第16話 朝飯の前に
起床の号令から3分も経たないうちに、寝室の通路は着替え途中の男で埋まった。ベルトを締めながら歩く奴が、屈んで長靴を履いている奴へぶつかる。
戸口では、忘れ物を取りに戻った男が押し返されていた。
俺はベッドの縁で足布を巻き直していた。昨日替えてもらった長靴は合っているが、踵の下で布が固まる。引き抜いた足へ巻き直すと、今度は爪先が余った。
先に出たアンドリューハが戻り、枕元の帽子を取った。俺は布の端を押さえたまま顔を上げた。
「もう戻ったのかよ」
「帽子を忘れた。お前、まだ履けねえのか」
「今、履くところだ。そこをどけ」
踵を押し込み、立ち上がった。2歩歩くと足裏に皺が当たったが、そのまま鞄をベッドの下へ蹴り込んだ。
もう直してる暇はねえ。
外はすっかり明るかった。白樺の葉から水滴が落ち、兵舎の前には踏み散らされた泥が残っている。先に出た連中も列を作り切れず、前へ詰めろ、そこは俺の場所だと言い合っていた。
チェルノフが腕時計から顔を上げた。
「7分12秒。最後の者が出るまで、それだけかかった。明日は5分以内だ。服と靴をどこへ置くか、今夜までに覚えろ」
俺の後ろから出てきた男が、帽子を被りながら列へ入った。上級准尉はその襟を指し、折れ込んだ部分を直させた。
あちこちでバックルが腹の中央へ動かされ、ボタンが掛け直された。俺も上着の裾を引いた。昨夜縫った白い襟布が片側だけ飛び出し、首へ擦れていた。
チェルノフが列の端へ移った。
「前の者について走れ。追い越すな。遅れた者も勝手に兵舎へ戻るなよ」
朝食前から、営庭を10周だった。
走り始めると、昨夜殴られた脇腹が鈍く痛んだ。息を吸い、吐く。前の奴の長靴が濡れた路面を叩き、細かい泥がズボンへ飛んだ。
まだ半分も走らないうちに、後ろの息遣いが荒くなった。俺は前のルスランとの間隔を詰めた。あいつは歩幅を変えず、曲がり角でも前を見ている。
俺は背中へ声を掛けた。
「お前、こういうのは慣れてるのか」
「喋ってると、また怒鳴られるぞ」
返す前に、後ろからチェルノフの声が飛んだ。
「ケルジャコフ! 口を閉じて走れ!」
帽子の下へ汗が流れた。俺は唇を拭き、その手を下ろした。
ほかにも喋ってる奴はいるだろうが。
背後のアンドリューハが、聞こえるかどうかの声で言った。
「もう声だけで分かるんだな」
「お前も覚えられたいのか」
「黙るよ」
走り終えても座れなかった。間隔を広げて身体を曲げ伸ばしし、腕立てと腹筋をさせられた。地面へついた手に砂が食い込む。左腕を曲げると、包帯の下が引き攣った。
鉄棒では2人ずつ懸垂をさせられた。
ルスランと並んでぶら下がる。握った棒は冷たく、塗装の剥げたところが指へ当たった。上着の裾が上がり、腹に朝の風が入る。
俺が1回上がる間に、隣も同じように顎を棒へ出した。下ろす時も身体を落とさず、脚がほとんど動かない。
途中から俺は膝を振った。下からチェルノフに止められた。
「ケルジャコフ、反動をつけるな。その分は数えんぞ」
脚を止めると、次は顎まで上がらなかった。もう一度引いたが、腕が震えるだけだった。
着地して指を開いた。ルスランはまだ続けていたが、やがて上級准尉が下りろと命じた。
「アリエフ。競技は何をやっていた」
「レスリングです、同志上級准尉」
「何年だ」
「8年です」
「そうか。列へ戻れ」
ルスランが横へ来たので、俺は手のひらを擦りながら尋ねた。
「何回だった」
「18」
「まだできただろ」
「下りろと言われたから下りた」
次にアンドリューハが棒を握った。俺はその脚を見ていた。膝を振り始めると、すぐチェルノフに注意された。
