第9話「王命の花嫁」
----------------------------Side : セレナ----------------------------
洗い終えたカップの縁から、水滴が一つずつ卓へ落ちていた。
酒場の外からは、荷車へ木箱を積み替える掛け声と、板を打ち付ける槌の音が聞こえてくる。
その音を遮るように置かれた召喚状の封蝋には、王家の紋章が深く刻まれていた。
鉱山周辺の問題には、ひとまず目処が立っている。
備蓄は住民へ返還され、街道の補修も始まった。
酒場の壁には、賃金と食料配分を炭で記した木板が掛けられ、エマさんが毎朝、希望する者へ内容を読み上げている。
武装していた男たちがいなくなった理由を、住民たちは尋ねない。
夜明け前に聞こえた物音も、床に残っていた泥も、誰も見なかったことにしている。
その沈黙が旦那様の用意したものだと、私は知っていた。
「替えの上着は馬車へ運びました。王宮到着後、謁見まで時間がない場合に備え、車内で着替えられるようにしております」
私は旅支度を確認しながら、召喚状を革の書類入れへ収めた。
「昼食はどうするんだい?」
カウンターの向こうで、リタさんが濡れたカップを拭いている。
「旦那様は移動の直前には多く召し上がりません。パンと燻製肉を少量、馬車へ用意します」
「飲み物は」
「香りの弱い茶を。揺れる車内では濃く淹れると酔いやすくなりますので」
「王宮へ着いたあとは」
「おそらく長時間待たされます。エマさんは法令集を、ギルバートは領地の直近の収支報告を準備されています。私は旦那様のお疲れが見えましたら、休憩を申し入れるつもりです」
リタさんの手が止まった。
「何を聞いても、すぐ答えるね」
「必要なことですから」
「お貴族様が何を食べるか、いつ休むか、何を嫌がるか。アンタは全部知ってる」
褒められているのではない。
そう気付いて顔を上げると、リタさんは私をまっすぐ見ていた。
「じゃあ、アンタは王都で何が食べたい」
「私は余ったもので十分です」
「食べ物じゃなくてもいい。何が欲しい」
「特にはございません」
「ここを出たあと、どこへ行きたい」
「旦那様が向かわれる場所へ」
答えるたび、リタさんの眉間の皺が深くなる。
何か間違ったことを言っただろうか。
旦那様の予定を滞りなく進め、危険を排除し、必要なものを先回りして整える。それが私の仕事であり、私が望んで選んだ生き方だ。
私は不幸ではない。
むしろ、拾われる前には想像もできなかったほど多くのものを与えられている。
「アンタは、あのお貴族様のためなら何でもする」
リタさんが乾いたカップを棚へ戻した。
「じゃあ、アンタ自身はどうしたいんだい」
「旦那様にお仕えすることが望みです」
迷わず答えたはずだった。
けれど、言葉が胸の内へ落ちていかない。
お仕えしたい。それは偽りではない。
旦那様の傍らで働き、あの方の手が届かない場所を補い、その進む道を整えたい。
では、もし旦那様が私を必要としなくなったら。
もし、私ではない誰かを傍らへ置くことになったら。
それでも同じ答えを口にできるのか。
「……出発の時間ですので」
私は逃げるように一礼した。
リタさんは追及しなかった。
ただ、酒場を出る私の背中へ、低い声を投げた。
「誰かに仕えるのと、自分をなくすのは同じじゃないよ」
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王宮へ到着した私たちは、謁見の間ではなく、来賓用の控え室へ通された。
室内にはすでに、王族派筆頭公爵とその娘が待っていた。
筆頭公爵は旦那様へ儀礼通りの挨拶をした。
その態度には余裕があった。すでに結論が決まっており、あとは私たちへ告げるだけだと知っている者の余裕だった。
娘は父親の半歩後ろに立ち、静かに一礼した。
私は壁際に用意された茶器を確認し、給仕の準備を始める。
「そちらの使用人に任せればよい」
王族派筆頭公爵が、王宮の侍女を示した。
「彼女の方が私の好みを知っておりますので」
旦那様が穏やかに答える。
筆頭公爵はそれ以上何も言わなかった。
公爵令嬢も私を咎めず、差し出したカップを受け取る際、小さく「ありがとう」と告げた。
その声に侮蔑はなかった。
だからこそ、私は彼女を憎むことができなかった。
彼女もまた、父親に命じられてここへ立っている。
何を望んでいるのかを尋ねられないまま、家と王家の都合によって行き先を決められる。
違うのは、彼女の人生を王国法が価値あるものとして扱い、私の望みなど初めから数えもしないことだけだった。
扉が開き、王家の法務官が二人の書記官を伴って入室した。
全員が席へ着くと、法務官は大印の押された文書を広げる。
「貴族家継承安定法に基づく、国王陛下のご命令を申し渡します」
室内から、衣擦れの音さえ消えた。
「オーリ子爵家は当主未婚、かつ法定継承者不在の状態にあります。加えて、同家当主は王家資産たる旧鉱山の管理を委任されており、その地位の安定は王国の利益に直結するものと認められました」
法務官が文書の次の行へ視線を移す。
「よって、オーリ子爵と王族派筆頭公爵閣下のご令嬢との婚姻を命じます」
私は茶器へ手を伸ばした。
考えてはいけない。
旦那様のカップが空いている。
茶はまだ冷めていない。
注ぐ量は七分目。
今の私に必要なのは、それだけだ。
「婚姻の日程および詳細については、両家の協議を経たのち、王家の承認をもって定めます」
「仮に、私が拒んだ場合は」
旦那様が尋ねた。
声に動揺はなかった。
「正当な理由なき拒絶と判断された場合、王家はオーリ子爵家へ管理官を置くことができます」
法務官は淡々と答える。
「管理官には、家政監督、財政支出の承認、継承に関する文書の保全、ならびに領地経営への勧告権が与えられます。状況によっては、当主単独での財産処分を制限することも可能です」
婚姻を受け入れれば、旦那様は王族派へ組み込まれる。
拒めば、オーリ家そのものへ王家の手が入る。
領地の財政も、商会との契約も、これまで集めてきた証拠も、旦那様一人の判断では動かせなくなるかもしれない。
逃げ道のない命令だった。
私は旦那様の前へカップを置く。
陶器が受け皿に触れ、微かな音を立てた。
指が震えていた。
誰にも気付かれぬ程度の、ごく僅かな震えだったはずだ。
けれど、旦那様はカップではなく、私の手元へ一瞬だけ視線を向けた。
「回答期限は?」
「本日より七日です」
「承知しました」
旦那様は婚姻を拒まなかった。
「命令の原本を確認したうえで、期限内に正式な回答を提出いたします」
筆頭公爵が僅かに目を細めた。
「娘との婚姻に、不満がおありかな」
「ご令嬢個人への評価と、王命へ回答するための法的確認は別の問題です」
公爵令嬢は何も言わない。
膝の上で重ねられた彼女の手も、私の指と同じように強く握られていた。
私はようやく認めざるを得なかった。
旦那様は貴族だ。
どれほど近くでお仕えしても、どれほど多くの秘密を共有しても、その事実は変わらない。
王国法が望めば、あの方は私の手が届かない場所へ連れていかれる。
そして私は、その婚礼の日にも旦那様の衣服を整え、時間を知らせ、扉の外で頭を下げるのだろう。
それが望みだと、笑って言えるのだろうか。
控え室を出ると、旦那様は足を止めないまま、エマさんへ声をかけた。
「エマ。鉱山の管理委任状の原本と、監査開始届の受領証を確認したい」
「承知しました、閣下」
私には、何も告げなかった。
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