第15話 5分で外へ整列
1993年、6月。
ロシア連邦、リャザン州、リャザン。
第137親衛落下傘連隊。
寝室には鉄製の2段ベッドが並んでいた。窓は開いているが、汗と靴墨、湿った布の臭いが残っている。通路では新兵たちが鞄を避け合い、寝具を抱えて自分の場所を探していた。
アンドリューハが俺の横で立ち止まった。
「ここで全員寝るのか。夜中に便所へ行ったら、自分のベッドが分からなくなるぞ」
「俺の上だ。間違えて下へ来るなよ」
指定された下段へ鞄を置いた。ルスランは2つ隣で、敷布をマットレスの下へ入れている。俺も真似をしたが、片側を引くと反対側が抜けた。
腰を下ろすと、薄いマットレス越しに金網が沈んだ。枕元の小さな戸棚には、前に使っていた奴のものらしい鉛筆の落書きがあった。
アンドリューハが上段へ荷物を載せた。
「そこの戸棚、半分空けとけよ」
「分かってる。お前のパンまで入れるなよ。蟻が来る」
「お前こそ、屑を落とすな。バスでも膝の上にこぼしてただろ」
俺は鞄を開き、母さんの包みを探した。食い物をしまう前に、少し腹へ入れておきたかった。
その時、兵士が3人入ってきた。
先頭の背が高い奴は、色の抜けた野戦服を着ていた。襟の内側に白い布が覗き、ベルトのバックルだけが磨かれている。星の中の鎌と槌まで、灯りを受けて光っていた。
男は通路の鞄を靴先で押した。
「新入り。荷物をどけろ。ここはお前の家じゃねえぞ」
持ち主が慌てて引き寄せた。残りの2人は別々のベッドへ向かい、置かれた荷物を覗き始める。
背の高い男が俺の鞄から紙包みを抜いた。
「菓子か。茶を飲む時にもらうぞ」
「戻せよ。まだ俺が食ってねえ」
「新入りが独り占めか」
「食いたけりゃ聞け。勝手に持ってくな」
アンドリューハが寝台の梯子へ掛けた足を戻し、俺の肩を掴んだ。
「チョーマ、やめとけ。今は寝る支度をしろ」
「放せ。こいつと話してる」
手を払い、立ち上がった。男は包みを持ったまま、俺の胸を指で押した。
「姓は」
「ケルジャコフ」
「覚えたぞ。ここじゃ、先に入った者の言うことを聞くんだ」
「お前、俺の上官なのかよ」
胸を突かれ、膝の裏がベッドへ当たった。押し返した途端、頬へ拳が入った。
前の痣を殴られ、目に涙が滲んだ。俺も拳を振った。男の口元へ当たり、紙包みが床へ落ちる。
襟を掴まれた。俺はその手首を押さえ、空いた手で脇腹を殴った。男が身体を捻り、俺の肩が寝台の支柱へぶつかった。
横から腕を取られた。もう1人が腹を殴る。息が詰まり、腰が折れたところへ、後頭部を押さえつけられた。
クソ。離れて立っていた2人まで来やがった。
脚を突っ張り、腕を引き抜こうとした。傷が引き攣ったが、手を止めればまた腹へ食らう。俺は男の脛を蹴った。
戸口でチェルノフの声が響いた。
「手を離せ! そこの3人、後ろへ下がれ!」
腕を掴んでいた手が消えた。俺は身体を起こし、咳き込みながら男を睨んだ。
上級准尉は床の菓子を避けて近づいた。背の高い男が姿勢を正す。切れた唇を舐めかけ、途中でやめた。
チェルノフが男へ尋ねた。
「ここで何をしていた」
「新兵に、ここの決まりを教えていました」
「誰の指示だ」
「誰にも命じられていません」
「勝手に入ってきたのか。所属と姓を言え」
男が答える間、残りの2人も動かなかった。さっき俺を押さえていた奴は、ズボンの脇へ指を伸ばしている。
チェルノフが俺へ向き直った。
「ケルジャコフ。何があった」
「菓子を持っていかれそうになりました。返せと言ったら、殴られました」
「それで殴り返したか」
「はい」
上級准尉は床を指した。
「拾って持ち主へ返せ。3人とも、ほかの荷物から出した物があれば戻せ」
背の高い男が屈んだ。もう1人は上着のポケットから煙草を出し、後ろのベッドへ置いた。誰も礼は言わなかった。
返された包みを鞄へ入れると、俺も廊下へ出るよう命じられた。アンドリューハは倒れた俺の椅子を起こし、邪魔だと言って足で押し込んだ。
