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契約結婚した冷血公爵様、私が逃げる素振りを見せるたびになぜか必死になるのですが?  作者: 月代


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7/10

第7話 公爵様が、自分から馬を駆りました


朝、宿の食堂。


私は、パンを、ちぎっていた。

食欲は、なかった。

それでも、食べておかなければ、動けないと知っていた。


食堂の扉が、開いた。


栗毛の青年が、入ってきた。


明るい色の髪。

軽そうな笑顔。

それなのに、目だけが、鋭かった。


腰に、短剣を、二本、差していた。

狩猟用、にしては、装飾が、ない。


「兄上、お待たせ」


彼は、公爵に、片手を上げて挨拶した。


公爵が、私に紹介した。


「従弟の、ユリアンだ」

「ユリアン・フォン・レーヴェンブルク、です。

よろしく、奥様」


彼は、私に、軽く頭を下げた。

それから、椅子に、座った。

公爵の隣に。


「兄上が、自分から女のために動くとはね」

ユリアンが、笑った。

「生きてるうちに、見られて、嬉しいよ」


公爵は、答えなかった。

ただ、テーブルの下で、こぶしを、握っていた。

私からは、テーブルの隙間越しに、それが、見えた。


私は、ユリアンを、見つめた。


兄上。

そう、彼は、呼んだ。


ただの従弟が、ここまで、親しげに「兄上」と呼ぶだろうか。

小さい頃から、一緒だった人の、距離感、だと感じた。


つまり、彼は、公爵の過去を、たぶん、知っている。

私の知らない、過去を。


私は、その推測を、覚えておくことにした。



ユリアンが、地図を、テーブルに広げた。


「兄上が放った密偵から、返事が来た」

彼は、地図の一点を、指で叩いた。

「ここ。

侯爵の私領の、奥。

狩猟小屋」


私は、その点を、見つめた。


「妹君は、そこにいる」

ユリアンは、続けた。

「軟禁。

怪我は、なし。

食事は、出されている」


私は、息を、深く、吸った。


「ありがとうございます」

「礼は、後でね」

ユリアンが、笑った。

「ところで奥様。

兄上、変、でしょう」


私は、目を、上げた。


「変、と申しますと」

「いや」

ユリアンが、ちらりと、公爵を見た。

「いつもより、表情筋が、動いてる」


公爵が、低く、言った。


「ユリアン」

「はーい、すみません」


ユリアンは、両手を上げた。

それから、私のほうに、もう一度、視線を戻した。

何か、言いたそうな目だった。

言わずに、彼は、地図に視線を戻した。



夜。


二階の、公爵の部屋。


私と、公爵だけ。

ユリアンは、隣室に下がった。


ランプが、机の上で、揺れていた。

地図が、広がっていた。


「作戦を、話す」


公爵が、口を、開いた。


「私が、正面から、侯爵の屋敷に行く。

決闘規則を、盾にして、彼を、足止めする。

その間に、君とユリアンが、狩猟小屋へ。

妹君を、連れ出す」


私は、息を、止めた。


「公爵様が、お一人で、ですか」

「うん」

「危険、です」

「予測の、範囲内だ」


予測の、範囲内。

他人の言葉のように、彼は、言った。


私は、立ち上がった。


「私が、囮になります。

ハーゲン家の娘が、侯爵様にお詫びに、と」

「だめだ」


即答だった。


「君は、絶対に、侯爵に近づかせない」


公爵の声が、低かった。

氷青の瞳が、ランプの光を、はね返していた。


「公爵様」

「うん」

「なぜ、ここまで」


公爵は、しばらく、黙った。


それから、ゆっくり、口を、開いた。


「君の妹を」

彼は、言った。

「君に、返したい」


私は、息を、止めた。


「領主としての、義務ではないのですか」

「違う」

「公爵家の、体面ですか」

「違う」


公爵の視線が、私の目から、離れなかった。


「私が」

彼は、言った。

「そう、したい」


私は、何も、言えなかった。


ただ、頷いた。


頷きながら、目の奥が、熱くなった。

こらえた。

今、泣くのは、違う、と思った。



未明。


霧が、街道を、覆っていた。


公爵が、馬に、跨った。


黒い馬。

黒いマント。

背筋が、まっすぐ、伸びていた。


「リーゼロッテ」

彼が、上から、私を見た。

「行ってくる」

「はい」

「妹君を、頼む」


私は、頷いた。

頷くしかなかった。


公爵は、私に、片手を伸ばした。

私の頬に、触れるのか、と思った。


