第13話「肩越しの王都」
----------------------------Side : セレナ----------------------------
積み荷を縛る縄が、軋むような音を立てていた。
酒場の窓からは焼き直したパンの匂いが流れ、街道には荷車が次々と入ってくる。
鉱山集落を初めて訪れた日とは、明らかに違っていた。
倉庫の扉は開かれ、返還された備蓄が種類ごとに並べ直されている。
街道では住民たちが砕石を運び、陥没した箇所を少しずつ埋めていた。
鉱山そのものは、まだ再稼働していない。
坑道の入口は閉ざされたままで、新たな鉱脈が見つかったわけでもない。
復旧が始まったというだけで、集落の暮らしが安定したとは言えなかった。
「ここ、もう一回読んでくれるかい」
酒場の卓では、リタさんが帳簿を前にエマさんと向かい合っていた。
「街道補修に従事した者への賃金です。作業日数と支給額が、こちらに記載されています」
エマさんが一行ずつ読み上げる。
リタさんは自分でも扱える数字と印を指で追い、酒場の壁に貼られた作業表と照らし合わせていた。
「こっちの男は二日目の昼に帰ってる。満額じゃないね」
「はい。半日分を差し引いています」
「なら合ってる」
リタさんは帳簿の端へ、自分が確認したことを示す印を付けた。
今後は週に一度、住民の前で帳簿が読み上げられる。
リタさんは住民側の連絡人として、賃金が契約通りに支払われたか、備蓄が勝手に持ち出されていないかを確認する。
旦那様の臣下になったわけではない。
まして、私たちの裏側へ加わったわけでもない。
契約が守られている限り協力し、破られれば住民の側に立って抗議する。
それが、リタさんの役割だった。
「ねえ、エマさん」
帳簿を閉じたリタさんが尋ねた。
「これを最初から最後まで、自分で読めるようになるには、何から始めりゃいい」
「まず文字の読み書きです。その後、契約書で使われる言葉と、基本的な法律を学ぶことになります」
「どれくらいかかる?」
「学ぶ時間によります。ただ、帳簿の数字を理解されていますから、まったくの最初からではありません」
「金は――」
エマさんが答える前に、旦那様が口を開いた。
「住民側の連絡人に必要な教育として、鉱山の管理費から出そう」
「恩を売る気かい?」
「仕事に必要な費用を負担するだけだよ」
「途中でアタシがアンタに逆らってもかい」
「契約に反していないなら、何も問題はない」
リタさんはしばらく旦那様を見たあと、鼻を鳴らした。
「なら使わせてもらうよ。アタシが文字を読めるようになって困るのは、嘘を書いてる奴だけだ」
「その通りだ」
旦那様は、それ以上の礼も忠誠も求めなかった。
学ぶ場所や時間は、まだ決まっていない。
それでもリタさんは、エマさんから渡された練習用の木板を、酒場の棚ではなく自分の鞄へしまった。
出発の準備が整い、旦那様たちが外へ出たあと、私は最後に忘れ物がないか酒場の中を確認した。
「政略結婚、止まったんだってね」
背後から、リタさんの声がした。
「消滅したわけではありません。独立監査が終了するまで、執行が凍結されただけです」
「でも、今すぐ結婚することはなくなった」
「はい」
「安心したかい?」
「旦那様が王族派に取り込まれる危険を、当面は回避できましたので」
「そういう話じゃないよ」
私は卓を拭いていた布を畳んだ。
リタさんは、逃げ道を塞ぐように私の正面へ立つ。
「アンタ自身は、安心したのかって聞いてる」
「私の感情は、旦那様の判断に関係ございません」
「関係があるかどうかは聞いてない」
あの日と同じだった。
何をしたいのか。
何が欲しいのか。
旦那様のことなら、いくらでも答えられる。
けれど、自分のことになると、言葉が喉の奥で止まる。
「使用人が主人の婚姻に安堵するなど、分を超えています」
「気持ちに身分証でも付いてるのかい?」
「そういう意味では……」
「じゃあ、安心したなら安心したって言えばいい」
言えるはずがなかった。
旦那様が誰とも婚姻しないことを望んでいると口にすれば、それは忠誠でも職務でもなくなる。
私が隠してきたものへ、名前を与えることになる。
「どうして、そこまで隠すんだい?」
「旦那様のご負担になるからです」
「それを決めるのも、あのお貴族様かい?」
私は答えられなかった。
私の望みを告げることは、旦那様を困らせることだと思っていた。
けれど、それは本当に旦那様が決めたことなのだろうか。
私が傷つかないよう、最初から答えを決めているだけではないのか。
「出発のお時間です」
ようやく口にできたのは、いつもの言葉だった。
リタさんは呆れたように息を吐き、酒場の扉を開けた。
「まあいいさ。今すぐ答えろとは言わないよ」
外では、旦那様が馬車の前で待っている。
リタさんはその姿を見つけると、声を張った。
「お貴族様!次の賃金支払日、銅貨一枚でも足りなかったら王都まで請求書を送りつけるからね!」
「そのためにも、早く文字を覚えるといい」
「言われなくても覚えるよ!」
最後まで、リタさんは旦那様の名前を呼ばなかった。
鉱山集落を後にした一行は、その日のうちに王都の外門を抜けた。
城壁が遠ざかるにつれ、馬車の行き交う音が少なくなっていく。
旦那様は車内でも報告書を開いていた。
しかし、同じ頁をいつまでもめくろうとしない。
「旦那様。少しお休みください」
「領地へ戻るまでに、確認しておきたいことがある」
「文字を追えていらっしゃいません」
「……手厳しいね」
旦那様は小さく息を吐き、ようやく書類を閉じた。
それから間もなく、規則正しかった呼吸がゆっくりと深くなる。
馬車が街道の窪みを越えたとき、旦那様の身体が僅かに傾いた。
肩へ、重みが触れる。
私は動かなかった。
起こすべきだと思った。
姿勢を戻し、首を痛めないよう長椅子へ横になっていただくべきだった。
それでも、手を伸ばせなかった。
窓の外では、王都の城壁が小さくなっていく。
旦那様の肩越しに見える尖塔は、やがて街道の向こうへ沈んでいった。
婚姻命令は消えていない。
監査が終われば、再び執行される可能性がある。
国王も、王族派筆頭公爵も、諦めたわけではない。
それでも今だけは、旦那様が誰かの夫になる未来を考えずに済む。
私は安心していた。
認めてしまえば、それはあまりにも単純な感情だった。
旦那様を守りたい。
その思いに嘘はない。
けれど、守ることと、自分の望みを告げることは同じではなかった。
私はずっと、前者だけを選ぶことで後者から逃げてきた。
馬車の後方から、蹄の音が近づいてくる。
「オーリ子爵様へ、独立司法からの急使です!」
窓を開くと、騎手が封書を差し出した。
旦那様はまだ眠っている。
私は肩を動かさないまま、片手だけを伸ばして封書を受け取った。
封蝋に押されていたのは、王家ではなく、司法の印だった。
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