第17話 右と左と足布
食堂へ入った時には、飯が食えるなら何でもよかった。
奥の配膳口から湯気が流れ、食器を重ねた兵士が長い食卓の間を通っていた。スプーンが皿に当たる音へ、席を詰めろという声が重なる。
指定された席には白っぽい粥と、茶の入った金属のマグが置かれていた。卓の中央には切った黒パンが積まれている。座ると、隣の奴の肘が俺の腕へ当たった。
アンドリューハが粥の表面に張った膜をスプーンで破った。
「何を待ってる。さっきから腹が減ったってうるさかっただろ」
「冷めてんのかと思って」
「食えば分かる」
「……ぬるいな」
「だから早く食えよ。もっと冷めるぞ」
口へ運ぶと、柔らかい塊が舌に残った。俺は茶で流し込み、黒パンを取った。籠の底には小さな切れ端しかなく、向かいからルスランも手を伸ばしてきた。
俺は大きい方を取り、皿へ置いた。
「塩くらいねえのか」
「そっちにはない。俺の後ろにも置いてないぞ」
ルスランはそれだけ言って食べ続けた。隣の卓では、もう空になった皿が重ねられている。俺もスプーンを動かし、最後はパンで皿の底を拭った。
まだ入る。母さんの菓子を持ってくればよかった。
マグを傾けて残りの茶を飲んだところで、立てという声が掛かった。
食堂を出ると、昨夜の背が高い兵士が壁際で待っていた。唇の端が腫れ、乾いた血が黒く残っている。俺は少し離れて足を止めた。
男が俺の胸ポケットを指した。
「煙草を1本くれ」
「また俺から取るのか」
「聞いてるだろうが。持ってるのか、持ってねえのか」
「あるよ。1本だけだぞ」
箱から抜いて渡すと、男はポケットからマッチを出した。唇へ煙草を挟み、痛そうに位置をずらす。
「お前のせいで、あの後も寝られなかったぞ」
「俺の鞄を開けなきゃ済んだ話だろ」
「分かったよ。もう触らねえ」
男が風を避けて火をつけた。俺は箱をしまいかけ、その顔を見た。
「名前は」
「サーシャ」
「姓もあるだろ」
「今度はお前が俺の分まで報告するのかよ」
サーシャは答えず、煙を吐いて歩いていった。俺はその背中が角へ消えるまで見ていた。
少し先で待っていたアンドリューハが近づいた。
「よくやるな。昨日殴られた相手だぞ」
「勝手に持ってかなきゃ、1本くらい構わねえよ」
「また来るぞ」
「その時はお前にもらえって言っておく」
アンドリューハが悪態をつき、俺を追い越した。ポケットの箱を軽く押すと、残りの煙草が片側へ寄った。
まだ朝なのに、もう買い足す心配かよ。
朝食後は営庭で立ち方から教わった。
踵を揃え、つま先を開く。腕を下ろし、指を伸ばす。チェルノフが列の前を歩き、腹を突き出している奴や、顎を引きすぎている奴を直していった。
俺も胸を張り直した。襟の白い布が首へ擦れる。触ろうとすると、上級准尉の目がこちらへ動いたので手を戻した。
次は、その場での方向転換だった。
チェルノフが踵とつま先を使って向きを変え、もう片方の足を引きつけた。俺たちが続くと、長靴の底がばらばらにアスファルトを擦った。
上級准尉が俺の前で止まった。
「ケルジャコフ。足元を見るな。顔を前へ向けろ」
「了解しました、同志上級准尉」
顔を上げたまま回ると、揃えた足が少しずれた。直そうとしたところで次の号令が来て、また足元へ目が落ちた。
隣のアンドリューハも、俺の動きを見ていた。俺は前を向いたまま小声で言った。
「こっちを見るなよ。俺だってできてねえんだから」
「見てねえよ」
次の号令で、あいつだけが反対へ向いた。正面にその顔が来たので、俺は堪え切れずに吹き出した。
アンドリューハが歯を食いしばったまま言った。
「お前が喋るからだぞ」
「号令を聞けよ」
チェルノフがこちらへ歩いてきた。
