第4話「汚れた地図」
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濡れた布巾から、酢と古い油の匂いが立ち上っていた。
厨房の窓越しには、荷車の車輪が石床をこする音が響いている。
「裏の倉へ塩漬け肉を運んどいてくれ」
「はい、すぐに」
クロエは洗い終えた皿を重ね、帳場係から倉庫の鍵を受け取った。
補給大臣と取引する商会へ入ってから、すでに三か月が経っている。
今では厨房と食料庫だけでなく、裏庭にある荷置き場への出入りも任されていた。
「鍵をなくすんじゃないよ」
「大丈夫です。戻ったら、すぐにお返しします」
少し気弱な声で答え、両手で鍵を受け取る。
帳場係はそれ以上注意を向けず、開かれた帳簿へ顔を戻した。
厨房の裏口を出ると、荷置き場には三台の荷車が停まっていた。
積み荷には布が掛けられ、御者たちは商会の者から薄い木札を受け取っている。
木札に、品名は書かれていなかった。
赤く塗られた角と二本の線、その中央に小さな点が刻まれている。
「そこの娘、何を見てる」
荷車の脇にいた男が声を飛ばした。
「申し訳ありません。裏の倉へ、これを運ぶように言われまして」
クロエは塩漬け肉の入った籠を持ち上げた。
男は籠の中を一度確かめ、顎で倉庫を示す。
「用が済んだら、すぐ厨房へ戻れ」
「はい」
クロエは男の横を通り過ぎた。
歩調は変えず、木札にも荷車にも顔を向けない。
裏の倉へ籠を置くと、棚に並んだ豆を五粒だけ動かした。
赤い豆を左端へ置き、その横へ黒い豆を二列に並べる。
厨房へ戻ったクロエは、皿を三枚、二枚、一枚の順に重ねた。
それから木椀の向きを変え、取っ手を西側の門へ見立てて置く。
「また変な並べ方してるね」
先輩の給仕が笑った。
「大きさを揃えた方が、運びやすいかなと思って」
「そんなの、腹に入れば同じだよ」
「そうですね」
クロエも小さく笑い、皿を配膳台へ運んだ。
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その夜、補給省の役人が商会を訪れた。
役人は表の応接室を使わず、帳場の奥にある小部屋へ通される。
クロエは酒と焼いた肉を盆へ載せ、扉の前で足を止めた。
中から、低く抑えた声が漏れている。
「次は三つだ。赤が一つ、白が二つ」
「前と同じ門で?」
「いや、西へ回せ。御者も替える」
「日取りは」
「印が二つ揃ってからだ」
クロエは扉を叩いた。
「お食事をお持ちしました」
会話が止まり、内側から鍵が外された。
商会の主人はクロエの盆だけを見て、卓の端を指した。
補給省の役人は顔を上げず、羊皮紙へ商会印を押している。
「置いたら下がれ」
「承知しました」
クロエは空になった酒瓶を回収した。
卓上に残された木札には、先ほど見たものと同じ赤い角が塗られていた。
役人が訪れた夜だけ、裏庭へ入る荷車の数が増えた。
荷車は商会の帳簿へ記載されず、御者も同じ者が二度続けて使われることはなかった。
赤い角が付いた木札の翌朝には、保存食を積んだ荷車が西門を出た。
白い線が三本あった日には、軍靴の入った木箱が北側の街道へ運ばれている。
丸い点は出発の刻限を示していた。
右端なら夜明け前、中央なら日没後、左端なら日中の通常便へ混ぜられる。
クロエは帳簿を盗まなかった。
木札を持ち出すことも、役人の部屋へ忍び込むこともしない。
荷印。
日付。
使われた門。
御者の顔と荷車の傷。
厨房へ戻るたび、豆と皿と木椀の並びが少しずつ変わった。
商会の者が眠ったあと、クロエは使用人部屋の寝台へ薄い羊皮紙を広げた。
昼間に並べた器の順をたどり、荷印と経路だけを小さく写していく。
人名は書かない。
補給大臣という役職も、オーリ子爵家へつながる文字も残さない。
七日目の夜には、四つの荷印と三本の経路が地図へ書き込まれていた。
そのうち二本は、中央軍需倉庫から商会の裏庭へ続いている。
八日目の朝、帳場係が厨房の扉を閉めた。
「全員、仕事を止めな」
厨房にいた使用人たちが、一斉に手を止めた。
「昨夜、帳場の窓が開いていた。倉庫の木札も一枚、向きが変わってる」
「泥棒ですか?」
「それを今から調べる」
帳場係の後ろには、棍棒を持った男が二人立っている。
「一人ずつ部屋へ戻れ。寝床と持ち物を確認する」
使用人たちの顔が互いへ向いた。
