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契約結婚した冷血公爵様、私が逃げる素振りを見せるたびになぜか必死になるのですが?  作者: 月代


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5/10

第5話 夜会で、私は二度公爵様に救われました


王都の夜は、明るかった。


通りに、ガス灯はない。

代わりに、屋敷の窓という窓に、蝋燭の光が灯っていた。


アルブレヒト邸は、白い石造りの大邸宅。

正面の階段に、赤い絨毯。

楽団の音が、外まで漏れていた。


馬車が止まった。


公爵が、先に降りた。

私に、手を差し出した。


「行こう」

「はい」


私は、その手を取った。

指先が、わずかに、震えていた。

私の指か、彼の指か、わからなかった。



広間に入った瞬間。


音が、少しだけ、止まった。


人の声、楽団の音、グラスの音。

それらが、ほんの一拍、静かになった。


私は、知っている。

社交界の人々が、新しい客を品定めするときの、あの静けさ。


視線が、私たちに集まった。


「冷血公爵様が」

「あれが、噂の」

「ハーゲン家の」


囁きが、ほうぼうから聞こえた。

小さな、けれど、はっきりとした囁き。


公爵は、私の手を離さなかった。

それどころか、少し、強く握り直した。


私は、彼の横顔を、ちらりと見た。


彼の視線は、まっすぐ、広間の奥に向いていた。

表情は、いつもの、動かないまま。


それでも、私の手を握る指は、温かかった。

さっきまで冷たかったのに、温かくなっていた。



「これは、これは。

公爵閣下」


奥から、声が近づいてきた。


銀髪。

整った顔。

冷たい目。


ジークムント・フォン・アルブレヒト侯爵。

ハーゲン家に金を貸した、本人だ。


父の書斎で、私は一度、彼の名前を聞いていた。

顔を見るのは、初めてだった。


「ようこそお越しくださいました。

そしてご夫人も」


侯爵は、私に、深々と礼をした。


慇懃な礼だった。

慇懃すぎる、と私は感じた。

父に頭を下げる借金取りの礼に、よく似ていた。


「ハーゲン家のご令嬢。

お父上は、お元気ですかな」


私は、礼を返した。

「おかげさまで」


「左様ですか」

侯爵は、微笑んだ。

「お父上の、私への借金。

まだ、全額は返ってきておりませんが」


広間の音が、また、少しだけ、止まった気がした。


公爵が、私の手を、さらに強く握った。


そして、口を、開いた。


「侯爵」

「はい」

「ハーゲン家の負債は、すでに私が、全額引き受けた」


侯爵の、微笑みが、止まった。


「書類は、来週、貴殿の元へ届く」

公爵は、続けた。

「未払いの利息も含めて、すべて、清算済みだ」


私は、公爵を見た。


聞いていない、と思った。

彼は、一言も、私に言わなかった。


侯爵は、しばらく、公爵を見ていた。

それから、ゆっくり、また微笑んだ。


「これは、これは。

公爵閣下、ずいぶんと、奥方を大切になさる」


「妻だからな」


公爵は、短く答えた。


侯爵の目が、ちらりと、私を見た。


冷たい目だった。

父の借金を盾にしていた時より、もっと、冷たかった。



楽団が、ワルツを始めた。


公爵が、私を、ホールの中央に導いた。


「踊れるか」

「少しなら」

「私に合わせてくれ」


私たちは、踊った。


公爵のリードは、固かった。

踊り慣れていない、というのが、よくわかった。

ステップの一つ一つが、几帳面で堅実で、少しだけ、不器用だった。


私は、少し、笑いそうになった。

笑うのは、失礼だから、こらえた。


「公爵様」

「うん」

「借金のこと、ありがとうございました」


公爵の目が、私を見た。


「いえ」

彼は、言った。

「あれは、君が、身軽でいられるように」


身軽。


私は、その言葉を、心の中で繰り返した。


身軽。


──三年後、離縁したときに、しがらみが残らないように。


そういう、意味だ。


そう、私は、理解した。


胸の真ん中が、ちくり、とした。

痛みではなかった。

落胆、というには大袈裟な、小さな、ささくれだった。


「ご配慮、ありがとうございます」


私は、微笑んだ。

微笑むのが、礼儀だと思ったからだ。


公爵は、何か言おうとして、口を、閉じた。

