第10話「凍結された婚姻」
----------------------------Side : セレナ----------------------------
夜明け前の机には、開かれた法典が幾重にも積まれていた。
冷めた紅茶の表面には薄い膜が張り、羊皮紙の上では赤い線が同じ条文を何度も往復している。
私は、エマさんが引いた線の意味を追っていた。
婚姻命令を受けてから、一睡もしていない。
「無理です」
エマさんの声は、静かだった。
「貴族家継承安定法の要件を、閣下はすべて満たしています」
エマさんは三枚の羊皮紙を机へ並べた。
「未婚、法定継承者なし、王国の物流に関わる重要地の管理者。指定された相手も同格以上。命令の成立要件に欠けはありません」
「王族派に取り込まれる危険は、拒絶理由にならないのですか」
ギルバートさんの問いに、エマさんは首を横に振った。
「政治上の不利益は、法が認める正当な拒絶理由に含まれません」
旦那様は婚姻命令ではなく、隣に置かれた管理委任状を引き寄せた。
「誰が拒絶すると言ったのかな」
「では、お受けになるのですか?」
「命令には従う。ただし、法が婚姻の成立を許す日に」
旦那様の指が、王家資産保全条項の一行で止まる。
「回答書にはこう記そう。“婚姻命令を尊重する。しかし、独立監査の終了まで、その執行を可能とする法的条件が存在しない”と」
受け入れれば王族派に組み込まれる。
拒めば王家管理官が入る。
その二つしかないと思っていた。
けれど旦那様は、どちらも選ばなかった。
王命そのものには逆らわず、それが執行される“時”だけを、王自身の署名した契約で封じたのだ。
エマさんは回答書を読み返し、最後の一文へ赤い印を付けた。
「拒絶ではありません。履行条件が整っていないと回答するのですね」
「そういうことだ。王命は残る。だが、王自身が押した大印が、その執行を止める」
ギルバートさんが、管理委任状へ視線を落とした。
「陛下が管理権を取り上げた場合は?」
「監査中の一方的な撤回は、王家自身の契約違反になる」
旦那様は、まるで最初から答えを知っていたかのように、冷めた紅茶へ手を伸ばした。
婚姻命令が消えたわけではない。それでも、明日すぐに誰かの夫になることはない。
胸の奥で、張り詰めていた何かが緩んだ。
安堵したのだと認めるより先に、別の感情が追いついた。
この人は法に守られているのではない。
法を動かし、王すら同じ檻へ入れている。
それが、少しだけ怖くて。
離れたくなかった。
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