第1話「天秤の質問状」
朝の光が、窓辺に置かれた天秤を二つに分けていた。
片方の秤皿は日差しを受け、もう片方は壁の影へ沈んでいる。
均衡した横木の向こうで、羊皮紙をめくる乾いた音が続いていた。
最高司法審判官の机には、オーリ子爵家から届いた鉱山監査への回答が広げられている。
傍らに置かれた茶から湯気は消え、冷めた茶葉の渋い匂いだけが残っていた。
「街道補修に使われた資材は」
「商会の納品記録と一致しております」
書記官が回答書とは別の羊皮紙を差し出した。
「石材、木材、荷車の借用費。いずれも商会側の署名と商会印を確認しました」
「人夫の賃金は」
「契約締結時に前払い。その後は七日ごとに支給されています。住民側の連絡人が帳簿を確認し、支給を受けた者がそれぞれ署名しております」
「文字を書けない者は」
「代筆者を置き、本人が立ち会ったことを別の証人が署名しています」
最高司法審判官は、住民契約の写しを引き寄せた。
強制退去の禁止。
家族ごとの契約選択。
作業中の負傷に対する治療と補償。
契約を拒んだ住民にも、集落を離れる自由と家財を持ち出す権利が認められている。
「内容の読み上げは」
「オーリ子爵家の法務補佐官と、集落に滞在する医師が行っています。住民六名の署名があり、文面と説明に相違がなかったことを証言しております」
「備蓄庫は」
「住民と管理者の共同管理へ移行しました。現物と帳簿の数量差については、原因を断定せず、確認できた不足分のみが記録されています」
最高司法審判官の指が、回答書の一行で止まった。
『管理者による正式な査察時点において、坑道および共同備蓄庫を占拠する武装集団は確認されなかった』
「前回の報告と同じだな」
「はい」
「武装集団は、どこへ消えた」
「住民の証言では、夜明け前に集落から退去したとあります」
「交渉の有無は」
「確認できておりません」
「オーリ子爵家の人員が、坑道へ入った記録は」
「ございません」
「令状の発行は」
「ありません」
「拘束されたと訴える者は」
「現時点では、一人も」
最高司法審判官は回答書の余白へ、赤い印を付けた。
「退去した者の氏名と現在地を照会しろ。集落の住民と管理者側に、夜間の負傷者が出ていないかも確認させる」
「追加の監査質問を送りますか?」
「送れ」
書記官は羽根ペンを取り、新しい羊皮紙へ質問を書き始めた。
「オーリ子爵の回答には、虚偽と認められる箇所がありません」
「武装集団が消えた理由も書かれていない」
「証明できないことは書けない、と抗弁するでしょう」
「その抗弁は正しい」
書記官の羽根ペンが止まった。
最高司法審判官は、赤い印を付けた一行を指先で叩いた。
「ゆえに処罰しない。だが、証明できないものを無実として閉じることもしない」
書記官が再び羽根ペンを動かした直後、執務室の扉が三度叩かれた。
「失礼いたします。独立司法軍より、将軍の署名が入った不足報告が届きました」
入室した司法官が、軍の封蝋で閉じられた文書を差し出す。
最高司法審判官は封を切り、報告書を机へ広げた。
保存食。軍靴。盾。槍穂。
必要数と受領数が並び、その差が赤い文字で記されている。
「国庫の支出記録を」
書記官が壁際の棚へ向かい、革表紙の帳簿を運んだ。
該当する月の記録には、独立司法軍へ支給される物資の代金が記載されている。
支払いは完了し、国庫の印も押されていた。
「補給省の納品記録は」
「こちらです」
別の帳簿が開かれる。
契約商人から中央軍需倉庫へ、指定された数量が納められている。
商会印、倉庫の受領印、補給省の確認印にも欠けはない。
その隣へ、将軍の不足報告が並べられた。
国庫は全量分を支払っている。
補給省は全量を納めたと記録している。
独立司法軍には、その一部しか届いていない。
「将軍は、補給大臣の私邸と契約商人の倉庫に対する即時捜索を求めております」
「却下だ」
最高司法審判官の返答に、司法官の眉が動いた。
「複数の部隊で、同じ不足が確認されています。部隊長と倉庫番の署名もございます」
「物資が足りないことは証明できる」
最高司法審判官は、補給省の納品記録を将軍の報告書へ重ねた。
「誰が、どの場所で、何を抜いた」
「補給を統括しているのは補給大臣です」
「役職は証拠にならない」
「このままでは、保存食が次の支給日まで持ちません。軍靴も盾も、修繕だけでは限界です」
「だからこそ、誤った令状で証拠を潰すわけにはいかない」
最高司法審判官は将軍の要請書を引き寄せた。
補給大臣の私邸。
補給省と契約する商人の私有倉庫。
関係者の帳簿と荷車。
求められている捜索範囲へ、赤い線が一本ずつ引かれていく。
「不足は事実だ。補給大臣が盗んだという部分は推測にすぎない」
「真実であっても、ですか」
「真実ならば、手続きを守って証明しろ。違法に得た証拠を法廷から排除するのも、私の職務だ」
最後の項目にも赤い線が引かれた。
「将軍を呼べ」
「捜索を認めないと、直接お伝えになるのですか?」
「同時に、不足報告の作成に関わった倉庫番と部隊長を待機させろ。受領の手順を最初から確認する」
司法官が要請書を受け取り、一礼して退室した。
机の反対側では、鉱山監査の質問状が完成していた。
最高司法審判官はそれを読み、末尾へ空欄を追加した。
「もう一つ、質問を入れる」
「鉱山に関する質問は、以上でございますが」
「鉱山ではない」
最高司法審判官は新たな羊皮紙を取り出し、書記官へ渡した。
「公的記録上は全量が納品され、受領先では不足している物資がある。責任者を推測せず、立証可能な事実へ到達する手段を示せ――そう書け」
書記官は言われた文面を書き留めたあと、宛名欄へ視線を移した。
「監査対象であるオーリ子爵へ、司法軍の補給問題について意見を求めるのですか」
「監査対象であっても、罪人とは限らない」
「信用なさるのですか」
最高司法審判官は、鉱山報告書の空白に付けた赤い印を一度見た。
「信用は必要ない。届いた回答が証拠に耐えるか、それだけを確認する」
二通の文書へ、独立司法の印が押された。
一通は、独立司法軍の将軍を呼び出す召喚状。
もう一通は、鉱山監査へ続く新たな質問状。
乾いていない封蝋の下には、再び同じ宛名が記されていた。
『オーリ子爵、ルシアン・フォン・オーリ殿』
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