↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【打ち切り】チョーマ  作者: 近江もののふ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/31

第21話 8年

 射撃場から戻ると、小銃を持ったまま教室へ入れられた。


 机へ敷物を広げ、手入れを始める。朝も汚れは出たが、今度は布を替えても黒くなった。爪の脇に油が入り、額の汗を拭いた奴は、軍曹から顔まで汚すなと言われた。


 開けた窓からは、営庭を走る車のエンジン音が聞こえた。風はほとんど入らず、教室には銃油と汗の臭いが溜まっていた。


 チェルノフが隣の机で足を止めた。

「ここが残っている。もう一度だ」

「まだ駄目ですか」

「自分で見ろ。布にもついているだろう」


 俺も拭き終えた部品を見直した。確認に来てから見つかると、また最初から疑われる。


 アンドリューハは汚れた布を広げた。

「撃った時間より、こっちの方が長えぞ」

「あと5発欲しいって言ってたろ」

「掃除も増えるなら考える」

「撃つ前に聞いとけばよかったな」


 こいつが布をこちらへ寄せたので、肘で押し返した。俺の敷物まで汚されてはたまらない。


 アンドリューハが、俺の手元を覗いた。

「お前は飽きねえのか」

「またこれで撃つんだろ。途中で動かなくなったら嫌だ」

「教官を呼べばいいじゃねえか」

「お前が撃ってる横で、俺だけ待つのも嫌なんだよ」


 ようやく確認が済み、番号を照合して小銃を返した。手を洗っても爪の黒さは残ったが、夕食の集合までに落とし切るのは諦めた。


 食後、兵舎の外の喫煙場所へ行った。


 赤く塗られた吸い殻入れの周りに兵士が集まり、一本の火を隣へ回していた。俺たちが入る場所を探していると、壁際でルスランが腕を伸ばしているのが見えた。


 アンドリューハが煙草を咥えたまま声を掛けた。

「まだ運動かよ。今日の分じゃ足りねえのか」

「肩が張ってるんだ」

「俺なんか全身だぞ」

「じゃあ、お前も伸ばせばいい」


 アンドリューハは断り、縁石へ腰を下ろした。俺も煙草に火をつけたが、ルスランが片腕を曲げ伸ばしするのを見ていた。


 射撃でも懸垂でも負けたままだ。こいつが疲れた顔を見せないのも、気に入らなかった。


 俺は煙を吐いてから聞いた。

「少し組んでみねえか。レスリングが得意なんだろ」

「ここでか?」

「殴らねえよ。組むだけだ」

「地面を見ろ。転んだら頭を打つぞ」


 足元には砂利と吸い殻が散っていた。俺が靴先で小石をどけると、ルスランは腕を下ろした。


「場所を空けろって意味じゃない。明日の午後、格闘があるだろ。その時にやれ」

「じゃあ、相手はお前な」

「教官が組ませたらな」


 アンドリューハが嬉しそうに俺たちを見比べた。

「俺、その組は見てるだけでいいぞ」

「お前も後でやれよ」

「何で俺までだ。今、口を出すんじゃなかった」


 俺は吸い殻を消した。ルスランは初日の喧嘩を見ているが、あれは3人がかりだった。1対1ならどうなるか、まだ知らないはずだ。


 翌日の午後、俺たちは体育館へ連れていかれた。


 高い窓の下に木製の肋木が並び、天井からは登り綱が下がっていた。床の一角には厚いマットが敷き詰められ、継ぎ目の覆いだけ色が違う。壁には、組み合う兵士を描いた古い教材図が掛かっていた。


 ルコパーシヌイ・ボーイ。予定表にあった格闘訓練だった。


 担当の軍曹は俺たちより数歳上に見えた。野戦服を脱いだ上半身はテルニャシュカ姿で、太い腕が青と白の縞から出ている。チェルノフは入口近くで、全員が入るのを待っていた。


