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悪徳子爵は裁かれない  作者: 空っぽの零時
第4章:首輪のない猟犬
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第12話「法を信じない男」

 分厚い法典を閉じる音が、執務室に響いた。

窓から差し込む光が机を直線に切り分け、その上には王家と独立司法、二つの異なる印章が並んでいる。


 最高司法審判官は、三通の文書を机へ並べた。


 一通目は、王家から届いた婚姻承認の照会。

二通目は、オーリ子爵が提出した鉱山の監査開始届。

三通目は、同地の安定化を記した現状報告書だった。


 審判官は創世王典を開き、王家資産保全条項へ細い革紐の栞を挟んだ。


 独立監査の開始から終了まで、管理者は王家資産の支配関係へ影響する身分変更を行えない。


 公爵令嬢との婚姻によって共同代表権と相続請求権が生じる以上、婚姻命令の即時執行には最高司法審判官の承認が必要となる。


 審判官は婚姻承認の照会へ、短い文言を書き加えた。


『婚姻命令は有効。ただし、独立監査終了まで執行を認めず』


 続いて、鉱山の現状報告書を引き寄せる。


 住民契約には、読み上げに立ち会った証人の署名がある。

返還された備蓄は、品目と数量が記録されている。

街道補修には、雇用された人数、日当、作業区間が記されている。


 どの項目にも、証言または現物による裏付けが添えられていた。


 審判官の指が、報告書の一文で止まる。


『査察時点において、武装占拠および組織的抵抗は確認されなかった』


 武装集団が最初から存在しなかったとは書かれていない。

自発的に退去したとも、交渉によって解散したとも書かれていない。

報告書のどこにも、彼らが集落を去った経緯は記されていなかった。


「オーリ子爵を呼べ」


----------------------------


 その日の午後、ルシアンは一人で執務室へ入った。


 審判官が示した席へ座り、机に並べられた文書へ視線を向ける。


「婚姻命令の執行停止を認める」


「感謝いたします」


「君のためではない。法がそう定めている」


 審判官は婚姻承認書を机へ置いた。


「命令は撤回されていない。監査が終わるか、司法が承認すれば執行される」


「承知しております」


「では、監査の話をしよう」


 審判官が鉱山の現状報告書を開く。


「査察時点では、武装占拠がなかった」


「はい」


「君が管理を命じられる以前には、武装した集団が倉庫と鉱山入口を押さえていた。住民から複数の証言が届いている」


「そのように聞いております」


「彼らはどこへ行った」


「存じません」


「交渉したか」


「私からは」


「部下に交渉させたか」


「報告書に記した事実が、私の公式な回答のすべてです」


 審判官はしばらくルシアンを見たあと、報告書の一文へ赤い印を付けた。


「質問への答えになっていない」


「虚偽でもございません」


「だから厄介なのだ」


 審判官は別の羊皮紙を取り出した。


「武装した男たちが、金も備蓄も奪わず、一夜で全員消えた。翌朝には組織的な抵抗がなくなり、住民契約の締結が始まっている」


「事実であれば、管理者として喜ばしい限りです」


「違法な拘束か」


 ルシアンの表情は変わらない。


「暴力か。脅迫か。それとも、すべてか?」


「それを示す証拠はございますか?」


「ない」


 審判官は即答した。


「被害届はない。拘束に使われた道具も、傷を記録した医師の証言もない。男たちの移動先を示す旅券や宿泊記録もない」


 机上へ、空白の証拠目録が置かれる。


「司法の令状が悪用された形跡も、君の命令を記した文書もない。関与を証言する者さえ一人もいない」


「でしたら、私から申し上げられることはございません」


「罪の臭いはする」


 審判官の声に変化はなかった。


「だが、臭いは証拠ではない」


 ルシアンは何も答えない。


「現時点で、君を逮捕する根拠はない。処罰する根拠もない。だから裁かない」


「公正なご判断です」


「証拠がないことは、無実を意味しない」


 審判官は空白の証拠目録を閉じた。


「現時点では裁けないというだけだ」


 執務室に、時計の音が続いた。


 審判官は席を立たず、ルシアンへ問いかける。


「君は、法を信じているのか?」


「いいえ」


 答えは早かった。


「私が信じるのは、立証できる事実だけです」


「事実は、立証されなくとも存在する」


「しかし、法が扱えるのは立証された事実だけです」


「危険な答えだ」


「間違っておりますか?」


「法廷の中では正しい」


 審判官が監査命令書を引き寄せる。


「だが君は、法を守ろうとしているのではない。法で裁けない場所へ罪を置こうとしている」


「それも、証明されていない推測です」


「ああ。だから処罰はしない」


 審判官は羽根ペンを取った。


「代わりに、手続きを増やす」


 監査命令書へ、一項目ずつ条件が書き加えられていく。


「収支の月次報告。すべての支出証憑の保存。予告なしの現地査察。住民契約の原本確認。契約者本人への個別聞き取り」


「随分と厳格ですね」


「君が報告書へ書かなかったものを、別の記録から確認する」


「陛下のご要望ですか」


「私の判断だ」


 審判官はペンを止め、ルシアンを見る。


「王は君の罪を望み、君は自らの無罪を望む。私はどちらも認定していない」


 机上の王家の印章と、独立司法の印章が離される。


「証拠を出せ。判断はそのあとだ」


「監査を拒否するつもりはございません」


「拒めば管理委任契約への違反となる」


「承知しております」


「証拠が見つかれば、婚姻より先に君を裁く」


「法が定める通りに」


 審判官は監査命令書の末尾に署名した。


 続いて独立司法の印を押し、まだ乾いていない文字の上へ砂を振りかける。


「君が残さなかった証拠を、法の内側から探す」



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