終わって戻ってきたあいつへ、俺は指を8本立てた。
「数えなくていいんだよ」
「頼まれなくても数えられる」
「自分の分も数えとけよ」
運動を終え、ようやく兵舎へ戻された。入口でチェルノフが泥を落とせと命じ、続けて洗面と寝台の整頓を言い渡した。
洗面に使えるのは3分だった。
長い流しには男が詰まり、蛇口の1つは捻っても細く水が垂れるだけだった。別の蛇口を囲んだ連中が、口をすすぐ順番で揉めている。
俺は歯ブラシを咥え、空いたところへ手を伸ばした。隣の男に肘で押された。
「まだ使ってるぞ」
「少し詰めろよ。水を取るだけだ」
「袖にかけるなよ」
冷たい水を掬い、口へ運んだ。頬の内側に沁みたが、顔をしかめるとまた水がこぼれる。流しの縁には、潰れた歯磨き粉のチューブが何本も置かれていた。
アンドリューハが肩越しに手を出した。
「石鹸を貸せ。持ってくるのを忘れた」
「帽子の次は石鹸かよ」
「返すから寄越せ。そこに置いてあるだろ」
石鹸を渡すと、あいつは俺の横へ腕を差し込んで洗い始めた。泡のついた水が袖へ飛んだ。
文句を言う前に、廊下から時間だと怒鳴られた。俺は石鹸を取り返し、濡れたままケースへ押し込んだ。
寝室では毛布が一斉に広げられていた。敷布を引くとマットレスまで動き、押し戻せば反対側が寄る。上段から垂れた布が、俺の頭へかかった。
俺は顔から払いのけた。
「おい、こっちへ落とすな」
「今、直してるんだよ。引っ張るな」
毛布の縁を合わせ、枕を置いた。通りかかったチェルノフが足を止める。
「ケルジャコフ。敷布が出ている。毛布の折り返しも揃えろ」
「どうせ夜には広げるのに……」
小声のつもりだった。上級准尉の手が毛布の下へ入り、丸まった靴下を引き出した。
「これはどこへしまう物だ」
「片づけます」
「先に寝具の上を空けろ。お前が脱いだ物まで俺に拾わせるな」
靴下を受け取り、鞄へ入れた。上段でアンドリューハが笑うと、チェルノフは顔を上げた。
「コロトコフ。お前も下りろ。その敷布では、寝返りを打っただけで抜ける。周りの者も見ておけ」
近くの連中が集められた。チェルノフは俺の枕を椅子へ移し、毛布を外した。マットレスを中央へ戻してから敷布を伸ばし、余った端を下へ入れる。
誰も喋らなかった。さっきまで自分の寝台を直していたルスランも、手を止めて見ていた。
上級准尉は毛布を掛け、左右を揃えた。
「先に下を直せ。上から押さえても、丸まった敷布は伸びん。順番を覚えろ」
俺は毛布の端を見ていた。あれだけ引っ張ったのに合わなかった幅が、今は揃っている。
チェルノフは整えた寝具を再び広げた。
「ケルジャコフ。やれ」
「了解しました」
まずマットレスを確かめ、敷布を伸ばした。反対側へ回ると、入れたはずの端が抜けていた。戻って押し込み直す。
腹が減った。毛布くらい、昨日のうちにやらせろよ。
アンドリューハが横から口を挟んだ。
「そっちを引きすぎだ。さっきと位置が違う」
「分かってる。踏んでるところをどけろ」
「ああ、悪い」
毛布からあいつの足が離れ、ようやく端が動いた。チェルノフに折り返しを直され、もう一度やったところで次へ進めた。
上段の番になると、俺は椅子へ寄りかかった。腹が鳴ったが、チェルノフはほかの寝台も見て回っていた。まだ半分ほどの連中が布を引っ張っている。
アンドリューハの敷布が、また俺の寝台へ垂れた。今度は掴み、下へ引かずに持ち上げてやった。
「そっちを入れろ。ここは押さえてる」
「もう少し持ってろ。奥まで届かねえ」
「早くしろよ。飯の時間までこれをやる気か」
あいつが身を乗り出し、敷布をマットレスの下へ押し込んだ。手を離しても、今度は落ちてこなかった。




