第11話「王の首輪」
小謁見室の扉は、内側から閉ざされていた。
机の上で封蝋が割れる音だけが響き、室内にいる誰も咳一つしない。
国王は、オーリ子爵から提出された回答書を開いた。
婚姻命令を拒絶する意思はない。
貴族家継承安定法の目的を尊重し、法的条件が整い次第、王命へ従う。
冒頭には、臣下として模範的な言葉が並んでいる。
問題は、その下だった。
『独立監査期間中における婚姻の成立は、創世王典に定める王家資産保全条項へ抵触する可能性がある』
国王は最後まで読み終え、回答書を机へ置いた。
「面白い戯言だ」
小謁見室には、王族派筆頭公爵、王家の法務官、オーリ子爵、そして法務補佐としてエマが同席している。
「鉱山は婚姻後も王家の所有物だ。公爵家へ譲渡されるわけではない。資産移転には当たらぬ」
「陛下のおっしゃる通り、所有権は移りません」
答えたのはエマだった。
国王の前で声を震わせることなく、管理委任状を開く。
「しかし、創世王典が保全の対象としているのは、所有権だけではございません。管理者および支配関係の変更も含まれます」
「婚姻したところで、管理者はオーリ子爵のままであろう」
「名目上は」
エマが別の条文を示す。
「公爵令嬢がオーリ子爵家へ入れば、同家の共同代表権を得ます。さらに婚姻によって生まれる子には、オーリ家の財産と管理権に対する相続請求権が生じます」
王族派筆頭公爵家が、婚姻を通じて鉱山の管理へ介入できる。
所有権を奪わず、管理者の内側へ別の家を入り込ませる。
それこそが、古い王家資産保全条項が防ごうとした行為だった。
「法務官」
国王は視線を動かした。
「この女の解釈は正しいのか」
法務官はすぐには答えなかった。
机に置かれた創世王典、管理委任状、監査開始届の受領証を順に確認する。
オーリ子爵へ味方するためではない。
一つでも誤った判断をすれば、王家の法務官自身が上位法に反する命令を認めたことになる。
「婚姻によって共同代表権が発生する以上、王家資産の支配関係へ影響すると解釈されます」
「王命よりも優先されると申すか」
「貴族家継承安定法は王国法です。しかし、王家資産保全条項は創世王典に属します」
法務官は深く頭を下げた。
「即時の婚姻成立を承認することは困難かと存じます」
国王は法務官を責めず、杖の先をルシアンへ向けた。
「法務官は職務を果たしただけだ。条文を曲げて余へ媚びる者など、こちらから願い下げだからな」
杖の先が、管理委任状の署名欄を叩いた。
「問題は、余の命令同士を噛み合わせた貴様だ」
「独立監査が始まっていなければ、この条項は効力を持たぬ」
「はい」
エマが監査開始届の受領証を差し出す。
「監査は一昨日、独立司法によって正式に受理されております」
司法の印。
受理の日付。
形式に不備はない。
「監査開始届は、鉱山の現状確認に必要な通常手続きだと報告を受けた。だから止めなかった」
オーリ子爵も、監査そのものを望んでいるように見えた。
「鉱山を安定させるより先に、監査開始届を出しているな」
国王の問いに、ルシアンは一礼した。
「管理委任状に定められた手続きを、期限どおり行ったまでです」
「その受領印が、婚姻を止めると知りながらか」
「私が回答すべきことは、提出した書類に記載しております」
国王はオーリ子爵へ目を向ける。
「鉱山の管理委任を撤回する」
それで管理者ではなくなる。
保全条項の拘束も消え、婚姻命令だけが残る。
オーリ子爵は表情を変えなかった。
「管理委任状をご確認ください」
机上の原本が、国王の方へ向けられる。
「独立監査が終わるまで、管理者に明確な契約違反がない限り、王家は一方的に管理権を撤回できません」
「余が与えた権限だ。余が取り上げて何が悪い」
「陛下の権限を否定するつもりはございません」
オーリ子爵は末尾を示した。
「ですが、これは陛下と私の双方を拘束する契約です」
そこには、国王自身の大印が押されている。
鉱山の赤字も、住民の保護も、復旧費用も、すべてオーリ子爵へ背負わせるために作らせた契約だった。
簡単に逃げられぬよう、管理者からも王家からも一方的な解除権を奪った。
オーリ子爵を縛るための鎖が、今は国王の手首へ巻き付いている。
「契約違反ならば、あるのではないか」
国王は鉱山の報告書へ指を置いた。
「武装集団に占拠されていた集落が、数日で平穏を取り戻した。随分と都合のよい話だ」
「疑わしいことと、契約違反が立証されていることは同じではございません」
エマの返答だった。
「現在確認されているのは、住民契約の締結、備蓄の返還、街道補修の開始、そして査察時点で武装占拠が存在しなかったという事実です」
隙間の多い報告書。
国王は報告書を卓上へ投げた。
「この報告書が何かを隠していることくらい、余にも分かる。だが、“何か”では契約違反を立証できぬ」
「陛下」
それまで黙っていた王族派筆頭公爵が口を開いた。
「管理委任は、オーリ子爵への褒賞として公に発表されております」
「分かっておる」
「それを数日で撤回すれば、王家の契約は都合次第で破棄されるものと見られましょう。今後、陛下との契約へ大印だけでは足りぬと申す者が現れます。また、婚姻命令を撤回せよと申し上げているのではございません」
筆頭公爵は、娘ではなく王家の大印へ目を向けた。
「ただ、一人の子爵を縛るために大印の契約を破れば、次から陛下と契約する者は、印だけでは足りぬと考えましょう」
公爵家の権力もまた、王の契約が守られることを前提としているからだ。
「オーリ子爵」
国王は静かに呼びかけた。
「余の命令へ逆らうつもりはないと申したな」
「はい」
「では、いつ従う」
「監査が終わり、法が許す日に」
拒絶ではない。
反逆でもない。
王へ服従する言葉だけを使いながら、王命の実行を止めている。
「法務官」
「はっ」
「婚姻命令は撤回せぬ。独立監査の終了、または最高司法審判官の承認が得られるまで、執行を凍結せよ」
法務官が命令を書き留める。
オーリ子爵は婚姻を免れた。
だが同時に、赤字鉱山の管理義務からも逃れられない。
「余は貴公を、有能な猟犬だと考えていた」
国王は、ルシアンが退出した扉を睨んだ。
「だが、首輪を握る手へまで牙を立てるとはな」
杖の先が、独立司法府の印へ置かれる。
「法の隙間へ身を隠すなら、その隙間ごと暴け。独立司法へ正式な監査要請を送れ」
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