第10話 冷血公爵様の、本当の春が来ました
一年が、過ぎた。
北方の、遅い春。
城の庭に、白い花が、咲いていた。
五枚の、花びら。
中央に、黄色の点。
祖母の刺繍と、同じ花だった。
領内のどこにでも、ある花だったらしい。
それを、私は、ここに来て、初めて、知った。
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朝食の席。
長いテーブルの、端と端。
そこは、変わらなかった。
ただ、端と端で、毎日、目を、合わせるようになった。
「公爵様」
「うん」
「今日、孤児院に行きます。
増築の、ご報告に」
「同行する」
彼の、即答も、変わらなかった。
「お忙しいでしょう」
「忙しくない」
「机の上に、書類の山が」
「夕方までに、片付ける」
私は、笑った。
最近、よく、笑う。
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孤児院は、二倍に、なった。
新しい棟が、隣に建ち、子供たちが、二十人、増えた。
院長は、もう、毎月の薬を、匿名で受け取らなくて、よくなった。
彼の、名前が、入った、正式な、寄付になった。
「公爵様」
帰りの馬車で、私は、聞いた。
「もう、匿名でなくて、よろしいのですか」
「うん」
「お名前を、出すのは、お嫌ではないですか」
「君が、隣に、いるなら」
彼は、書類から、目を、上げて、言った。
「私は、構わない」
私は、頷いた。
胸の中が、温かかった。
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王都から、便りが、届いた。
エマから。
──姉さま、学院は、楽しいです。
──友達が、三人、できました。
──次の長期休暇には、お城に、遊びに行きます。
私は、便りを、何度も、読んだ。
読みながら、笑った。
彼が、廊下から、覗いた。
「妹君から、か」
「はい」
「元気そうか」
「元気そうです」
「よかった」
それだけの、会話。
それだけの、会話で、私の一日は、ずいぶん、明るくなった。
✦
社交シーズン、二度目の春。
王都の、別の夜会に、私たちは、招かれた。
入場すると、ざわめきが、起きた。
去年と、同じ。
ただ、内容が、少し、違った。
「あれが、噂の」
「冷血公爵が、奥方にだけ、甘い、というのは」
「本当だな」
私は、聞こえないふりを、した。
彼も、聞こえないふりを、した。
サロンで、ユリアンが、私たちを、見つけて、笑った。
「兄上、表情筋が、また、動くようになったね」
「ユリアン」
「はい、すみません」
ユリアンは、肩を、すくめた。
それから、私のほうに、ウインクをした。
「奥様、兄上を、ありがとう」
私は、首を、振った。
「お礼を言われることでは、ありません」
「いや、礼を、言わせてくれ」
ユリアンの、声が、少しだけ、低くなった。
「俺は、十六年、兄上の横で、見てきたからさ」
私は、彼を、見つめた。
ユリアンは、すぐに、いつもの笑顔に、戻った。
「さて、ワルツが、始まる前に」
彼は、グラスを、上げた。
「兄上、奥様を、エスコートしてあげて」
彼が、私に、手を、差し出した。
私は、その手を、取った。
冷たくは、なかった。
熱くも、なかった。
ちょうどいい、温度だった。
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城の、夕方。
彼が、私を、庭に、誘った。
「少し、話したいことがある」
「はい」
庭の、東屋。
小さな、白い、円い屋根。
中央のテーブルに、お皿。
皿の上に、焼き菓子が、三つ。
横に、水差しと、硝子のコップ。
私は、足を、止めた。
「公爵様」
「うん」
「これ」
「ああ」
初夜の、枕元と、同じ、組み合わせだった。
「君が、好きだ、と言っていたから」
彼は、目を、伏せた。
「マーレンに、頼んだ」
──好きだ、なんて、言ったかしら。
私は、思った。
それから、思い出した。
孤児院の帰り道で、私は、ぽつりと、言った。
「あの夜の、焼き菓子、温かかったです」と。
それだけ、だった。
それだけのことを、彼は、覚えていた。
私は、口を、押さえた。
押さえないと、何か、声が、漏れそうだった。
「公爵様」
「うん」
