第5話 夜会で、私は二度公爵様に救われました
王都の夜は、明るかった。
通りに、ガス灯はない。
代わりに、屋敷の窓という窓に、蝋燭の光が灯っていた。
アルブレヒト邸は、白い石造りの大邸宅。
正面の階段に、赤い絨毯。
楽団の音が、外まで漏れていた。
馬車が止まった。
公爵が、先に降りた。
私に、手を差し出した。
「行こう」
「はい」
私は、その手を取った。
指先が、わずかに、震えていた。
私の指か、彼の指か、わからなかった。
✦
広間に入った瞬間。
音が、少しだけ、止まった。
人の声、楽団の音、グラスの音。
それらが、ほんの一拍、静かになった。
私は、知っている。
社交界の人々が、新しい客を品定めするときの、あの静けさ。
視線が、私たちに集まった。
「冷血公爵様が」
「あれが、噂の」
「ハーゲン家の」
囁きが、ほうぼうから聞こえた。
小さな、けれど、はっきりとした囁き。
公爵は、私の手を離さなかった。
それどころか、少し、強く握り直した。
私は、彼の横顔を、ちらりと見た。
彼の視線は、まっすぐ、広間の奥に向いていた。
表情は、いつもの、動かないまま。
それでも、私の手を握る指は、温かかった。
さっきまで冷たかったのに、温かくなっていた。
✦
「これは、これは。
公爵閣下」
奥から、声が近づいてきた。
銀髪。
整った顔。
冷たい目。
ジークムント・フォン・アルブレヒト侯爵。
ハーゲン家に金を貸した、本人だ。
父の書斎で、私は一度、彼の名前を聞いていた。
顔を見るのは、初めてだった。
「ようこそお越しくださいました。
そしてご夫人も」
侯爵は、私に、深々と礼をした。
慇懃な礼だった。
慇懃すぎる、と私は感じた。
父に頭を下げる借金取りの礼に、よく似ていた。
「ハーゲン家のご令嬢。
お父上は、お元気ですかな」
私は、礼を返した。
「おかげさまで」
「左様ですか」
侯爵は、微笑んだ。
「お父上の、私への借金。
まだ、全額は返ってきておりませんが」
広間の音が、また、少しだけ、止まった気がした。
公爵が、私の手を、さらに強く握った。
そして、口を、開いた。
「侯爵」
「はい」
「ハーゲン家の負債は、すでに私が、全額引き受けた」
侯爵の、微笑みが、止まった。
「書類は、来週、貴殿の元へ届く」
公爵は、続けた。
「未払いの利息も含めて、すべて、清算済みだ」
私は、公爵を見た。
聞いていない、と思った。
彼は、一言も、私に言わなかった。
侯爵は、しばらく、公爵を見ていた。
それから、ゆっくり、また微笑んだ。
「これは、これは。
公爵閣下、ずいぶんと、奥方を大切になさる」
「妻だからな」
公爵は、短く答えた。
侯爵の目が、ちらりと、私を見た。
冷たい目だった。
父の借金を盾にしていた時より、もっと、冷たかった。
✦
楽団が、ワルツを始めた。
公爵が、私を、ホールの中央に導いた。
「踊れるか」
「少しなら」
「私に合わせてくれ」
私たちは、踊った。
公爵のリードは、固かった。
踊り慣れていない、というのが、よくわかった。
ステップの一つ一つが、几帳面で堅実で、少しだけ、不器用だった。
私は、少し、笑いそうになった。
笑うのは、失礼だから、こらえた。
「公爵様」
「うん」
「借金のこと、ありがとうございました」
公爵の目が、私を見た。
「いえ」
彼は、言った。
「あれは、君が、身軽でいられるように」
身軽。
私は、その言葉を、心の中で繰り返した。
身軽。
──三年後、離縁したときに、しがらみが残らないように。
そういう、意味だ。
そう、私は、理解した。
胸の真ん中が、ちくり、とした。
痛みではなかった。
落胆、というには大袈裟な、小さな、ささくれだった。
「ご配慮、ありがとうございます」
私は、微笑んだ。
微笑むのが、礼儀だと思ったからだ。
公爵は、何か言おうとして、口を、閉じた。
ステップが、一度、わずかに乱れた。
それから、彼は、何も言わなかった。
✦
