第6話「潔癖な拒絶」
査閲室の長机には、赤い訂正線を引かれた羊皮紙が広げられていた。
その隣には令状となる羊皮紙が置かれている。
末尾の封蝋だけが、まだ空白だった。
廊下から重い軍靴の音が近づく。
扉が開き、将軍が室内へ入った。
「待たせたな」
「予定より半刻早い」
最高司法審判官は顔を上げず、赤い線をもう一本加えた。
「早く来ても令状の範囲は広がらんぞ」
「まだ何も言っていないだろう」
「君が提出した申立書が、代わりに騒いでいる」
最高司法審判官は羊皮紙の端を指で押さえた。
補給大臣の私邸。
契約商人が所有する倉庫。
両者の往復書簡と伝令簿。
赤い線は、そのすべてを横切っていた。
「私邸の捜索は認めない」
「補給大臣が証拠を隠す場所として、最も疑わしい」
「疑いだけでは扉を開けられん」
「では、契約商人の倉庫はどうだ」
「軍へ納品された物資が保管されている証拠がない」
「書簡を押さえれば繋がりが出る」
「犯罪に関わる書簡が存在する証拠を出せ」
将軍は長机へ拳を落とした。
鈍い音が、査閲室の石壁に反響する。
「…それを探すための捜索だろう」
「犯罪を探すために他人の生活を暴く権限など、司法にはない」
最高司法審判官は三本の赤線を指先でなぞった。
「犯罪を示す証拠が先だ」
「証拠を隠された後では遅い」
「隠すなら、その行為を証拠にしろ」
赤い筆が、インク壺の縁へ置かれた。
「まだ起きていない犯罪で令状は出せない」
将軍は椅子を引いたが、腰を下ろさなかった。
その正面で、エマが別の羊皮紙を長机へ差し出す。
「こちらは、独立司法軍から提出された査察申請書です。私は法務補佐官として、資料の照合と申請書の作成を担当しました」
赤い線のない羊皮紙だった。
申請対象には、中央軍需倉庫とだけ記されている。
「申請理由を」
「国庫支出記録と補給省納品記録では、軍靴千足が中央軍需倉庫へ納められています」
エマは三枚の記録を順に並べた。
「しかし軍の受領記録にある数量は六百足です」
「残る四百足の所在は」
「公的記録では確認できません」
「推測は」
「申請理由には含めておりません」
エマは品目ごとの数量差をまとめた羊皮紙を開いた。
「盾、槍穂、保存食にも同様の差が存在します」
「照合に用いた記録は」
「国庫の支出記録、補給省の納品記録、各部隊の受領記録です」
「原本の所在は確認したか」
「はい、すべて官署内に保管されています」
最高司法審判官は将軍へ視線を向けた。
「不足報告書の署名は君のものだな」
「俺のものだ」
「現場で確認したのか」
「各部隊の受領担当を集めて確認させた」
「数字に誤りがあれば」
「俺が責任を負う」
最高司法審判官は不足報告書を申請書の隣へ置いた。
「申請人はオーリ子爵ではないな」
「俺だ」
将軍は申請書の末尾を示した。
「不足報告へ署名した独立司法軍の指揮官として、俺が申請した」
「オーリ子爵は」
エマが答える。
「公的記録の照合に協力した資料提供者であり、本日は立会人です」
長机の端に設けられた立会人席で、ルシアンが僅かに頭を下げた。
最高司法審判官は令状となる羊皮紙を手元へ寄せた。
「中央軍需倉庫内の物資確認を認める」
将軍の拳が長机から離れる。
「倉庫内に保管された品目と数量の照合を許可する」
最高司法審判官は令状へ一行を書き加えた。
「搬入記録、搬出記録、受領者の署名も確認対象とする」
「契約商人への搬出が見つかった場合は」
「記録に残せ」
「追うことは」
「許可しない」
将軍の眉間に深い皺が刻まれた。
「…倉庫から証拠が運び出されるのを見送れと言うのか」
「通知が届いた時点で、倉庫の門を司法軍の監視下に置く」
最高司法審判官は別の命令書を取り出した。
「査察開始までの出入りは、司法軍がすべて記録する」
