第9話 契約書を、私は破りませんでした
城に戻って、数日が、過ぎた。
エマは、護衛つきで、ハーゲン家に送り返した。
別れ際、エマは、私の手を、握って、笑った。
「お姉さま、もう、私のために、無理をしないで。
お姉さまは、お姉さま自身のために、生きてください」
十五の妹が、私に、そう、言った。
私は、頷いた。
頷きながら、ようやく、自分のために、生きていい、と思えた。
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王都から、便りが、届いた。
王家の、印。
──アルブレヒト侯爵、爵位停止。
──レーヴェンブルク領鉱山の権利、すべて、レーヴェンブルク家に返還。
──アルブレヒト侯爵による、ハーゲン子爵への不当な高利貸付の経緯、調査中。
私は、便りを、机に置いた。
侯爵の手は、もう、私たちには、届かない。
それで、終わり。
始まりが、ようやく、始まる。
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私は、書斎の、引き出しから、契約書の写しを、取り出した。
紙は、まだ、新しかった。
インクの、滲み一つ、なかった。
──三年の継続後、両者の合意により、離縁を可とする。
その一行を、私は、もう一度、読んだ。
それから、紙を、丁寧に、畳んだ。
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書斎の扉を、ノックした。
三回。
礼儀正しく、間隔を空けて。
「リーゼロッテです」
私は、言った。
「お話が、あります」
少しの沈黙の後、扉の向こうから、声がした。
「入ってくれ」
私は、扉を、開けた。
彼は、机の前に、座っていた。
書類の、山。
ペンを、握ったまま。
彼は、ペンを、置いた。
私は、扉を、閉めた。
彼の、机の前まで、歩いた。
「公爵様」
「うん」
「これを、ご覧ください」
私は、契約書の写しを、机の上に、置いた。
彼が、それを、見た。
そして、私を、見た。
「リーゼロッテ」
彼の、声が、わずかに、固くなった。
「これは」
「最後まで、聞いてください」
私は、息を、吸った。
「この契約書を、私、破ろうかと、思いました」
彼の、肩が、ぴくり、と動いた。
顔から、また、血の気が、引きかけた。
夜会の朝、馬で追ってきたときの、青さに、近かった。
私は、急いで、続けた。
「でも、破りません」
彼が、息を、止めた。
「公爵様」
私は、契約書の、その一行を、指で、押さえた。
「ここを、もう一度、読んでください」
彼が、紙に、目を、落とした。
「『三年の継続後、両者の合意により、離縁を可とする』」
彼が、低く、読み上げた。
「ああ」
「私は、三年後」
私は、言った。
「合意、しません」
彼が、ゆっくり、顔を、上げた。
氷青の瞳が、私を、見ていた。
動かなかった。
「もう一度、言ってくれ」
彼は、言った。
「私は」
私は、繰り返した。
「三年後、合意しません」
彼が、ペンを、握りしめた。
ペンの、軸が、彼の指の中で、わずかに、撓んだ。
「リーゼロッテ」
彼の、声が、低かった。
「それは」
「義務感ではありません」
私は、先回りした。
「義務感で、こんなこと、言いません。
私、媚びるのが、苦手なんです」
彼が、息を、吐いた。
吐いて、それから、初めて、笑った。
小さな、口の端の、ほんのわずかな動き。
笑った、と分類してもいい、ぎりぎりの動き。
それでも、笑ったのだと、私は、確信した。
根拠は、目尻の、皺の入り方だった。
私の、唇も、緩んだ。
二人で、笑った。
たぶん、初めて、二人で。
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「リーゼロッテ」
「はい」
「私は、君を、十六年、想ってきた」
彼が、机から、立ち上がった。
「だが、今は、十六年前の少女ではなく」
彼は、机を、回って、私の前に、来た。
「今の、君を、もっと、想っている」
そして、彼は、私の前に、片膝を、ついた。
絨毯の上に。
頭を、下げないで。
私を、見上げた。
