第12話「法を信じない男」
分厚い法典を閉じる音が、執務室に響いた。
窓から差し込む光が机を直線に切り分け、その上には王家と独立司法、二つの異なる印章が並んでいる。
最高司法審判官は、三通の文書を机へ並べた。
一通目は、王家から届いた婚姻承認の照会。
二通目は、オーリ子爵が提出した鉱山の監査開始届。
三通目は、同地の安定化を記した現状報告書だった。
審判官は創世王典を開き、王家資産保全条項へ細い革紐の栞を挟んだ。
独立監査の開始から終了まで、管理者は王家資産の支配関係へ影響する身分変更を行えない。
公爵令嬢との婚姻によって共同代表権と相続請求権が生じる以上、婚姻命令の即時執行には最高司法審判官の承認が必要となる。
審判官は婚姻承認の照会へ、短い文言を書き加えた。
『婚姻命令は有効。ただし、独立監査終了まで執行を認めず』
続いて、鉱山の現状報告書を引き寄せる。
住民契約には、読み上げに立ち会った証人の署名がある。
返還された備蓄は、品目と数量が記録されている。
街道補修には、雇用された人数、日当、作業区間が記されている。
どの項目にも、証言または現物による裏付けが添えられていた。
審判官の指が、報告書の一文で止まる。
『査察時点において、武装占拠および組織的抵抗は確認されなかった』
武装集団が最初から存在しなかったとは書かれていない。
自発的に退去したとも、交渉によって解散したとも書かれていない。
報告書のどこにも、彼らが集落を去った経緯は記されていなかった。
「オーリ子爵を呼べ」
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その日の午後、ルシアンは一人で執務室へ入った。
審判官が示した席へ座り、机に並べられた文書へ視線を向ける。
「婚姻命令の執行停止を認める」
「感謝いたします」
「君のためではない。法がそう定めている」
審判官は婚姻承認書を机へ置いた。
「命令は撤回されていない。監査が終わるか、司法が承認すれば執行される」
「承知しております」
「では、監査の話をしよう」
審判官が鉱山の現状報告書を開く。
「査察時点では、武装占拠がなかった」
「はい」
「君が管理を命じられる以前には、武装した集団が倉庫と鉱山入口を押さえていた。住民から複数の証言が届いている」
「そのように聞いております」
「彼らはどこへ行った」
「存じません」
「交渉したか」
「私からは」
「部下に交渉させたか」
「報告書に記した事実が、私の公式な回答のすべてです」
審判官はしばらくルシアンを見たあと、報告書の一文へ赤い印を付けた。
「質問への答えになっていない」
「虚偽でもございません」
「だから厄介なのだ」
審判官は別の羊皮紙を取り出した。
「武装した男たちが、金も備蓄も奪わず、一夜で全員消えた。翌朝には組織的な抵抗がなくなり、住民契約の締結が始まっている」
「事実であれば、管理者として喜ばしい限りです」
「違法な拘束か」
ルシアンの表情は変わらない。
「暴力か。脅迫か。それとも、すべてか?」
「それを示す証拠はございますか?」
「ない」
審判官は即答した。
「被害届はない。拘束に使われた道具も、傷を記録した医師の証言もない。男たちの移動先を示す旅券や宿泊記録もない」
机上へ、空白の証拠目録が置かれる。
「司法の令状が悪用された形跡も、君の命令を記した文書もない。関与を証言する者さえ一人もいない」
「でしたら、私から申し上げられることはございません」
「罪の臭いはする」
審判官の声に変化はなかった。
「だが、臭いは証拠ではない」
ルシアンは何も答えない。
「現時点で、君を逮捕する根拠はない。処罰する根拠もない。だから裁かない」
「公正なご判断です」
「証拠がないことは、無実を意味しない」
審判官は空白の証拠目録を閉じた。
「現時点では裁けないというだけだ」
執務室に、時計の音が続いた。
審判官は席を立たず、ルシアンへ問いかける。
「君は、法を信じているのか?」
「いいえ」
答えは早かった。
「私が信じるのは、立証できる事実だけです」
「事実は、立証されなくとも存在する」
「しかし、法が扱えるのは立証された事実だけです」
「危険な答えだ」
「間違っておりますか?」
「法廷の中では正しい」
審判官が監査命令書を引き寄せる。
「だが君は、法を守ろうとしているのではない。法で裁けない場所へ罪を置こうとしている」
「それも、証明されていない推測です」
「ああ。だから処罰はしない」
審判官は羽根ペンを取った。
「代わりに、手続きを増やす」
監査命令書へ、一項目ずつ条件が書き加えられていく。
「収支の月次報告。すべての支出証憑の保存。予告なしの現地査察。住民契約の原本確認。契約者本人への個別聞き取り」
「随分と厳格ですね」
「君が報告書へ書かなかったものを、別の記録から確認する」
「陛下のご要望ですか」
「私の判断だ」
審判官はペンを止め、ルシアンを見る。
「王は君の罪を望み、君は自らの無罪を望む。私はどちらも認定していない」
机上の王家の印章と、独立司法の印章が離される。
「証拠を出せ。判断はそのあとだ」
「監査を拒否するつもりはございません」
「拒めば管理委任契約への違反となる」
「承知しております」
「証拠が見つかれば、婚姻より先に君を裁く」
「法が定める通りに」
審判官は監査命令書の末尾に署名した。
続いて独立司法の印を押し、まだ乾いていない文字の上へ砂を振りかける。
「君が残さなかった証拠を、法の内側から探す」
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