「運び出した荷は」
「品目、数量、運搬先、命令者を記録する」
「止めないのか」
「現行の補給業務まで止めれば、兵が飢える」
最高司法審判官の筆先が命令書を進んだ。
「監視を妨げる者がいれば、その場で拘束せよ」
「倉庫以外へ運び出された後は」
「追跡のみ許可する」
「踏み込むことは」
「新たな証拠を添えて、改めて令状を申請しろ」
将軍は椅子へ腰を下ろした。
背もたれが短く軋む。
「……随分と親切な査察だな」
「何がだ」
「三日前に知らせてやるのだろう」
「法定の事前通知だ」
「相手は補給大臣だぞ」
「だから何だ」
「隠す時間を与えることになる」
「法に従う時間を与える」
最高司法審判官は通知書へ査察開始日を記した。
「その時間を何に使うかは、補給大臣が選ぶ」
将軍は通知書を睨んだまま、口を閉じた。
最高司法審判官の視線が立会人席へ移る。
「オーリ子爵」
「はい」
「君は、この範囲で足りると言ったな」
「申し上げました」
「補給大臣の私邸も、商人の倉庫も調べられない」
「承知しております」
「往復書簡も押さえられない」
「問題ございません」
「なぜ足りる」
ルシアンは両手を膝の上で組んだ。
「中央軍需倉庫に存在するはずの物資を確認できます」
「それだけか」
「公式に申し上げられるのは、それだけです」
「公式でなければ、何を言える」
「司法記録に残せないことを、この場で申し上げるつもりはございません」
最高司法審判官はルシアンを見たまま筆を置いた。
室内に、壁時計の振り子だけが響く。
「ならば、君の予測は判断材料にしない」
「当然です」
「査察現場への立ち入りも認めない」
「承知いたしました」
「エマ法務補佐官も同様だ」
エマが申請書を揃え直す。
「異議はございません」
「オーリ家の使用人、密偵、雇用人も倉庫へ近づけるな」
「全員へ徹底いたします」
最高司法審判官は将軍へ令状を向けた。
「査察には司法書記官と司法軍だけを入れる」
「俺は」
「現場指揮官として同行を許可する」
「なら十分だ」
「令状の一行たりとも越えるな」
将軍は羊皮紙へ目を落とした。
許可された場所は中央軍需倉庫のみだった。
確認できるのは物資と記録だけだった。
「私邸へ続く荷馬車を見つけても、踏み込むな」
「分かっている」
「商人の倉庫へ入ってもならん」
「聞こえている」
「兵に壁を壊させるな」
「俺を何だと思っている」
「扉が開かなければ壁を壊す男だと思っている」
将軍の口元が僅かに歪んだ。
「…令状に扉を開けてよいと書いてあるならな」
「中央軍需倉庫の扉に限る」
「それでいい」
最高司法審判官は令状の末尾へ署名した。
熱した蝋が落とされ、司法庁の印章が押し込まれる。
小さな合法的査察が、その形を得た。
通知書は、その日のうちに補給大臣官邸へ届けられた。
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日が傾く頃、通知を届けた司法書記官が審査室へ戻った。
「受領者は」
「補給大臣本人です」
「拒絶は」
「ありませんでした」
書記官は受領証を長机へ置いた。
「通知の内容を確認した際、何か変わった様子はあったか」
「査察開始日の箇所で、指が止まりました」
「どの程度だ」
「一呼吸ほどです」
「それ以外は」
「何も」
最高司法審判官は受領証を令状の控えへ重ねた。
「これで相手にも三日が与えられた」
窓際に立つ将軍が腕を組む。
「…証拠を隠すための三日だ」
「違う」
最高司法審判官は二枚の羊皮紙を紐で綴じた。
「法に従うための三日だ」
机上の通知控えには、査察開始まで残り三日と記されていた。
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