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契約結婚した冷血公爵様、私が逃げる素振りを見せるたびになぜか必死になるのですが?  作者: 月代


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6/10

第6話 妹が攫われたと、手紙が届きました


朝の光が、窓を通って、机の上に落ちていた。


私は、刺繍をしていた。


夜会から、十日。

あの夜のことは、もう、誰も話さない。

公爵も、私も。


私の刺繍は、白い花だった。

五枚の、花びら。

中央に、黄色の点。


なぜ、その柄を選んだのか、自分でも、わからなかった。

ただ、針が、勝手にそう動いた。


書斎で見た、革の水筒の、底の刺繍。

あの花が、まだ、私の頭の中に、ちらついていた。



廊下を走る足音が、聞こえた。


速い。

普段の城では、ありえない速さ。


私は、針を、止めた。


扉が、ノックされた。


「奥様」

マーレンの声だった。

声が、いつもより、強張っていた。


「奥様、ハーゲン家から、早馬でございます」


私は、扉を開けた。


マーレンの手に、封蝋。

赤い、急ぎの封蝋。


私は、それを受け取った。

指先が、すでに、冷たくなっていた。


封を、切った。


父の字だった。

前より、もっと、走り書きだった。

インクが、何箇所も、滲んでいた。


──エマが、旅先で姿を消した。

──宿に荷物を置いたまま、夕食前から、戻らない。

──宿の者は、見知らぬ男に呼び出されたと言う。

──状況からして、アルブレヒト侯爵の関与を疑う。

──姉として、力を貸してほしい。


紙が、私の手の中で、震えた。


エマ。

十五の、エマ。


熱を出したのは、つい先月だった。

お姉さま、ありがとう、と言ったあの子。


「マーレン」


私は、声を、絞り出した。


「私、戻ります」



荷造りは、十分で終わった。


着替えと、靴と、毛布。

小さな短剣を、靴の中に、忍ばせた。

父の書斎で、護身用に、と教わったものだった。


私は、机に、紙を広げた。

公爵宛の、書置きを書こうとした。


ペン先が、紙の上で、止まった。


前と、同じ、書置き。

『数日、戻ります』。


──また、青ざめさせるかもしれない。


そう、思った。

あの、馬で追ってきたときの、青い顔。


それでも、エマが、先だった。

公爵には、後で、必ず、説明する。


私は、書き始めた。


『妹が、旅先で姿を消しました。

事件の可能性があります。

実家に戻ります。

今度は、すぐには戻れないかもしれません。

リーゼロッテ』


ペン先を、置いた。



玄関に、駆け下りた。


馬車を、用意してください、と御者に頼もうとした。


その前に。


階段の上で、声が、した。


「リーゼロッテ」


私は、振り返った。


公爵が、二階の廊下に、立っていた。


書斎から、出てきたばかりらしかった。

上着の前を、留めていない。

髪が、わずかに乱れている。


手に、私の書置き。


「いつ、書いた」

彼は、聞いた。

「たった今です」

「マーレンが、もう、届けてくれた」


公爵は、書置きを、握りしめた。

紙の角が、彼の指の中で、折れた。


「同行する」


彼は、言った。


「公爵様」

私は、首を振った。

「お手を、煩わせるわけには」


公爵は、階段を降りてきた。

私の前に、立った。


近くで見て、わかった。

目の下に、濃い影があった。

昨夜、ほとんど眠っていない人の、顔だった。

父が、母を失った晩、同じ顔をしていた。


「侯爵が、相手なら」

彼は、言った。

「君一人では、戻れない」


私は、彼を、見つめた。


侯爵が相手なら、と、彼は言った。

ハーゲン家の手紙を、まだ、私が見せていないのに。


──知っている。

彼は、もう、何かを、知っている。


その推測の、根拠は、彼の即答の速さだった。

そして、目の下の影だった。


私は、頷きかけて、止まった。


迷っていると、横から、声がした。


「奥様」


マーレンだった。


ふくよかな手が、私の肘に、触れた。


「旦那様を、信じてやってくださいまし」


小さな声だった。

それでも、はっきりした声だった。


マーレンの目が、私を、見ていた。

何かを、知っている目だった。

私の知らない、何かを、彼女は、知っている。


私は、息を、吸った。


それから、公爵を、見た。


私と目を合わせなかった、あの人が、今、まっすぐに、私を、見ていた。


「……お願いします、公爵様」


私は、頭を下げた。


公爵が、深く、息を吐いた。

肩が、ほんの少し、下がった。

緊張が、少しだけ、抜けたように、見えた。



馬車が、城を出た。


南へ。


馬車の中で、公爵は、地図を広げた。


膝の上に、大きな羊皮紙の地図。

侯爵領と、街道。

赤いインクで、いくつかの印。


「ここが、宿場町のリンドル」

彼は、指で、地図を辿った。

「妹君が、姿を消した宿だ」


「もう、ご存じだったのですか」


「夜会の後、人を、放った」


公爵は、淡々と、答えた。


「侯爵が、ハーゲン家に、もう一度、手を伸ばす可能性が、あった。

だから、街道に、目を、置いた」


私は、彼を、見つめた。


夜会の後。

十日前。

私が、刺繍をして、毎日を過ごしていた間。

彼は、ずっと、動いていた。


「どうして、それを、私に」

「言えば、君を、不安にさせる」


公爵は、地図に、視線を戻した。


「だから、言わなかった」


私は、何も、答えられなかった。


胸の真ん中が、また、変な感じになった。

痛いのではない。

重いのでもない。

ただ、深いところで、何かが、ゆっくり、動いた。


「公爵様」

「うん」

「ありがとうございます」


公爵が、地図から、顔を上げた。


「礼は、いらない」

彼は、言った。

「これは、領主の務めではない」


私は、息を、止めた。


「では」

「私が、そう、したかった」


彼は、それだけ言って、また、地図に、目を戻した。


私は、彼の、指先を、見ていた。


地図の上で、赤い印を、一つずつ、たどっていく指。

迷いの、ない指だった。


私は、座席に、背を預けた。


窓の外を、流れる景色を、見ながら、思った。


──私のために、動いてくれている。


そう、認めても、いいのだろうか。


根拠は、ある。

夜会の後、すぐに人を放ったこと。

眠らずに地図を広げていた、目の下の影。

「私が、そうしたかった」と言ったときの、声。


それでも、私は、確信できなかった。


確信したら、また、ずれてしまう気がした。

彼が言う「身軽でいられるように」と、私が思う「大切にされている」が、まだ、噛み合わない気がした。



馬車は、夜まで走った。


街道沿いの、宿場町に着いた。

リンドル、の手前の、もう一つ南の町。


宿に入って、私は、部屋に通された。


公爵は、別室。

扉を挟んだ、隣の部屋。


「何かあれば、壁を、叩いてくれ」


彼は、それだけ言って、自分の部屋に入った。


私は、寝台に座った。


壁を、見た。


壁の向こうに、彼が、いる。

壁を、叩けば、彼が、来る。


そう、思うと。


胸の中の、小さな何かが、また、増えた。


それが、なんなのか、私には、まだ、わからなかった。


でも、今夜は、わからないままでいい、と、思った。


エマを、取り戻す。

それが、先だ。


私は、靴を、脱がずに、寝台に、横になった。


短剣を、握りしめたまま、目を、閉じた。


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