「私、本当に、幸せです」
彼が、また、目を、伏せた。
それから、ゆっくり、頭を、横に、振った。
「君を、幸せにするのは、もっと、これからだ」
✦
彼が、テーブルの上に、紙を、置いた。
新しい、紙。
ペンも、用意されていた。
インクも。
「契約書の、追記だ」
彼は、言った。
私は、紙を、見た。
私の字で、すでに、一年前の文章が、書いてあった。
『両者は、互いを、生涯の伴侶とする。
契約は、更新されない。
なぜなら、永続するからである。』
その下に、空欄が、あった。
「もう一行、足したい、と思っている」
彼は、言った。
「君と、一緒に、考えたい」
私は、頷いた。
「どんな、一行を」
「君は、何か、書きたいことが、あるか」
私は、しばらく、考えた。
それから、ペンを、握った。
書いた。
『お互いに、相手を、青ざめさせないこと。』
彼が、紙を、覗き込んだ。
それから、低く、笑った。
「これは」
「ご不満ですか」
「いや」
「では」
「採用しよう」
彼は、ペンを、握って、私の文章の、下に、書いた。
『お互いに、相手を、笑わせること。』
私は、笑った。
笑いながら、ペンを、また、握った。
『お互いに、毎日、一度は、隣に、座ること。』
彼が、書いた。
『お互いに、相手の名を、呼ぶこと。
他人の前でも、二人だけのときも。』
私は、書いた。
『お互いに、覚えていないことは、聞くこと。
覚えていないままに、しないこと。』
彼の、ペンが、止まった。
それから、彼は、書いた。
『お互いに、覚えていないことも、許すこと。
覚えているほうが、覚えていてやれば、それでよい。』
私は、その一行を、見つめた。
それから、ペン先で、二人の名前を、その下に、並べて、書いた。
リーゼロッテ・フォン・レーヴェンブルク。
エイベル・フォン・レーヴェンブルク。
紙の上の名字は、一年前と同じ。
けれど、心の上では、ようやく、本当に、私のものになっていた。
✦
夕日が、東屋に、差した。
彼が、私の隣に、座った。
私は、彼の肩に、頭を、預けた。
肩には、もう、傷の痕が、薄く、残っているだけだった。
シャツ越しに、温度だけが、伝わった。
「公爵様」
「うん」
「ひとつ、思い出したことが、あります」
彼が、わずかに、身じろぎした。
「何を」
「十歳の、春」
私は、目を、閉じた。
「祖母の家から、お使いに、出た日。
森の境界で、私と同じくらいの、男の子に、会った日があります」
彼が、息を、止めた。
「その子は、たくさんの、男の子の、ひとりでした。
顔は、覚えていません。
でも、たった今、思い出したことが、あります」
私は、目を、開けた。
「その子の目が、青かった、ということです」
彼の、肩が、わずかに、揺れた。
「今、思い出した」
彼は、囁いた。
「今、か」
「はい、たった今」
私は、笑った。
「ずるい、と、思いますか」
「思わない」
「では、何と」
「嬉しい」
それだけ、だった。
それだけだったけれど、彼の手が、私の手に、重なった。
握りしめは、しなかった。
ただ、重ねた、だけだった。
それが、ちょうどいい、と思った。
私たちには、これから、まだ、たくさんの時間が、ある。
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雪解けの、川の音が、遠くから、聞こえた。
風が、白い花を、揺らした。
私は、ふと、思った。
冷血公爵、という噂は、まだ、社交界に、ある。
たぶん、これからも、ある。
それでいい、と、思った。
噂の中の、冷血公爵は、世間のもの。
私の隣にいる、不器用な人は、私のもの。
それぞれに、別の場所に、いてくれていい。
私は、目を、閉じた。
彼の、温度。
庭の、白い花の、匂い。
焼き菓子の、甘い香り。
雪解けの、川の音。
それらが、ぜんぶ、私の春だった。
冷血公爵の、本当の春は、もう、始まっていた。
そして、これからも、毎年、巡ってくる。
私たちは、毎年、新しい一行を、契約書に、加えていく。
そう、決めた。
決めると、胸の中が、また、温かくなった。
私は、彼の肩に、もう一度、頭を、預け直した。
彼は、何も、言わなかった。
ただ、私の手の上に、自分の手を、もう一度、重ね直した。
それだけで、十分だった。
それだけが、永続する、ということだった。




