第9話「届かない特例」
翌朝、ヴァルデマール伯爵領の領都は、地響きのような軍靴の音によって目を覚ました。
朝霧が立ち込める中、堅牢な城館の正門を包囲したのは、伯爵自慢の私兵団ではない。
白銀の鎧に身を包み、黄金の天秤の紋章を掲げた屈強な兵士たち。
それは王国の正規軍ではなく、王都から派遣された中立の武力組織、独立司法軍であった。
王ではなく「法そのもの」に忠誠を誓う彼らの前では、いかなる権力者であろうとも道を譲らざるを得ない。
その物々しい軍勢の先頭に立ち、純白の法衣を翻して進むのは、数日前にオーリ邸でバルドー男爵を断罪した司法審判官だ。
「な、なんの真似だこれは!」
寝巻きの上にガウンを羽織っただけの無防備な姿で、伯爵は城のバルコニーから怒声を上げる。
「我がヴァルデマール領は、新王陛下より『領地特例法』を下賜されている! いかなる理由があろうとも、王都の軍勢が我が領内に足を踏み入れることは違法である!」
伯爵の声は怒りに震え、額には青筋が浮かび上がる。
彼の背後には、異変を察知して駆けつけた私兵団の将校たちが、剣の柄に手をかけていつでも抜刀できる態勢を整えていた。
特例法という絶対の盾がある限り、司法軍であろうと手出しはできない。
伯爵はその確信を胸に、バルコニーの欄干から身を乗り出して審判官を睨みつけた。
「直ちに軍を引け! さもなくば、不法侵入として我が私兵団が貴様らを武力で排除する!」
だが、司法審判官は感情を顔に出さず、ただ冷ややかに伯爵を見上げた。
その手には、古びて変色した羊皮紙の巻物が握られている。
「ヴァルデマール伯爵。当職は法務省長官の命により、正式な手続きを経てこの地を訪れました」
審判官の機械的な声が、朝の冷たい空気の中に響き渡る。
「貴殿に対し、アスティア王国建国の法である『創世王典』に基づく強制査察を執行いたします」
「そ、創世王典だと?」
伯爵の顔から、さっと血の気が引いた。
「第七章、第十四条……『領地の主要街道において大規模な有事が発生し、かつ領主が自力で事態を収拾できない場合、隣接する領主は自立的に査察および介入を行う義務を負う』」
審判官は巻物を広げ、淡々と、しかし絶対的な効力を持つ言葉を紡いでいく。
「昨日、隣接するオーリ子爵より、貴殿の領地における野盗の発生と、それに伴う物流の停止、並びに貴殿が事態を収拾できていない旨の告発がなされました」
伯爵の脳裏に、昨日あっさりと引き下がっていったルシアンの姿がフラッシュバックした。
あの若造が来たのは、善意の援軍などではない。
自分が「有事を自力で解決できない状態である」という事実を、直接確認して法務省へ通報するための罠だったのだ。
「なんだと! たかが四百年も前のカビの生えた古い法律ではないか!」
伯爵はバルコニーを叩き、必死に声を張り上げた。
「私には新王陛下の特例法がある! 現代の法が優先されるはずだ!」
「特例法はあくまで『王家布告』の枠組みである」
審判官は氷のような眼差しで、伯爵の足掻きを一蹴する。
「創世王典は、いかなる王国法や特例法よりも上位に位置する絶対不可侵の憲法。陛下の特例法など、この絶対の法体系の前ではただの紙切れに過ぎません」
「そ、そんなことが有ってたまるか……っ!」
伯爵の顔から完全に血の気が引いた。
彼が絶対の自信を持っていた無敵の鎧が、たった一文の古い法律によって音を立てて粉砕された瞬間だった。
審判官は無慈悲に宣告書を巻き戻し、冷徹な声で決定的な号令を下す。
「法の執行を妨げる者は、すべて斬り捨てなさい。――司法軍、突入」
法という名の最強の刃を突き立てられ、白銀の鎧を着た兵士たちが一斉に城館へと雪崩れ込んでいく。
審判官の号令とともに、白銀の鎧を着た兵士たちが一斉に城館へと雪崩れ込んでいく。
「や、やめろ! 誰か、こいつらを止めろ!」
伯爵は私兵団に命令を下そうと振り返ったが、将校たちは誰一人として剣を抜こうとはしない。
相手が王の軍であれば反撃の余地もあったかもしれない。
しかし、「法そのもの」である独立司法軍に刃を向けることは、王国における人間としての権利をすべて剥奪されることを意味する。
傭兵上がりの彼らが、そこまでのリスクを犯して伯爵を守る義理などない。
「貴様ら……私を裏切るのか!」
伯爵が絶望に染まった声を上げ、玉座のような椅子に崩れ落ちようとしたその時。
静まり返った執務室に、コツ、コツ、と優雅な革靴の音が響き渡った。
背後の重厚なオーク材の扉が、ゆっくりと開かれていく。
「……誰だ!」
振り返った伯爵の目に飛び込んできた人影に、彼は雷に打たれたように息を呑んだ。
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※次回、明日朝6時20分更新です




