最終話
こうして、コタはエンへの想いを自覚することになった。
車たちのトラブルで大きなショックを受けた野呂さんが高熱により数日寝込んでしまったため、二台はしばらく通勤路で会うことはできなかった。だが野呂さん復帰後には、コタとエンは毎朝、瞳でウインクを交わしている。
「おはよう、コタ」
「おはようございます、エンさん!」
すれ違いざまに「今日も可愛いよ」と囁かれると、コタは恥ずかしさと嬉しさでドアミラーをぱたぱたと動かしてしまう。そんな彼を「こらこら、後ろが見えないだろ」と笑ってたしなめてくれる野呂さんは、やはり素晴らしい乗り主だ。
黒塗りのセダン……名前はセンというそうだが、彼は一命を取り留めた。元の乗り主とはきっぱり縁を切ったとも聞いている。とりわけフレームの傷が深いため、まだ修理とリハビリは必要だが、センは元々マニアの間では人気車種だということもあり、彼をぜひ引き取りたいという若者も現れたという。
一度コタがエンとともにセンを見舞いに行ったとき、黒塗りセダンの瞳からは曇りが消えていた。そして小さな声で「あのときは悪かったな……」とも言ってくれた。
「プリスくんが中古車売買に詳しいので、センさんに色々アドバイスしてくれてるみたいです」
「プリスくんならセンさんの気持ちを汲んであげられるのかもね。よかった、良い方向に進んで」
「はい! でもプリスくんがせっせとセンさんの面倒を見るもんだから、今度はレクサくんがヤキモチ妬いちゃってるみたいで。同じセダンなのにセンばっかり贔屓してる! って」
「それは大変だね。まあ、レクサくんの気持ちもわからないではないかな」
「ええ〜?」
給油所で偶然出くわした二台は、洗車の順番を待ちながら言葉を交わしていた。
エンへの向けるものが恋心だと気づいてから、コタは自分のときめきにきちんと向き合えるようになった。一緒にいると嬉しい。離れると寂しい。エンから慈しむような眼差しを注がれるたび、エンジンは幸福で温かくなる。
「ところでエンさん。後ろに書いてあるピンクの可愛い車は……」
「もちろんコタだよ」
「へへ、よかったです。他の車だったらどうしようって思って、なかなか聞けなかったんです」
コタは、エンの車体に自分の絵が、と思うだけで心が弾み、キュイキュイとワイパーを振ってみせる。
コタの無邪気な仕草に、エンはくすくすと笑ってから言葉を紡いだ。
「回りくどいやり方をしてしまったね。子どもたちに『エンさんはあのピンクのお兄ちゃんが好きなんでしょ』って見透かされてしまったんだ」
「ええっ? 子どもたちは気づいてたのに、僕は全然わからなかったっていうのも、悔しいなぁ」
「はは、子どもの観察力っていうのはすごいものだね」
エンは向日葵色の車体を軽く揺らしてから、声をひそめてコタの耳元で囁いた。
「実はね、俺の恋は一目惚れから始まっているんだよ」
「へっ?」
「正直に言おう。緊張して走っているコタが可愛くて、つい声を掛けたんだ」
「えっ、えと……」
コタは瞳をまたたかせた。初めて会った日に、恋に落ちたのはむしろ自分の方なのに。エンはサスペンションを利かせながら続ける。
「俺はね、園児バスになった自分に、ずっと自信を持てずにいたんだ」
「エンさんが?」
「そうだよ。子どもたちを乗せて走るのは楽しいけれど、見かけが特殊な分、ほかのバスから馬鹿にされることも多かった。いっそ形がまるで違う、アニマルバスになれたらって思ったこともあるよ」
コタは驚いてリアバンパーを軋ませた。エンは出会ったその日から、ずっと輝いていた。大人っぽくて、なんでも知っていて、優しくて、笑顔が素敵で。
「そんな! エンさんはとってもカッコいいのに!」
「ありがとう。……俺は、コタのそんなところに救われたんだよ」
「え?」
「初めて会ったとき、君は俺を『見るだけで気持ちが明るくなるような車体をしていますね』と褒めてくれた」
それまでは向日葵色なんて派手で悪目立ちするだけ、と思っていたエンの考え方は、そこで変わったという。まるで、転回道路で大きく交差点を転回するときのように。
園児バスの使命は、子どもたちを無事に幼稚園と家まで運ぶこと。そして大事なのは、子どもたちに「あのバスに乗ったら楽しいところへ行ける」と思ってもらえることだ、と。
「ああ俺は、誰かの気持ちが明るくさせることができるんだ、って、初めて自信を持てたんだ」
「エンさん……」
「ありがとう、コタ。俺はあのときから、可愛くて勇敢な君のことが大好きだ」
「う……ぼ、僕もです……エンさん、ぜんぶ素敵だから……」
嬉しさと照れくささが半分ずつないまぜになって、コタは意味もなくハザードランプを点けた。カッチ、カッチ、と鳴る点滅に合わせて、エンの車体に赤い光が散る。
「コタ。今度、海に行こうか」
「海、ですか?」
「そうだよ。デートをしよう。前に行きたいと話していたでしょう」
デート、という単語にコタのエンジンは高鳴った。土日であれば、二台の都合はつく。エンとともに道路を走ることができたなら、どれほど嬉しいだろう。そして、人間の恋人のように手と手を取りあって笑い合えたら。けれど。
「ぼ、僕たちは車で……僕、馬力もないから、エンさんを待たせちゃうかも……」
コタは戸惑い、エアコンを内気循環から外気導入に切り替えた。軽自動車は燃費が良いが、スピードでは劣る。エンの足は引っ張りたくない、とコタが言いかけたとき、先に口を開いたのはエンだった。
「大丈夫だよ」
「えっ?」
「僕たちの乗り主は、とても寛大なんだから」
エンはウインクをして応えた。普段は大人っぽい園児バスの顔が、コタは今日ばかりは悪戯好きの子どものように見えた。
とある秋の日の週末、海辺沿いの道路を颯爽と走る、向日葵色の園児バスとテラコッタピンクの軽自動車が目撃された。
二台の走行は少しだけ奇妙だったという。
というのも、園児バスが先を行き、牽引ロープで軽自動車を引いて走っていたからだ。ロープ中央の白い旗が優雅にはためき、二台は牽引フックでしっかりと繋がっていた。
まんまるの瞳の軽自動車の方は、牽引されているにもかかわらずご機嫌で歌い、園児バスの方もそれに合わせて車体を揺らしていた。
はたから見ても幸せいっぱいの二台は、海風とまっさらな日光を浴びて、道を走る誰よりも眩しくきらめいていたという。
その後ずっと、何年先も。
完