を崩す練習へ移った。マットの外では長靴を履いた軍曹が歩き、近づきすぎた組を離している。
相手を替える時、俺は軍曹を呼んだ。
「同志軍曹。アリエフと組んでもいいですか」
「何でだ」
「経験者なら教えてもらえるかと思って」
「さっきまでの説明では足りなかったか」
「実際に組んでみたいんです」
横でアンドリューハが顔を背けた。昨夜の話を知らないふりまで下手だった。
軍曹はルスランを呼び、俺たちをマットの中央へ立たせた。
「強く投げる必要はない。今教えたことを確かめるだけだ。ケルジャコフ、受け身を忘れるな」
ルスランが俺の前へ来た。
「教えてほしいんだって?」
「ああ。遠慮すんなよ」
「お前が軍曹の話を聞けよ」
合図で組んだ。
上着を掴んだ感触は、街の喧嘩と変わらなかった。相手の腕にも力が入っている。俺は先に押し込み、下がらせようとした。
足元が頼りなくなったと思った時には、背中がマットへ落ちていた。
息が詰まり、掴んでいた布が手から抜ける。ルスランは俺を見下ろし、すぐに離れた。
軍曹が間へ入った。
「そこまで。起きられるか」
「はい。もう一度お願いします」
「今、何をされた」
「分からなかったんで、もう一度」
「なら先に説明を聞け」
立つ位置から直された。軍曹はゆっくり動きを見せ、俺が踏ん張れなくなったところで止めた。
確かに、そこまで崩されてからでは戻せない。だから今度は、そうなる前に止めればいい。
次は突っ込まずに組んだ。ルスランの腕を掴み、足元にも気をつける。少し押すと相手が下がったので、そのまま進んだ。
また倒れた。
今度は何とか受け身を取ったが、マットへ落ちた衝撃で歯が噛み合った。周りから笑いが漏れ、顔が熱くなる。
俺は起き上がりながら軍曹を見た。
「もう1回お願いします」
「交代だ」
「まだできます」
「ほかの者も待っている。下がれ」
ルスランはもう次の相手を待っていた。
ここで掴みかかれば、軍曹に止められる。あいつに勝つどころか、マットから追い出されるだけだった。
「……了解しました、同志軍曹」
列へ戻ると、アンドリューハが場所を空けた。
「空挺に向いてるな、お前。よく飛んだ」
「次はお前を指名してやる」
「俺を倒しても、今の2回は消えねえぞ」
「笑ってろ。お前の番も来るからな」
ルスランは俺より大柄な男と組んだ。そいつが踏ん張ると無理に動かさず、いったん待つ。相手の方から動いたところで、またマットへ倒した。
腕の太さなら、倒された男の方が上だった。
俺は膝についた埃を払った。力が足りなかったと言い訳するのも、難しくなっていた。
街では最初に殴れば怯む奴がいたし、掴まれても振りほどけた。だが、さっきは何をすれば踏みとどまれたのか、それさえ分からなかった。
8年やっていたと言われても、昨日まではただ長いとしか思わなかった。
ルスランが次の相手と組んだ。アンドリューハが横から何か言ってきたが、俺は聞き返さなかった。
今度は、倒れる前の動きを見ておきたかった。




