表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
契約結婚した冷血公爵様、私が逃げる素振りを見せるたびになぜか必死になるのですが?  作者: 月代


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/10

第9話 契約書を、私は破りませんでした


城に戻って、数日が、過ぎた。


エマは、護衛つきで、ハーゲン家に送り返した。

別れ際、エマは、私の手を、握って、笑った。


「お姉さま、もう、私のために、無理をしないで。

お姉さまは、お姉さま自身のために、生きてください」


十五の妹が、私に、そう、言った。


私は、頷いた。

頷きながら、ようやく、自分のために、生きていい、と思えた。



王都から、便りが、届いた。


王家の、印。


──アルブレヒト侯爵、爵位停止。

──レーヴェンブルク領鉱山の権利、すべて、レーヴェンブルク家に返還。

──アルブレヒト侯爵による、ハーゲン子爵への不当な高利貸付の経緯、調査中。


私は、便りを、机に置いた。


侯爵の手は、もう、私たちには、届かない。


それで、終わり。

始まりが、ようやく、始まる。



私は、書斎の、引き出しから、契約書の写しを、取り出した。


紙は、まだ、新しかった。

インクの、滲み一つ、なかった。


──三年の継続後、両者の合意により、離縁を可とする。


その一行を、私は、もう一度、読んだ。


それから、紙を、丁寧に、畳んだ。



書斎の扉を、ノックした。

三回。

礼儀正しく、間隔を空けて。


「リーゼロッテです」

私は、言った。

「お話が、あります」


少しの沈黙の後、扉の向こうから、声がした。


「入ってくれ」


私は、扉を、開けた。


彼は、机の前に、座っていた。

書類の、山。

ペンを、握ったまま。

彼は、ペンを、置いた。


私は、扉を、閉めた。

彼の、机の前まで、歩いた。


「公爵様」

「うん」

「これを、ご覧ください」


私は、契約書の写しを、机の上に、置いた。


彼が、それを、見た。

そして、私を、見た。


「リーゼロッテ」

彼の、声が、わずかに、固くなった。

「これは」

「最後まで、聞いてください」


私は、息を、吸った。


「この契約書を、私、破ろうかと、思いました」


彼の、肩が、ぴくり、と動いた。

顔から、また、血の気が、引きかけた。

夜会の朝、馬で追ってきたときの、青さに、近かった。


私は、急いで、続けた。


「でも、破りません」


彼が、息を、止めた。


「公爵様」

私は、契約書の、その一行を、指で、押さえた。

「ここを、もう一度、読んでください」


彼が、紙に、目を、落とした。


「『三年の継続後、両者の合意により、離縁を可とする』」

彼が、低く、読み上げた。

「ああ」

「私は、三年後」

私は、言った。

「合意、しません」


彼が、ゆっくり、顔を、上げた。


氷青の瞳が、私を、見ていた。

動かなかった。


「もう一度、言ってくれ」

彼は、言った。


「私は」

私は、繰り返した。

「三年後、合意しません」


彼が、ペンを、握りしめた。

ペンの、軸が、彼の指の中で、わずかに、撓んだ。


「リーゼロッテ」

彼の、声が、低かった。

「それは」


「義務感ではありません」

私は、先回りした。

「義務感で、こんなこと、言いません。

私、媚びるのが、苦手なんです」


彼が、息を、吐いた。

吐いて、それから、初めて、笑った。


小さな、口の端の、ほんのわずかな動き。

笑った、と分類してもいい、ぎりぎりの動き。


それでも、笑ったのだと、私は、確信した。

根拠は、目尻の、皺の入り方だった。


私の、唇も、緩んだ。


二人で、笑った。

たぶん、初めて、二人で。



「リーゼロッテ」

「はい」

「私は、君を、十六年、想ってきた」


彼が、机から、立ち上がった。


「だが、今は、十六年前の少女ではなく」

彼は、机を、回って、私の前に、来た。

「今の、君を、もっと、想っている」


