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悪徳子爵は裁かれない  作者: 空っぽの零時
第5章:潔癖な共犯者
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第4話「汚れた地図」

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ここまでお読み頂きありがとうございます!


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 濡れた布巾から、酢と古い油の匂いが立ち上っていた。

厨房の窓越しには、荷車の車輪が石床をこする音が響いている。


「裏の倉へ塩漬け肉を運んどいてくれ」


「はい、すぐに」


 クロエは洗い終えた皿を重ね、帳場係から倉庫の鍵を受け取った。


 補給大臣と取引する商会へ入ってから、すでに三か月が経っている。

今では厨房と食料庫だけでなく、裏庭にある荷置き場への出入りも任されていた。


「鍵をなくすんじゃないよ」


「大丈夫です。戻ったら、すぐにお返しします」


 少し気弱な声で答え、両手で鍵を受け取る。

帳場係はそれ以上注意を向けず、開かれた帳簿へ顔を戻した。


 厨房の裏口を出ると、荷置き場には三台の荷車が停まっていた。

積み荷には布が掛けられ、御者たちは商会の者から薄い木札を受け取っている。


 木札に、品名は書かれていなかった。

赤く塗られた角と二本の線、その中央に小さな点が刻まれている。


「そこの娘、何を見てる」


 荷車の脇にいた男が声を飛ばした。


「申し訳ありません。裏の倉へ、これを運ぶように言われまして」


 クロエは塩漬け肉の入った籠を持ち上げた。

男は籠の中を一度確かめ、顎で倉庫を示す。


「用が済んだら、すぐ厨房へ戻れ」


「はい」


 クロエは男の横を通り過ぎた。

歩調は変えず、木札にも荷車にも顔を向けない。


 裏の倉へ籠を置くと、棚に並んだ豆を五粒だけ動かした。

赤い豆を左端へ置き、その横へ黒い豆を二列に並べる。


 厨房へ戻ったクロエは、皿を三枚、二枚、一枚の順に重ねた。

それから木椀の向きを変え、取っ手を西側の門へ見立てて置く。


「また変な並べ方してるね」


 先輩の給仕が笑った。


「大きさを揃えた方が、運びやすいかなと思って」


「そんなの、腹に入れば同じだよ」


「そうですね」


 クロエも小さく笑い、皿を配膳台へ運んだ。


----------------------------


 その夜、補給省の役人が商会を訪れた。

役人は表の応接室を使わず、帳場の奥にある小部屋へ通される。


 クロエは酒と焼いた肉を盆へ載せ、扉の前で足を止めた。

中から、低く抑えた声が漏れている。


「次は三つだ。赤が一つ、白が二つ」


「前と同じ門で?」


「いや、西へ回せ。御者も替える」


「日取りは」


「印が二つ揃ってからだ」


 クロエは扉を叩いた。


「お食事をお持ちしました」


 会話が止まり、内側から鍵が外された。


 商会の主人はクロエの盆だけを見て、卓の端を指した。

補給省の役人は顔を上げず、羊皮紙へ商会印を押している。


「置いたら下がれ」


「承知しました」


 クロエは空になった酒瓶を回収した。

卓上に残された木札には、先ほど見たものと同じ赤い角が塗られていた。


 役人が訪れた夜だけ、裏庭へ入る荷車の数が増えた。

荷車は商会の帳簿へ記載されず、御者も同じ者が二度続けて使われることはなかった。


 赤い角が付いた木札の翌朝には、保存食を積んだ荷車が西門を出た。

白い線が三本あった日には、軍靴の入った木箱が北側の街道へ運ばれている。


 丸い点は出発の刻限を示していた。

右端なら夜明け前、中央なら日没後、左端なら日中の通常便へ混ぜられる。


 クロエは帳簿を盗まなかった。

木札を持ち出すことも、役人の部屋へ忍び込むこともしない。


 荷印。


 日付。


 使われた門。


 御者の顔と荷車の傷。


 厨房へ戻るたび、豆と皿と木椀の並びが少しずつ変わった。


 商会の者が眠ったあと、クロエは使用人部屋の寝台へ薄い羊皮紙を広げた。

昼間に並べた器の順をたどり、荷印と経路だけを小さく写していく。


 人名は書かない。

補給大臣という役職も、オーリ子爵家へつながる文字も残さない。


 七日目の夜には、四つの荷印と三本の経路が地図へ書き込まれていた。

そのうち二本は、中央軍需倉庫から商会の裏庭へ続いている。


 八日目の朝、帳場係が厨房の扉を閉めた。


「全員、仕事を止めな」


 厨房にいた使用人たちが、一斉に手を止めた。


「昨夜、帳場の窓が開いていた。倉庫の木札も一枚、向きが変わってる」


「泥棒ですか?」


「それを今から調べる」


 帳場係の後ろには、棍棒を持った男が二人立っている。


