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契約結婚した冷血公爵様、私が逃げる素振りを見せるたびになぜか必死になるのですが?  作者: 月代


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8/10

第8話 16年前の森の話を、私は知らないのです


朝。


街道沿いの、小さな安宿。


エマは、隣の部屋で、まだ、眠っていた。

昨夜、私の腕の中で、子供のように泣いて、それから、ようやく、眠った。


私は、宿の食堂で、テーブルに着いていた。


向かいに、公爵。

肩に、白い包帯。

シャツの袖は、片方だけ、ゆるくまくられていた。


その隣に、ユリアン。

昨夜のうちに、宿の主人に、湯と毛布と薬草を頼んでくれた人。

今朝も、目は、すっきりと、開いていた。


テーブルの中央に、革の、小さな水筒が、置かれていた。



「公爵様」


私は、口を、開いた。


「これを、お返しします」


私は、水筒を、テーブルの上で、彼のほうへ、押した。


公爵は、それを、見つめた。

手を、伸ばさなかった。


長い、沈黙。


ユリアンが、椅子に、座り直した。

それから、私を、見た。


「奥様」

「はい」

「兄上が、十歳のときの話、聞いてもらってもいい?」


公爵が、ユリアンを、見た。

止めるのか、と私は思った。


止めなかった。


ただ、目を、伏せた。

小さく、頷いた。


ユリアンは、息を、吸った。


「これからする話は、兄上から、何度も聞かされた話だから、俺も、覚えてる」

彼は、前置きをした。

「十六年前」

彼は、続けた。

「レーヴェンブルク家の、秋の狩猟会」


私は、頷いた。

聞く準備を、した。


「兄上は、十歳。

父上に連れられて、初めて、狩猟会に参加した。

森の、奥のほう。

獲物を追って、はぐれた」


ユリアンの声には、いつもの軽さが、なかった。

落ち着いた、低い声だった。


「二日、見つからなかった」

彼は、続けた。

「秋の雨。

夜、冷えた。

兄上は、当時、体が、強くなかった」


私は、息を、詰めた。


「三日目の、朝」

ユリアンは、言った。

「兄上は、森の境界で、見つかった。

意識は、あった。

肩から、革の水筒を、かけていた」


私は、テーブルの上の、水筒を、見た。


「水筒は、家のものでは、なかった。

誰かに、もらった、と兄上は、言った。

小さな女の子に、と」


私の心臓が、強く、打ち始めた。


「兄上の話によると」

ユリアンは、続けた。

「森の、湿った崖の下で、震えていたところに、その子が、来た。

ハーゲン家の領、その境界近く。

ハーゲン子爵領は、レーヴェンブルク領と、森を挟んで、隣接している」


私は、目を、閉じた。

記憶の、引き出しを、慌てて、開けた。


「水筒の水を、飲ませてくれた」

ユリアンが、言った。

「黒パンを、分けてくれた。

領境への道を、教えてくれた」


──黒パン。


私の中で、何かが、ちらりと、光った。


私は、黒パンを、よく、持って歩いていた。

祖母が、いつも、私のかばんに、入れてくれた。

道で、誰かに会ったら、分けてあげなさい、と。


「その子は」

ユリアンが、続けた。

「名乗らなかった。

ただ、水筒を、置いていった」


公爵が、初めて、口を、開いた。


「家に、帰れるよ」

彼は、言った。

「歩ける?