ワルツが終わって、私は、回廊で休んだ。
公爵は、奥のサロンで、別の貴族と話している。
領地の鉱山の、話らしかった。
私は、回廊の窓辺に立って、夜の庭を見ていた。
噴水が、月の下で、光っていた。
「ハーゲン家の、ご令嬢」
背後から、声がした。
振り返ると、見知らぬ貴族が、グラスを持って立っていた。
赤ら顔。
息が、酒臭い。
「冷血公爵に、よく、嫁いだものだ」
彼は、笑った。
「お気の毒に。
三年後、放り出されたら、どうなさる」
私は、答えなかった。
「私のところに、おいでなさい。
お父上の借金も、私が」
男の手が、私の腕に、伸びた。
その手が、私に触れる前に。
別の手が、男の手首を、掴んだ。
公爵だった。
いつ来たのか、わからなかった。
気配が、なかった。
「私の妻に、触るな」
低い、低い声だった。
夕食の席で「お帰り」と言った声と、同じ人の声とは、思えなかった。
男は、目を見開いた。
公爵は、男の手首を、ゆっくり、横に外した。
力は、入っているように見えなかった。
それなのに、男は、痛そうに、顔をしかめた。
「失、礼」
男は、後ずさって、回廊から去った。
公爵は、私を、見た。
「無事か」
「はい」
私は、頷いた。
頷きながら、声が、出にくかった。
「帰ろう」
彼は、それだけ言った。
✦
馬車の中。
王都の通りの、蝋燭の明かりが、窓を流れていった。
私は、膝の上で、手を組んでいた。
公爵は、向かいの席に座っていた。
私と、目を合わせなかった。
「公爵様」
「うん」
「先ほどは、ありがとうございました」
「いえ」
「あの方の、おっしゃっていたことは」
「気にしなくていい」
「でも」
私は、息を、吸った。
「公爵様は、なぜ、借金まで」
公爵は、しばらく、黙った。
「君が」
彼は、言った。
「身軽で、いられるように」
二度目の、身軽、だった。
私は、頷いた。
「三年後に、ですね」
「……」
公爵は、答えなかった。
答えなかったことを、私は、肯定だと受け取った。
根拠は、彼の沈黙の長さだった。
──やはり、三年後の準備。
──私を、自由にするための、お金。
胸のささくれが、もう一本、増えた。
それでも、私は、微笑んだ。
「公爵様は、お優しいですね」
公爵が、こちらを見た。
氷青の瞳が、馬車の中の蝋燭に揺れて、なぜか、痛そうに、見えた。
「優しくは、ない」
彼は、それだけ言って、また、目を伏せた。
✦
馬車が、夜の街道を走った。
私は、窓の外を見ながら、思った。
公爵様は、私のことを、嫌っているはずだ。
触れないでほしい、と言った人だから。
それでも、借金を引き受けてくれた。
ドレスの色を、指定してくれた。
「私の妻に触るな」と、言ってくれた。
矛盾は、また、増えていた。
矛盾の数だけ、私の胸の中に、小さな何かが、積もっていた。
それが、何なのか、私には、まだ、わからなかった。
✦
城に着いたのは、夜明け前だった。
公爵は、私を、部屋の前まで送った。
扉の前で、彼は、頭を下げた。
「おやすみ」
「おやすみなさいませ」
彼は、廊下を、戻っていった。
足音が、遠ざかる。
足音が、止まった。
私は、振り返った。
廊下の角で、公爵が、止まっていた。
私のほうを、見ていなかった。
壁に、片手を、ついていた。
支えるように。
立っているのが、辛い人のように。
私は、声を、かけようとした。
かけられなかった。
なぜ、と聞ける関係では、まだなかった。
私は、扉を、静かに閉めた。
✦
寝台に入って、私は、目を閉じた。
身軽、という言葉が、まだ、耳の中にあった。
身軽に、なりたいのか、私は。
答えは、出なかった。
それでも、もう一つだけ、思った。
──公爵様は、何かを、隠している。
根拠は、足音が止まった廊下の角。
壁についた、彼の手。
そして、優しくはない、と言った時の、痛そうな目。
私は、その「何か」を、まだ、知らない。
知らないまま、私は、眠った。