「一人ずつ部屋へ戻れ。寝床と持ち物を確認する」


 使用人たちの顔が互いへ向いた。

抗議した料理人は、男の棍棒で床を叩かれると黙って列へ並んだ。


 クロエは鍋の火を弱め、指示された列の最後尾へ入った。


 一人目の寝床から、商会の酒瓶が見つかった。

二人目の荷物からは、厨房の塩が布袋に入った状態で出てくる。


 盗みを認めた二人は裏庭へ連れ出された。

それでも、寝床の検査は止まらなかった。


「次」


 男が列の前へ顎を向けた。


 クロエの前には、あと三人しか残っていない。


「鍋を下ろしてもよろしいでしょうか」


「駄目だ」


「このままでは焦げてしまいます」


「放っておけ」


 焦げた脂の匂いが厨房へ広がり始めた。

クロエは列を離れず、指先で前掛けの端を整える。


 地図は寝床にない。

油壺の蓋、その内側にある革の合わせ目へ差し込まれていた。


 厨房まで調べられれば見つかる。

地図を残せば潜入先は守れるが、十日という期限には間に合わない。


 外から、大きな破砕音が響いた。


 荷車が裏口の柱へ衝突し、積まれていた空樽が石床へ転がってくる。

驚いた馬が竿立ちになり、御者の怒鳴り声が商会中へ響いた。


「馬を押さえろ!」


「門を閉めろ!」


 厨房の男たちが裏口へ走った。

帳場係も列から離れ、荷置き場へ向かう。


 クロエは火を止めるため鍋へ近づき、そのまま油壺の蓋を外した。

内側から地図を抜き、布巾で包んで前掛けの下へ入れる。


 裏庭では、横倒しになった樽の間を一人の荷運び人が走っていた。

その男は馬の手綱を掴みながら、クロエへ一度だけ視線を送る。


 ギャレットだった。


 クロエは灰を捨てる桶を持ち、裏口から外へ出た。

荷車の陰を抜け、商会と倉庫の間にある細い路地へ入る。


「おい、厨房の娘!」


 背後から帳場係の声が飛んだ。


 クロエは桶を捨てた。

前掛けを外し、路地の奥へ走り出す。


「逃がすな!」


 男たちの足音が迫る。


 路地の出口で、積み上げられていた空樽が一斉に崩れた。

追ってきた男たちは道を塞がれ、転がる樽を蹴り飛ばしている。


 クロエは路地を抜け、停められていた荷車の荷台へ飛び乗った。

御者台へ回ったギャレットが手綱を鳴らす。


「随分と派手なお迎えですね」


「お前が予定より早く出るからだ」


「来なければ、地図は捨てていました」


「なら、樽を壊した甲斐はあったな」


 荷車は市場を抜け、追手の声が届かない通りへ入った。


「商会へは戻れないぞ」


「分かっています」


「三か月かけた身分も、裏庭への出入りも終わりだ」


「必要なものは持ち出しました」


 クロエは前掛けに包んだ地図を差し出した。

油が染み込み、端の文字は一部滲んでいる。


「読めるのか、これ」


「荷印は読めます。赤い角が保存食、白い三本線が軍靴です」


「次は」


「四日以内です。西門を使う可能性が高い」


「可能性?」


「御者と日付は毎回変わります。確実なのは、補給省の役人が訪れたあとに荷が動くことだけです」


 その日の夜、地図はオーリ邸へ運び込まれた。


 執務室の机には、油染みのある地図と補給省の納品記録が離して置かれている。

エマは双方へ触れず、記された荷印と日付を順に確認した。


「この経路なら、中央軍需倉庫から消えた物資が商会へ流れた説明はつきます」


「令状は取れるか?」


 ギャレットの問いに、エマは首を横に振った。


「取れません」


「ここまで分かっていてもか…」


「クロエさんは、商会の許可なく会話を聞き、荷印を複写しました。この地図も、正式な立会人なしに作られています」


「私が証言します」


 クロエが口を開いた。


「あなたの証言は、捜査を始める手掛かりにはなります。しかし、荷の中身も補給大臣の命令も直接確認していません」


「では、何のために調べさせたのですか」


「次に犯罪が起きる場所と時期を知るためです」


 エマは合法な記録だけを置いた机へ視線を移した。


「司法が独自に物資の不足を確認し、適法な査察を行わなければなりません。私たちが持ち帰ったものを、そのまま証拠へ変えることはできないのです」


 ルシアンは地図を取り上げず、油染みの残った端を見た。


「四日以内か」


「はい、旦那様」


「クロエ。今夜は休んでくれ」


「次の潜入先は」


「身分を失った直後に動けば、商会の追手に見つかる。次は傷が塞がってからだ」


 クロエの手の甲には、路地で擦った赤い傷が残っていた。

クロエは返事の代わりに、その手を前掛けの下へ隠した。


 エマは油染みのある地図を折り畳み、公式記録とは別の革袋へ収めた。


「真実です。ですが、法廷では存在しない記録です」



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