「触れても、いいだろうか」
私は、頷いた。
「もう、何度でも」
彼が、ゆっくり、立ち上がった。
そして、片手で、私の頬に、触れた。
初めての、彼の手の、温度。
冷たくは、なかった。
熱くも、なかった。
ちょうどいい、人の温度だった。
私は、目を、閉じた。
彼の額が、私の額に、触れた。
唇では、ない。
額と、額。
それだけ、だった。
それだけだったけれど、十六年が、その一点に、ぜんぶ、集まっている気が、した。
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少しして、彼は、額を、離した。
私の目を、見た。
私の頬から、まだ、手を、離さなかった。
「リーゼロッテ」
「はい」
「契約書は、どうする」
私は、机の上の、契約書を、見た。
「破りません」
私は、言った。
「破ったら、あの日の、私の決断まで、なくなってしまう。
私は、あの日、自分でサインしました」
彼が、頷いた。
「ですから」
私は、続けた。
「破る、のではなく、もう一枚、加えていただけませんか」
「加える」
「はい」
「どんな、一文を」
私は、机の、新しい紙の束に、手を伸ばした。
紙は、すでに、机の上に、用意されていた。
ペンも、インクも。
──マーレン、ね。
私は、心の中で、ふくよかな侍女頭に、頭を下げた。
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私は、紙を、一枚、取った。
これは、追記のための、紙だ。
ペンを、握った。
書いた。
『両者は、互いを、生涯の伴侶とする。
契約は、更新されない。
なぜなら、永続するからである。』
書き終えて、私は、ペンを、彼に、渡した。
彼が、ペンを、握った。
しばらく、紙を、見つめていた。
それから、私の名前の、隣に、彼の名前を、書いた。
エイベル・フォン・レーヴェンブルク。
整った、固い字。
私が、契約書で、初めて見た、あの字。
二つの名前が、紙の上で、並んだ。
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彼が、ペンを、置いた。
私を、もう一度、見た。
「リーゼロッテ」
「はい」
「ありがとう」
私は、首を、振った。
「お礼を、言われることでは、ないと、思います」
「そうか」
「はい」
「では、別の言葉を、言う」
彼は、息を、吸った。
「愛している」
私は、息を、止めた。
止めて、それから、笑った。
笑いながら、また、目の奥が、熱くなった。
「私も」
私は、言った。
「公爵様を、好きになる、努力を、するつもりでした。
でも、たぶん、もう、好きです」
彼が、ほんのわずか、目を、見開いた。
「努力、ではないのか」
「いえ、もう少し、努力もします」
「では、どちらだ」
「どちらも、です」
彼が、また、わずかに、笑った。
「君は、聡い」
「公爵様ほどでは、ありません」
二人で、笑った。
笑いながら、私は、彼の、肩の包帯に、目を、やった。
「公爵様」
「うん」
「肩の傷、まだ、痛みますか」
「もう、ほとんど」
「あとで、薬を、塗らせてください」
「ああ」
それだけの、会話だった。
それだけの会話を、もう、何百回も、これからしていくのだ、と思った。
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書斎の、窓の外。
北方の、遅い春の、最初の花が、咲きかけていた。
白い花だった。
五枚の、花びらは、なかった。
それでも、咲きかけの、その花を、私は、長く、見つめた。
彼が、私の隣に、立った。
肩が、触れた。
「リーゼロッテ」
「はい」
「もう、逃げないか」
私は、首を、振った。
「もう、逃げません」
「そうか」
「ですから、公爵様も」
「うん」
「私が部屋を出るたびに、青ざめないでくださいね」
彼が、初めて、声を出して、笑った。
短い、低い笑い。
それでも、笑いだった。
「努力する」
彼は、言った。
「お互い、努力ですね」
「ああ」
私たちは、もう一度、額を、合わせた。
窓の外で、春の風が、咲きかけの花を、揺らした。