触れなかった。


途中で、止めた。

触れる、その手前で。


「すまない」

彼は、言った。

「まだ、触れる資格が、ない」


そして、馬を、走らせた。


霧の中に、黒い影が、消えていった。


私は、立ち尽くして、その後ろ姿を、見送った。


──資格、と。

彼は、言った。


その言葉の意味を、考える時間は、まだ、なかった。



私とユリアンは、別の馬車で、狩猟小屋に向かった。


ユリアンは、馭者の隣に乗った。

私は、車内で、短剣を、握っていた。


馬車が、森の奥で、止まった。


「奥様、ここから、徒歩」

ユリアンが、扉を開けた。


森の中を、しばらく、歩いた。


開けた場所に、小さな、丸太の小屋が、あった。

扉の前に、見張りが、二人。


ユリアンが、私に、目で合図した。


「奥様、ちょっと、隠れてて」


私は、木の陰に、しゃがんだ。


ユリアンが、見張りに、近づいた。

何か、話しかけた。

笑い声。

それから、短い、鈍い音が、二回。


見張りが、地面に、崩れた。


ユリアンが、私を、呼んだ。


「奥様、こっち」


私は、駆け寄った。


ユリアンが、扉の鍵を、開けた。


小屋の中。

薄暗い。

奥の、長椅子に、人影。


「エマ」


私は、駆け寄った。


エマが、顔を上げた。

青ざめた、けれど、無事な、エマの顔。


「お姉、さま」


エマが、私の腕の中に、飛び込んできた。


「お姉さま、お姉さま」

「もう、大丈夫よ。

帰りましょう」


エマは、震えていた。

私の胸に、顔を、押し付けて、震えていた。



合流地点。


街道の、わきの、林。


焚き火が、一つ。


ユリアンが、毛布を、エマに、かけた。

エマは、私の肩で、ようやく、眠った。


蹄の音が、聞こえた。

一頭。


公爵だった。


馬から、降りた。

降りるとき、わずかに、よろけた。


私は、立ち上がった。

エマを、ユリアンに、預けた。

駆け寄った。


公爵の、左肩。

マントが、裂けていた。

内側の、白いシャツに、赤い、染み。


「公爵様」

私は、声を、上げた。

「怪我を」

「浅い」

彼は、言った。

「縫合で、足りる」


私は、彼の前に、跪いた。

自分のドレスの、裾を、引き裂いた。

布を、長く、細く。


「公爵様、傷を、見せてください」


公爵は、私の言うとおりに、肩を、見せた。


切り傷。

肩の、表層。

深くはない。

それでも、血が、止まっていなかった。


私は、布を、傷の上に、当てた。

強く、押さえた。

反対の手で、別の布を、肩の上から、巻いた。


手が、震えた。


止血している、私の手が、震えていた。


「どうして」

私は、呟いた。

「どうして、こんな」


公爵が、私の、震える手を、見ていた。


「リーゼロッテ」

「はい」

「君が、泣くから」


私は、顔を、上げた。


頬が、濡れていた。

いつから、泣いていたのか、わからなかった。


「私、泣いて」

「うん」

「いつから」

「さっき、から」


公爵は、それだけ、言った。


私は、止血の手を、止めなかった。

止められなかった。

震える手で、ただ、傷を、押さえ続けた。


涙が、私の顎から、彼の手の甲に、落ちた。


公爵は、それを、見ていた。

見ていたまま、何も、拭わなかった。



焚き火の、はぜる音。


公爵が、ふと、肩のあたりを、押さえた。

懐から、何かが、ぽとり、と、落ちた。


焚き火の、灰のすぐ脇。


革の、小さな、水筒。


私は、それを、見た。


長く使われた革の、深い茶色。

家紋は、ない。


底に、白い花の刺繍。

五枚の、花びら。

中央に、黄色の点。


私の刺繍と、同じ、柄。


──ああ。


息が、止まった。


私は、その水筒に、手を、伸ばした。


公爵は、止めなかった。


ただ、目を、伏せた。


私の指が、水筒に、触れた。


革が、温かかった。

公爵の体温が、まだ、残っていた。


私は、その温度を、感じながら、思った。


──この水筒は、なに。


問いだけが、頭の中で、ぐるぐる、回った。


問いに、答えるべき人は、目の前に、いた。


それでも、今夜は、聞ける気がしなかった。

今夜の彼は、傷を負っている。


聞くのは、明日。

明日、私は、これを、聞く。


そう、決めた。


焚き火が、もう一度、はぜた。


公爵の、肩の血は、ようやく、止まりかけていた。

私の、涙は、まだ、止まっていなかった。


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