ステップが、一度、わずかに乱れた。


それから、彼は、何も言わなかった。



ワルツが終わって、私は、回廊で休んだ。


公爵は、奥のサロンで、別の貴族と話している。

領地の鉱山の、話らしかった。


私は、回廊の窓辺に立って、夜の庭を見ていた。


噴水が、月の下で、光っていた。


「ハーゲン家の、ご令嬢」


背後から、声がした。


振り返ると、見知らぬ貴族が、グラスを持って立っていた。


赤ら顔。

息が、酒臭い。


「冷血公爵に、よく、嫁いだものだ」

彼は、笑った。

「お気の毒に。

三年後、放り出されたら、どうなさる」


私は、答えなかった。


「私のところに、おいでなさい。

お父上の借金も、私が」


男の手が、私の腕に、伸びた。


その手が、私に触れる前に。


別の手が、男の手首を、掴んだ。


公爵だった。


いつ来たのか、わからなかった。

気配が、なかった。


「私の妻に、触るな」


低い、低い声だった。


夕食の席で「お帰り」と言った声と、同じ人の声とは、思えなかった。


男は、目を見開いた。

公爵は、男の手首を、ゆっくり、横に外した。

力は、入っているように見えなかった。

それなのに、男は、痛そうに、顔をしかめた。


「失、礼」


男は、後ずさって、回廊から去った。


公爵は、私を、見た。


「無事か」

「はい」


私は、頷いた。

頷きながら、声が、出にくかった。


「帰ろう」


彼は、それだけ言った。



馬車の中。


王都の通りの、蝋燭の明かりが、窓を流れていった。


私は、膝の上で、手を組んでいた。


公爵は、向かいの席に座っていた。

私と、目を合わせなかった。


「公爵様」

「うん」

「先ほどは、ありがとうございました」


「いえ」

「あの方の、おっしゃっていたことは」

「気にしなくていい」


「でも」


私は、息を、吸った。


「公爵様は、なぜ、借金まで」


公爵は、しばらく、黙った。


「君が」

彼は、言った。

「身軽で、いられるように」


二度目の、身軽、だった。


私は、頷いた。


「三年後に、ですね」

「……」


公爵は、答えなかった。


答えなかったことを、私は、肯定だと受け取った。

根拠は、彼の沈黙の長さだった。


──やはり、三年後の準備。

──私を、自由にするための、お金。


胸のささくれが、もう一本、増えた。


それでも、私は、微笑んだ。


「公爵様は、お優しいですね」


公爵が、こちらを見た。


氷青の瞳が、馬車の中の蝋燭に揺れて、なぜか、痛そうに、見えた。


「優しくは、ない」


彼は、それだけ言って、また、目を伏せた。



馬車が、夜の街道を走った。


私は、窓の外を見ながら、思った。


公爵様は、私のことを、嫌っているはずだ。

触れないでほしい、と言った人だから。

それでも、借金を引き受けてくれた。

ドレスの色を、指定してくれた。

「私の妻に触るな」と、言ってくれた。


矛盾は、また、増えていた。


矛盾の数だけ、私の胸の中に、小さな何かが、積もっていた。


それが、何なのか、私には、まだ、わからなかった。



城に着いたのは、夜明け前だった。


公爵は、私を、部屋の前まで送った。


扉の前で、彼は、頭を下げた。


「おやすみ」

「おやすみなさいませ」


彼は、廊下を、戻っていった。


足音が、遠ざかる。


足音が、止まった。


私は、振り返った。


廊下の角で、公爵が、止まっていた。

私のほうを、見ていなかった。

壁に、片手を、ついていた。


支えるように。

立っているのが、辛い人のように。


私は、声を、かけようとした。


かけられなかった。


なぜ、と聞ける関係では、まだなかった。


私は、扉を、静かに閉めた。



寝台に入って、私は、目を閉じた。


身軽、という言葉が、まだ、耳の中にあった。


身軽に、なりたいのか、私は。


答えは、出なかった。


それでも、もう一つだけ、思った。


──公爵様は、何かを、隠している。


根拠は、足音が止まった廊下の角。

壁についた、彼の手。

そして、優しくはない、と言った時の、痛そうな目。


私は、その「何か」を、まだ、知らない。


知らないまま、私は、眠った。


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