そして、彼は、私の前に、片膝を、ついた。


絨毯の上に。

頭を、下げないで。

私を、見上げた。


「触れても、いいだろうか」


私は、頷いた。


「もう、何度でも」


彼が、ゆっくり、立ち上がった。


そして、片手で、私の頬に、触れた。


初めての、彼の手の、温度。

冷たくは、なかった。

熱くも、なかった。

ちょうどいい、人の温度だった。


私は、目を、閉じた。


彼の額が、私の額に、触れた。


唇では、ない。

額と、額。


それだけ、だった。


それだけだったけれど、十六年が、その一点に、ぜんぶ、集まっている気が、した。



少しして、彼は、額を、離した。


私の目を、見た。

私の頬から、まだ、手を、離さなかった。


「リーゼロッテ」

「はい」

「契約書は、どうする」


私は、机の上の、契約書を、見た。


「破りません」

私は、言った。

「破ったら、あの日の、私の決断まで、なくなってしまう。

私は、あの日、自分でサインしました」


彼が、頷いた。


「ですから」

私は、続けた。

「破る、のではなく、もう一枚、加えていただけませんか」


「加える」

「はい」

「どんな、一文を」


私は、机の、新しい紙の束に、手を伸ばした。


紙は、すでに、机の上に、用意されていた。

ペンも、インクも。


──マーレン、ね。


私は、心の中で、ふくよかな侍女頭に、頭を下げた。



私は、紙を、一枚、取った。

これは、追記のための、紙だ。

ペンを、握った。


書いた。


『両者は、互いを、生涯の伴侶とする。

契約は、更新されない。

なぜなら、永続するからである。』


書き終えて、私は、ペンを、彼に、渡した。


彼が、ペンを、握った。


しばらく、紙を、見つめていた。


それから、私の名前の、隣に、彼の名前を、書いた。


エイベル・フォン・レーヴェンブルク。


整った、固い字。

私が、契約書で、初めて見た、あの字。


二つの名前が、紙の上で、並んだ。



彼が、ペンを、置いた。


私を、もう一度、見た。


「リーゼロッテ」

「はい」

「ありがとう」


私は、首を、振った。


「お礼を、言われることでは、ないと、思います」

「そうか」

「はい」

「では、別の言葉を、言う」


彼は、息を、吸った。


「愛している」


私は、息を、止めた。


止めて、それから、笑った。

笑いながら、また、目の奥が、熱くなった。


「私も」

私は、言った。

「公爵様を、好きになる、努力を、するつもりでした。

でも、たぶん、もう、好きです」


彼が、ほんのわずか、目を、見開いた。


「努力、ではないのか」

「いえ、もう少し、努力もします」

「では、どちらだ」

「どちらも、です」


彼が、また、わずかに、笑った。


「君は、聡い」

「公爵様ほどでは、ありません」


二人で、笑った。


笑いながら、私は、彼の、肩の包帯に、目を、やった。


「公爵様」

「うん」

「肩の傷、まだ、痛みますか」

「もう、ほとんど」

「あとで、薬を、塗らせてください」

「ああ」


それだけの、会話だった。


それだけの会話を、もう、何百回も、これからしていくのだ、と思った。



書斎の、窓の外。


北方の、遅い春の、最初の花が、咲きかけていた。


白い花だった。

五枚の、花びらは、なかった。

それでも、咲きかけの、その花を、私は、長く、見つめた。


彼が、私の隣に、立った。

肩が、触れた。


「リーゼロッテ」

「はい」

「もう、逃げないか」


私は、首を、振った。


「もう、逃げません」

「そうか」

「ですから、公爵様も」

「うん」

「私が部屋を出るたびに、青ざめないでくださいね」


彼が、初めて、声を出して、笑った。


短い、低い笑い。

それでも、笑いだった。


「努力する」


彼は、言った。


「お互い、努力ですね」

「ああ」


私たちは、もう一度、額を、合わせた。


窓の外で、春の風が、咲きかけの花を、揺らした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