抗議した料理人は、男の棍棒で床を叩かれると黙って列へ並んだ。
クロエは鍋の火を弱め、指示された列の最後尾へ入った。
一人目の寝床から、商会の酒瓶が見つかった。
二人目の荷物からは、厨房の塩が布袋に入った状態で出てくる。
盗みを認めた二人は裏庭へ連れ出された。
それでも、寝床の検査は止まらなかった。
「次」
男が列の前へ顎を向けた。
クロエの前には、あと三人しか残っていない。
「鍋を下ろしてもよろしいでしょうか」
「駄目だ」
「このままでは焦げてしまいます」
「放っておけ」
焦げた脂の匂いが厨房へ広がり始めた。
クロエは列を離れず、指先で前掛けの端を整える。
地図は寝床にない。
油壺の蓋、その内側にある革の合わせ目へ差し込まれていた。
厨房まで調べられれば見つかる。
地図を残せば潜入先は守れるが、十日という期限には間に合わない。
外から、大きな破砕音が響いた。
荷車が裏口の柱へ衝突し、積まれていた空樽が石床へ転がってくる。
驚いた馬が竿立ちになり、御者の怒鳴り声が商会中へ響いた。
「馬を押さえろ!」
「門を閉めろ!」
厨房の男たちが裏口へ走った。
帳場係も列から離れ、荷置き場へ向かう。
クロエは火を止めるため鍋へ近づき、そのまま油壺の蓋を外した。
内側から地図を抜き、布巾で包んで前掛けの下へ入れる。
裏庭では、横倒しになった樽の間を一人の荷運び人が走っていた。
その男は馬の手綱を掴みながら、クロエへ一度だけ視線を送る。
ギャレットだった。
クロエは灰を捨てる桶を持ち、裏口から外へ出た。
荷車の陰を抜け、商会と倉庫の間にある細い路地へ入る。
「おい、厨房の娘!」
背後から帳場係の声が飛んだ。
クロエは桶を捨てた。
前掛けを外し、路地の奥へ走り出す。
「逃がすな!」
男たちの足音が迫る。
路地の出口で、積み上げられていた空樽が一斉に崩れた。
追ってきた男たちは道を塞がれ、転がる樽を蹴り飛ばしている。
クロエは路地を抜け、停められていた荷車の荷台へ飛び乗った。
御者台へ回ったギャレットが手綱を鳴らす。
「随分と派手なお迎えですね」
「お前が予定より早く出るからだ」
「来なければ、地図は捨てていました」
「なら、樽を壊した甲斐はあったな」
荷車は市場を抜け、追手の声が届かない通りへ入った。
「商会へは戻れないぞ」
「分かっています」
「三か月かけた身分も、裏庭への出入りも終わりだ」
「必要なものは持ち出しました」
クロエは前掛けに包んだ地図を差し出した。
油が染み込み、端の文字は一部滲んでいる。
「読めるのか、これ」
「荷印は読めます。赤い角が保存食、白い三本線が軍靴です」
「次は」
「四日以内です。西門を使う可能性が高い」
「可能性?」
「御者と日付は毎回変わります。確実なのは、補給省の役人が訪れたあとに荷が動くことだけです」
その日の夜、地図はオーリ邸へ運び込まれた。
執務室の机には、油染みのある地図と補給省の納品記録が離して置かれている。
エマは双方へ触れず、記された荷印と日付を順に確認した。
「この経路なら、中央軍需倉庫から消えた物資が商会へ流れた説明はつきます」
「令状は取れるか?」
ギャレットの問いに、エマは首を横に振った。
「取れません」
「ここまで分かっていてもか…」
「クロエさんは、商会の許可なく会話を聞き、荷印を複写しました。この地図も、正式な立会人なしに作られています」
「私が証言します」
クロエが口を開いた。
「あなたの証言は、捜査を始める手掛かりにはなります。しかし、荷の中身も補給大臣の命令も直接確認していません」
「では、何のために調べさせたのですか」
「次に犯罪が起きる場所と時期を知るためです」
エマは合法な記録だけを置いた机へ視線を移した。
「司法が独自に物資の不足を確認し、適法な査察を行わなければなりません。私たちが持ち帰ったものを、そのまま証拠へ変えることはできないのです」
ルシアンは地図を取り上げず、油染みの残った端を見た。
「四日以内か」
「はい、旦那様」
「クロエ。今夜は休んでくれ」
「次の潜入先は」
「身分を失った直後に動けば、商会の追手に見つかる。次は傷が塞がってからだ」
クロエの手の甲には、路地で擦った赤い傷が残っていた。
クロエは返事の代わりに、その手を前掛けの下へ隠した。
エマは油染みのある地図を折り畳み、公式記録とは別の革袋へ収めた。
「真実です。ですが、法廷では存在しない記録です」