兵舎の外へ並ぶと、汗で湿った襟が冷えた。入口の灯りに虫が集まり、鉄格子の靴拭きには、俺たちが持ち込んだ泥が詰まっていた。
チェルノフが俺の腕を取った。
「包帯を見せろ。腹も殴られたな。息を吸えるか」
「吸えます」
「痛みがひどくなったら、すぐに報告しろ。顔も見せろ」
顎を持ち上げられ、唇と頬を見られた。包帯には新しい血は出ていなかった。
上級准尉は手を離し、兵舎脇の道を指した。
「4人で3周して戻れ。勝手に離れるな」
「了解しました、同志上級准尉」
走り出すと、足布の皺が土踏まずへ当たった。長靴の中で足を動かしてみたが、余計に布が寄るだけだった。
何で俺まで、こいつらと走らされるんだ。
横に並んだ男の切れた唇が見えた。俺が速度を上げると、向こうもついてくる。
兵舎の前から声が飛んだ。
「後ろを見ろ! 4人揃って戻れと言った!」
速度を落とした。男も落とす。肩が触れそうな距離だったが、口を開けばチェルノフに聞こえる。俺は前だけを見て走った。
3周して戻った時には、テルニャシュカが背中へ張りついていた。チェルノフは俺たちの息が整うのを待たず、3人を入口の脇へ並ばせた。
俺には寝室へ戻れと言った。
「今夜また何かあれば当直へ申告しろ。お前も、こいつらを捜しに行くな」
「了解しました」
階段を上がる途中、背後で叱責が始まった。振り返りかけたが、そのまま中へ入った。
アンドリューハは椅子へ座り、長靴を脱いでいた。
「よく戻れたな。今夜はずっと走らされるのかと思ったぞ」
「お前、俺の鞄に触ってねえだろうな」
「触ってねえよ。そんなに大事なら抱いて寝ろ」
「……菓子、食うか」
「今度は俺に金を払えって言うなよ」
俺は包みを開いた。割れたものを脇へ寄せ、形の残った1つを渡す。自分の分を噛むと、頬の内側が痛んだ。
アンドリューハは菓子を飲み込み、俺の鞄を指した。
「通路へ出すなよ。夜中に踏んでも知らねえからな」
鞄をベッドの下へ押し込んだ。さっきの奴が戻ってきても、すぐには手を入れられない位置まで寄せた。
2つ隣でルスランが毛布を広げた。
「声を落としてくれ。もう寝たい」
「お前、あんな騒ぎの後でも眠れるのか」
「今は誰も殴ってないだろ。話なら明日でもできる」
言い返す代わりに、残りの菓子を口へ入れた。半分も噛めず、舌で柔らかくなるのを待った。
洗面所には蛇口が並び、鏡の前で何人も口をすすいでいた。俺も冷たい水を含む。流しへ吐いた唾に、細く血が混じった。
鏡の中では、刈られた頭の下で片頬だけが腫れていた。
母さんへの手紙に、これは書かないでおこう。
寝室へ戻り、襟の内側へ白い布を縫いつけた。針を深く通しすぎ、外側まで糸が出た。ほどいている間に消灯の予告が来る。
母さんに針の場所を見せられた時、ちゃんと聞いておけばよかった。
上着とズボンを畳み、長靴を揃えて横になった。上段へアンドリューハが上がると、寝台全体が揺れた。俺は顔の向きを変え、痛む頬を枕から浮かせた。
消灯後も廊下の灯りは残った。咳と小声が続き、誰かが寝返りを打つ。戸口で靴音が止まるたび、俺は目を開けた。
次に起こされた時には、窓が明るかった。
チェルノフが通路を歩いてきた。
「起床! 全員起きろ! 5分で外へ整列!」
上段から脚が下りてきた。俺は身体を起こし、椅子へ手を伸ばした。
「何時だよ」
「5時半だ。どけ、靴を取る」
「寝たばっかりだろ」
「俺に文句を言うな」
ズボンへ脚を通し、上着を羽織った。急ぐとボタンが指から逃げる。ようやく留めたところで、足布が片方しかないことに気づいた。
椅子の下にも、鞄の上にもなかった。
廊下からチェルノフが怒鳴った。
「あと4分! 寝具は戻ってからだ!」
ベッドの下へ腕を突っ込み、丸まった布を引っ張り出した。巻くと踵へ皺が寄った。もう一度広げていると、アンドリューハが通路へ出た。
「先に行くぞ」
「待てよ」
「自分で何とかしろ。俺まで遅れたくねえ」
足音が遠ざかった。俺は布の端を引き、踵を押さえたまま長靴へ足を入れた。