 ベルトを外し、ポケットの中を空にするよう命じられた。小銭を出した奴が床へ一枚落とし、拾い終わるまで、その列だけ立ったまま待たされた。


 軍曹がマットを指した。

「今日は組み方と受け身からだ。勝手に殴るな。教えた動作だけやれ。止めと言ったら、すぐに相手を放せ」


 準備運動が終わると、倒れては起きる練習が始まった。


 最初は低い姿勢からだった。それでも背中を落とすとマットの中の空気が押し出され、古い帆布の臭いが顔へ上がってきた。髪を短くした頭に埃がつき、手で払うと軍曹に次の動作へ戻された。


 俺の近くで、倒れかけて手を突いた奴が止められた。軍曹は全員を座らせ、同じ動きをもう一度見せた。


「怖がって手だけで受けるな。怪我をすれば、お前だけでなく相手の練習も止まる」


 俺も首の位置を直された。ルスランは一度で通され、今度は軍曹の相手をして見本までやっている。


 早く組ませろよ、と思った。だが、立とうとすると、まだ座って見ていろと言われた。


 やがて2人ずつになり、掴み合った状態で相手の体勢を崩す練習へ移った。マットの外では長靴を履いた軍曹が歩き、近づきすぎた組を離している。


 相手を替える時、俺は軍曹を呼んだ。

「同志軍曹。アリエフと組んでもいいですか」

「何でだ」

「経験者なら教えてもらえるかと思って」

「さっきまでの説明では足りなかったか」

「実際に組んでみたいんです」


 横でアンドリューハが顔を背けた。昨夜の話を知らないふりまで下手だった。


 軍曹はルスランを呼び、俺たちをマットの中央へ立たせた。

「強く投げる必要はない。今教えたことを確かめるだけだ。ケルジャコフ、受け身を忘れるな」


 ルスランが俺の前へ来た。

「教えてほしいんだって?」

「ああ。遠慮すんなよ」

「お前が軍曹の話を聞けよ」


 合図で組んだ。


 上着を掴んだ感触は、街の喧嘩と変わらなかった。相手の腕にも力が入っている。俺は先に押し込み、下がらせようとした。


 足元が頼りなくなったと思った時には、背中がマットへ落ちていた。


 息が詰まり、掴んでいた布が手から抜ける。ルスランは俺を見下ろし、すぐに離れた。


 軍曹が間へ入った。

「そこまで。起きられるか」

「はい。もう一度お願いします」

「今、何をされた」

「分からなかったんで、もう一度」

「なら先に説明を聞け」


 立つ位置から直された。軍曹はゆっくり動きを見せ、俺が踏ん張れなくなったところで止めた。


 確かに、そこまで崩されてからでは戻せない。だから今度は、そうなる前に止めればいい。


 次は突っ込まずに組んだ。ルスランの腕を掴み、足元にも気をつける。少し押すと相手が下がったので、そのまま進んだ。


 また倒れた。


 今度は何とか受け身を取ったが、マットへ落ちた衝撃で歯が噛み合った。周りから笑いが漏れ、顔が熱くなる。


 俺は起き上がりながら軍曹を見た。

「もう1回お願いします」

「交代だ」

「まだできます」

「ほかの者も待っている。下がれ」


 ルスランはもう次の相手を待っていた。


 ここで掴みかかれば、軍曹に止められる。あいつに勝つどころか、マットから追い出されるだけだった。

「……了解しました、同志軍曹」


 列へ戻ると、アンドリューハが場所を空けた。

「空挺に向いてるな、お前。よく飛んだ」

「次はお前を指名してやる」

「俺を倒しても、今の2回は消えねえぞ」

「笑ってろ。お前の番も来るからな」


 ルスランは俺より大柄な男と組んだ。そいつが踏ん張ると無理に動かさず、いったん待つ。相手の方から動いたところで、またマットへ倒した。


 腕の太さなら、倒された男の方が上だった。


 俺は膝についた埃を払った。力が足りなかったと言い訳するのも、難しくなっていた。


 街では最初に殴れば怯む奴がいたし、掴まれても振りほどけた。だが、さっきは何をすれば踏みとどまれたのか、それさえ分からなかった。


 8年やっていたと言われても、昨日まではただ長いとしか思わなかった。


 ルスランが次の相手と組んだ。アンドリューハが横から何か言ってきたが、俺は聞き返さなかった。


 今度は、倒れる前の動きを見ておきたかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。