「ケルジャコフ、コロトコフ。列を出ろ。人の失敗を笑えるなら、2人でやってみろ。ケルジャコフが号令だ」
「了解しました、同志上級准尉」
俺はアンドリューハと向き合った。後ろの連中がこちらを見ている。声を出そうと息を吸うと、上級准尉が顎で始めろと示した。
「右向け、右!」
アンドリューハが回った。足が揃う前に、俺は次を叫んだ。
「左向け、左!」
チェルノフが手を上げた。
「止めろ。相手が動き終わる前に次を掛けるな。予令で準備させてから、動かす号令を出せ。急いで怒鳴ればいいわけじゃない」
もう一度やった。今度は間が長くなり、アンドリューハが目だけを俺へ向けた。チェルノフに前を見ろと叱られ、列から笑い声が漏れた。
クソ。黙って見てろよ。
やり直して列へ戻ると、アンドリューハが肩を寄せた。
「お前が号令を掛ける方が、よっぽど面倒だ」
「俺ももうやりたくねえよ」
その後は歩かされた。
前の奴へ近づきすぎ、離れようと歩幅を縮めると後ろから踵を踏まれる。止まる号令が掛かっても、列の後ろではまだ足が動いていた。
日が高くなるにつれ、帽子の内側が湿った。列の向こうを別の兵士たちが通り過ぎる。俺たちと同じ長靴なのに、歩くたびに隣へぶつかっている奴はいなかった。
右の踵が痛み始めた。
足布の寄っていたところが擦れる。靴の中で足を動かしても逃げ場がなく、踵を浮かせ気味に歩いた。すぐに、足をきちんと下ろせと注意された。
休憩になると、俺は端へ座り、長靴を脱いだ。汗で湿った足布に、小さく血が滲んでいた。
アンドリューハが屈んだ。
「靴擦れか。お前、その靴は替えてもらったんだろ」
「靴じゃねえ。朝から布が固まってたんだよ」
「分かってたなら直せよ」
「やってたら遅れただろうが」
近くのルスランが俺の踵を見た。
「それ、診てもらえ。履き直す前に」
「皮が剥けただけだ」
「その上をまた擦るんだぞ。俺なら今のうちに行く」
剥けた皮の端へ指を近づけ、触らずに引っ込めた。長靴を持ち上げてみたが、すぐに足を入れる気にはなれなかった。
午後もこれで歩くのかよ。
俺は立ち上がり、片足を庇ってチェルノフのところへ行った。
「同志上級准尉。踵を擦りました。医務室へ行く許可をお願いします」
「見せろ。いつから痛んでいた」
「歩いている途中からです」
「それで足を引きずっていたのか。痛むなら、その時に言え」
上級准尉は傷と足布を見比べ、付き添いを呼んだ。俺は長靴を手に持ったまま、兵舎の脇を歩いた。
医務室では消毒薬の臭いがした。白衣を着た衛生兵に椅子を示され、足を上げる。踵を処置される間、俺は座面の縁を掴んでいた。
衛生兵が濡れた足布を広げた。
「ここに皺が寄っていたんだな。朝、巻いた時からか」
「急いでたんです。履けたから、そのまま出ました」
「明日も急ぐぞ。そのたびに足を潰すつもりか。こっちで巻いてみろ」
乾いた替えを渡された。足を置き、端を折って包む。踵の下へ布が寄ると、指でそこを押さえられた。
「ここを平らにしろ。立った時、お前の体重がかかるんだ」
ほどいて、もう一度巻いた。衛生兵は俺の手元を見ていて、終わるまで靴を渡さなかった。
「履いて歩け。痛むところは言え」
部屋の端まで歩き、戻った。傷は痛かったが、布の塊が押しつけられる感じはなくなっていた。
「さっきよりましです」
「濡れた方は戻ったら乾かせ。傷がひどくなるようなら、また来い」
営庭へ戻ると、アンドリューハが俺の足元を見た。
「歩けるようになったか」
「ああ」
「なら、午後もお前が前だな。今度は急に止まるなよ」
俺は返事をせず、指定された場所へ立った。
少しくらい座っていろと言われるかと思ったのに、足布を巻き直して戻ってきただけだった。