そう、聞かれた」


私は、彼を、見た。


「私は、頷いた」

公爵は、続けた。

「歩ける、と。

彼女は、笑った。

水筒は、これあげる、と」


彼の、氷青の瞳が、私を、見ていた。


「彼女の、ドレスの裾に」

彼は、言った。

「白い花の、刺繍が、あった」


私は、自分の、膝の上を、見た。


膝の上の、両手が、震えていた。



私は、息を、吸った。

ゆっくり、吐いた。

もう一度、吸った。


「公爵様」

「うん」

「私の、祖母が」

私は、言った。

「孫娘の持ち物に、よく、白い花の刺繍を、入れていました」


「知っている」

公爵は、言った。

「君の家を、突き止めた、後に。

祖母君が、刺繍上手で、有名な方だった、と」


私は、頷いた。


「私は、その秋」

私は、続けた。

「祖母の家に、預けられていました。

ハーゲン領の、北の、森近くの、村」

「ああ」

「祖母は、私のかばんに、いつも、黒パンを、入れていました」


公爵は、頷いた。


「そして」

私は、声を、絞り出した。

「水筒に、入れていた水を、知らない子に、何度か、あげたことがあります」


私は、顔を上げた。


公爵を、見た。


「ですが」

私は、言った。

「私は」


ここから、先を、言うのが、辛かった。

それでも、言うべきだ、と思った。


「あの森で、男の子に水筒をあげた、特別な日のことは」

私は、言った。

「覚えて、いないのです」


公爵の目が、私を、まっすぐ、見ていた。


「いくつもあった、親切のひとつでした」

私は、続けた。

「私には、特別では、なかったのです」


涙が、また、こぼれた。

昨夜と、違う種類の、涙だった。


「ごめんなさい」


私は、頭を、下げた。


「公爵様にとっては、十六年の話だったのに。

私は、それを、覚えていません」


長い、長い、沈黙。


ユリアンが、静かに、席を、立った。

食堂を、出ていった。

扉が、静かに、閉まった。


公爵と、私だけになった。



公爵が、テーブルの上に、片手を、置いた。


私の手の、すぐ、近く。

触れなかった。

近づけただけだった。


「リーゼロッテ」

「はい」

「謝らないでくれ」


私は、顔を、上げた。


公爵の、氷青の瞳が、いつもより、柔らかく、見えた。

根拠は、目尻の、わずかな、緩み。


「君が、覚えていないから、美しいのだ」


彼は、言った。


「君は、見返りを、求めて、私に、水を、くれたのではない。

覚えるほどのこと、と、思わなかったから、忘れた。

それが、君の、優しさだ」


私は、首を、振った。


「公爵様」

「うん」

「では、初夜に、私に触れない、と言われたのは」

「君に、愛されることを、望まなかったからだ」


公爵の、声が、静かだった。


「君は、借金のかたに、連れてこられた。

私を、選んだのではない。

私が、君を、十六年、想っていた、と知れば、君は、断れない。

拒む権利を、奪うことになる」


私は、息を、詰めた。


「だから、私は」

彼は、続けた。

「触れない、と決めた。

三年で、君を、自由にする、と決めた。

それが、せめてもの、誠意だった」


──だから、書斎で「不要だ」と言ったのですね。

──だから、孤児院でも、領主の顔をしていたのですね。


私の中で、いくつもの、点が、つながった。

夜会で、私に「身軽でいられるように」と言ったのも。

机を、自分で、磨いたのも。

ドレスの色を、指定したのも。


ぜんぶ、繋がった。


胸の中の、小さな積もりが、ようやく、一つの、形になった。


それは、愛、と呼ぶには、彼があまりに不器用な、けれど、確かに、私を、想う気持ちだった。



私は、両手で、顔を、覆った。


「公爵様」

「うん」

「私、覚えていなくて、ごめんなさい」

「謝らないで、と言った」

「でも」

「リーゼロッテ」


公爵の、声が、低かった。


「私は、君に、覚えていてほしくて、こうしているのでは、ない。

私は、君に、私を、選んでほしいと、思っているのでも、ない」


私は、顔を、上げた。


「私は」

彼は、言った。

「君が、幸せで、あってほしい」


涙が、また、こぼれた。


私は、何も、言えなかった。


ただ、テーブルの上の、彼の手の、すぐ近くに、自分の手を、置いた。


触れる、その手前、まで。


公爵は、その距離を、見ていた。


何も、言わなかった。

ただ、目を、伏せた。

彼の睫毛が、わずかに、濡れていた、ように、見えた。


根拠は、朝の光の、反射の仕方だった。

気のせいかも、しれない。


それでも、私は、その光景を、忘れない、と思った。



しばらくして。


私は、テーブルの上の、水筒を、見つめた。


「公爵様」

「うん」

「この水筒は、お返しします」


公爵が、目を、上げた。


「ですが」

私は、続けた。

「お返ししたら、もう一度、私から、お渡ししてもよろしいですか」


公爵が、息を、止めた。


「今度は、ハーゲン家の、リーゼロッテとして。

顔を、覚えて、お渡ししたいのです」


公爵が、何か、言おうとして、言葉に、ならなかった。


私は、水筒を、彼のほうに、押した。

それから、もう一度、手を伸ばして、自分のほうに、引いた。


そして、テーブルの真ん中で、彼の手のひらに、置いた。


「どうぞ、公爵様」


公爵の、指が、わずかに、震えた。


「ありがとう」


それだけ、言った。


それだけだったけれど、彼の声は、いつもより、柔らかかった。



部屋に戻って、私は、寝台に、座った。


エマは、隣の部屋で、まだ、眠っている。


私は、自分の、両手を、見た。

さっきまで、震えていた手。


今は、震えていない。


私は、深く、息を、吐いた。


──三年。

契約書には、三年と、書いた。


その契約書のことを、私は、考え始めた。


破る、ことは、できる。

公爵は、たぶん、許してくれる。


でも、破る、というのは、違う気がした。


私は、契約書を、結んだ、自分の決断を、否定したくない。

あの日、私は、自分の意志で、サインした。


ならば、私は、その契約書の中で、もう一度、選び直すべきだ。


──三年後の、合意は、しない。


そう、決めた。


それまでに、私は、彼に、私を、好きになってもらう。

覚えていない少女としてではなく、今の、リーゼロッテとして。


決めると、胸の中が、軽くなった。


私は、立ち上がった。


エマのところへ、行こう、と思った。

そして、城に、戻ろう、と思った。


私の家は、もう、ハーゲン家では、なかった。

レーヴェンブルク城が、私の家だった。


そう、思えたのは、今朝が、初めてだった。


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