第6話 妹が攫われたと、手紙が届きました
朝の光が、窓を通って、机の上に落ちていた。
私は、刺繍をしていた。
夜会から、十日。
あの夜のことは、もう、誰も話さない。
公爵も、私も。
私の刺繍は、白い花だった。
五枚の、花びら。
中央に、黄色の点。
なぜ、その柄を選んだのか、自分でも、わからなかった。
ただ、針が、勝手にそう動いた。
書斎で見た、革の水筒の、底の刺繍。
あの花が、まだ、私の頭の中に、ちらついていた。
✦
廊下を走る足音が、聞こえた。
速い。
普段の城では、ありえない速さ。
私は、針を、止めた。
扉が、ノックされた。
「奥様」
マーレンの声だった。
声が、いつもより、強張っていた。
「奥様、ハーゲン家から、早馬でございます」
私は、扉を開けた。
マーレンの手に、封蝋。
赤い、急ぎの封蝋。
私は、それを受け取った。
指先が、すでに、冷たくなっていた。
封を、切った。
父の字だった。
前より、もっと、走り書きだった。
インクが、何箇所も、滲んでいた。
──エマが、旅先で姿を消した。
──宿に荷物を置いたまま、夕食前から、戻らない。
──宿の者は、見知らぬ男に呼び出されたと言う。
──状況からして、アルブレヒト侯爵の関与を疑う。
──姉として、力を貸してほしい。
紙が、私の手の中で、震えた。
エマ。
十五の、エマ。
熱を出したのは、つい先月だった。
お姉さま、ありがとう、と言ったあの子。
「マーレン」
私は、声を、絞り出した。
「私、戻ります」
✦
荷造りは、十分で終わった。
着替えと、靴と、毛布。
小さな短剣を、靴の中に、忍ばせた。
父の書斎で、護身用に、と教わったものだった。
私は、机に、紙を広げた。
公爵宛の、書置きを書こうとした。
ペン先が、紙の上で、止まった。
前と、同じ、書置き。
『数日、戻ります』。
──また、青ざめさせるかもしれない。
そう、思った。
あの、馬で追ってきたときの、青い顔。
それでも、エマが、先だった。
公爵には、後で、必ず、説明する。
私は、書き始めた。
『妹が、旅先で姿を消しました。
事件の可能性があります。
実家に戻ります。
今度は、すぐには戻れないかもしれません。
リーゼロッテ』
ペン先を、置いた。
✦
玄関に、駆け下りた。
馬車を、用意してください、と御者に頼もうとした。
その前に。
階段の上で、声が、した。
「リーゼロッテ」
私は、振り返った。
公爵が、二階の廊下に、立っていた。
書斎から、出てきたばかりらしかった。
上着の前を、留めていない。
髪が、わずかに乱れている。
手に、私の書置き。
「いつ、書いた」
彼は、聞いた。
「たった今です」
「マーレンが、もう、届けてくれた」
公爵は、書置きを、握りしめた。
紙の角が、彼の指の中で、折れた。
「同行する」
彼は、言った。
「公爵様」
私は、首を振った。
「お手を、煩わせるわけには」
公爵は、階段を降りてきた。
私の前に、立った。
近くで見て、わかった。
目の下に、濃い影があった。
昨夜、ほとんど眠っていない人の、顔だった。
父が、母を失った晩、同じ顔をしていた。
「侯爵が、相手なら」
彼は、言った。
「君一人では、戻れない」
私は、彼を、見つめた。
侯爵が相手なら、と、彼は言った。
ハーゲン家の手紙を、まだ、私が見せていないのに。
──知っている。
彼は、もう、何かを、知っている。
その推測の、根拠は、彼の即答の速さだった。
そして、目の下の影だった。
私は、頷きかけて、止まった。
迷っていると、横から、声がした。
「奥様」
マーレンだった。
ふくよかな手が、私の肘に、触れた。
「旦那様を、信じてやってくださいまし」
小さな声だった。
それでも、はっきりした声だった。
マーレンの目が、私を、見ていた。
何かを、知っている目だった。
私の知らない、何かを、彼女は、知っている。
私は、息を、吸った。
それから、公爵を、見た。
私と目を合わせなかった、あの人が、今、まっすぐに、私を、見ていた。
「……お願いします、公爵様」
私は、頭を下げた。
公爵が、深く、息を吐いた。
肩が、ほんの少し、下がった。
緊張が、少しだけ、抜けたように、見えた。
✦
馬車が、城を出た。
南へ。
馬車の中で、公爵は、地図を広げた。
膝の上に、大きな羊皮紙の地図。
侯爵領と、街道。
赤いインクで、いくつかの印。
「ここが、宿場町のリンドル」
彼は、指で、地図を辿った。
「妹君が、姿を消した宿だ」
「もう、ご存じだったのですか」
「夜会の後、人を、放った」
公爵は、淡々と、答えた。
「侯爵が、ハーゲン家に、もう一度、手を伸ばす可能性が、あった。
だから、街道に、目を、置いた」
私は、彼を、見つめた。
夜会の後。
十日前。
私が、刺繍をして、毎日を過ごしていた間。
彼は、ずっと、動いていた。
「どうして、それを、私に」
「言えば、君を、不安にさせる」
公爵は、地図に、視線を戻した。
「だから、言わなかった」
私は、何も、答えられなかった。
胸の真ん中が、また、変な感じになった。
痛いのではない。
重いのでもない。
ただ、深いところで、何かが、ゆっくり、動いた。
「公爵様」
「うん」
「ありがとうございます」
公爵が、地図から、顔を上げた。
「礼は、いらない」
彼は、言った。
「これは、領主の務めではない」
私は、息を、止めた。
「では」
「私が、そう、したかった」
彼は、それだけ言って、また、地図に、目を戻した。
私は、彼の、指先を、見ていた。
地図の上で、赤い印を、一つずつ、たどっていく指。
迷いの、ない指だった。
私は、座席に、背を預けた。
窓の外を、流れる景色を、見ながら、思った。
──私のために、動いてくれている。
そう、認めても、いいのだろうか。
根拠は、ある。
夜会の後、すぐに人を放ったこと。
眠らずに地図を広げていた、目の下の影。
「私が、そうしたかった」と言ったときの、声。
それでも、私は、確信できなかった。
確信したら、また、ずれてしまう気がした。
彼が言う「身軽でいられるように」と、私が思う「大切にされている」が、まだ、噛み合わない気がした。
✦
馬車は、夜まで走った。
街道沿いの、宿場町に着いた。
リンドル、の手前の、もう一つ南の町。
宿に入って、私は、部屋に通された。
公爵は、別室。
扉を挟んだ、隣の部屋。
「何かあれば、壁を、叩いてくれ」
彼は、それだけ言って、自分の部屋に入った。
私は、寝台に座った。
壁を、見た。
壁の向こうに、彼が、いる。
壁を、叩けば、彼が、来る。
そう、思うと。
胸の中の、小さな何かが、また、増えた。
それが、なんなのか、私には、まだ、わからなかった。
でも、今夜は、わからないままでいい、と、思った。
エマを、取り戻す。
それが、先だ。
私は、靴を、脱がずに、寝台に、横になった。
短剣を、握りしめたまま、目を、閉じた。




