第1話「灰にならない家名」
「領外緊急工作費から、前金の払い出しは昨日付で完了しております」
会計責任者は、前日に支出した額と差し引き後の残額を読み上げた。
公爵は成功時に渡す残金の列から、計算石の半分を木箱へ戻した。
「残金を半額にしろ」
「前金は、すでに城下の両替商を通し、無印の袋四つへ分けて密使へ渡しております。成功時の残金まで減らせば、最後に仕事を引き受ける者へ約束した額を満たせません」
「公爵家の金貨が、そのまま王都へ届くことはないな」
「ございません。ただし、両替商の帳簿には取引が残ります」
「通常の会計手続きで残る記録まで消せとは言わぬ。その先に家名も書状も残すな」
長机の端で、法務家臣が伏せていた判決記録を持ち上げた。
「閣下、法廷で争う道はまだ残っております」
公爵は返答せず、会計責任者へ手を差し出した。
差し出された帳簿の支出欄には、保存食、革、馬の飼料、私兵の俸給が並び、二か月後までの残額が赤い線で囲われている。
公爵は最後の月に置かれた計算石を一つ、工作費の列へ移した。
「オーリ子爵を法廷へ出す証拠を揃えるまで、半年でも足りぬと言ったのはお前だ」
「はい」
「二か月後、兵へ俸給を払えず、城門の灯も落とした後で勝訴して、何が残る」
法務家臣は判決記録を閉じた。
「法廷で敗れると決まったわけではございません」
「家が先に干上がる」
公爵は俸給簿の最後の月を指で叩いた。
「城門の灯が消え、巡回兵の俸給が途絶えれば、最初に代価を払うのは領民だ。家臣と商人が他家に取り込まれ、この家が四百年かけて築いた統治の基盤まで失うのを待つ気はない」
公爵は会計責任者へ向き直った。
「成功時の残金は半分だ。足りぬ分は、仲介人が自分の取り分を削ればよい」
「拒まれた場合は」
「次を探せ。それでも受ける者だけを残せ」
会計責任者は羽根ペンを取ったが、帳簿へ触れる直前で止めた。
「昨日の支出名目は、領外緊急工作費で確定してよろしいのですか」
「その名目で処理しろ」
「工作の内容を記録しなければ、後日の監査で私が説明できません」
「交易路の維持と、離反した協力者への対処だ」
公爵は自家の印章を机上へ出さなかった。
「非常費を動かす権限は、お前に預けてある。通常の会計手続で処理しろ」
会計責任者は返答せず、帳簿と羽根ペンを革張りの書類箱へ収めた。
法務家臣が長机から一歩退いた。
「私に命令の内容を明かさないのは、証言できる者を減らすためですか」
「お前は法廷で争えと言った。それで十分だ」
公爵は返送された援助要請を一通ずつ重ね、帳簿の横へ寄せた。
「四百年続いた家を守るためであっても、この支出へ法務を預かる者として同意の署名はできません」
「署名を求めてはいない」
「では、辞任を」
「認める」
法務家臣は腰の鍵束を外し、判決記録の上へ置いた。
一礼して退室する背中を、公爵は呼び止めなかった。
扉が閉じると、会計責任者は空いた席と公爵を交互に見た。
「後任を置かれますか」
「置かぬ。法廷で争う必要が生じれば、あの者へ改めて依頼する」
「辞任した者を、再びお召しになるのですか」
「私に従う者ではなく、法廷で勝てる者が要る」
公爵は工作費と私兵維持費を記した木板の間に、残った計算石を分けた。
「片方が尽きるまで、あと何日だ」
「成功時の残金を半額へ減らしても、俸給を遅らせずに支払えるのは六十日ほどです」
「その間に終わらせる」
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同じ日の夕刻、前日に領城を出た密使は、領境の宿で無印の金貨袋四つを卓上へ並べた。
自分の荷へ一袋を戻し、残る三袋を向かいの男へ押し出す。
「一つはお前の取り分だ。残る二つを次へ渡せ。これは前金で、残金は仕事の後だ」
「標的は」
「王都のオーリ子爵だ。名は記すな。次の者にも口頭で伝えろ」
「依頼主は」
「聞けば、この袋は持ち帰る」
密使は両替商が発行した羊皮紙の受領書を、三袋の下へ滑らせた。
「重さは確認済みだ」
男は問いを重ねず、一袋と受領書を自分の革袋へ収めた。
残る二袋と割符の片方を荷へ隠す。
密使は受領の署名を求めず、荷馬車で別の街道へ戻っていった。
翌朝、男は旅商人の荷に紛れて王都へ向かい、城門の手前で次の仲介人へ金貨二袋と口伝を移した。
宿でも城門でも本名は交わされず、公爵家の名は一度も口にされなかった。
同じ頃、公爵領の三つの兵舎では、休暇中の私兵へ召集の木札が渡されていた。
木札に記されているのは、領境の演習地と到着日だけだった。
一度に城へ集めず、十人前後に分けて通常の巡回路から向かわせるよう、私兵団長が部隊長たちへ命じた。
夕刻、私兵団長は領城へ戻り、街道図の三か所へ木製の駒を置いた。
「予備召集を始めました。表向きは領境警備を兼ねた演習です」
「実際にも演習をさせろ」
「武装は」
「規定どおりだ。王国施設へ近づけるな。他家の領境も越えさせるな」
「司法軍が目的を問えば」
「訓練日程と巡回記録を見せろ。虚偽を作る必要はない」
私兵団長の指が、一番遠い演習地の駒に触れた。
「オーリ子爵が死ねば、召集を解きますか」
「解かぬ。王都の諸勢力が後継者のいないオーリ領を巡って争う間に、離れた貴族を呼び戻し、補給路と商会との取引を立て直す」
「失敗した場合を伺っています」
公爵は俸給簿を私兵団長の前へ差し出した。
「二か月後には、この者たちの家族へ渡す金がなくなる」
私兵団長は俸給簿を受け取り、演習地へ置いた三つの駒を革袋へ戻した。
「本召集へ切り替える命令は、別に頂きます」
「それまでは演習だ」
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数日後、王都の安宿で最後の仲介人が無印の金貨袋を卓上へ載せた。
向かいに座る男は金貨を数えず、革袋から割符の半片を取り出した。
二枚の割符が、酒染みの残る卓上で重なる。
金貨を持ち込んだ仲介人は、オーリ子爵の名と屋敷がある区画だけを口頭で伝えた。
「日取りと方法は任せる。雇い主は俺も知らん」
向かいの男は答えず、つながった割符を灯りへかざした。
二つの半片に刻まれた不規則な線は寸分違わずつながり、片面には「子爵」と読める傷が浮かんでいる。
男は自分の半片を懐へ戻し、無印の金貨袋を引き寄せた。
「引き受けた」
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