第8話「書かれなかった罪」
朝の卓には、住民たちの証言書が並べられていた。
削られたばかりの羽根ペンから細かな屑が落ち、乾ききらないインクの匂いが酒場の一室を満たしている。
エマは、王家と独立司法へ提出する鉱山安定化報告書を作成していた。
最初に記すのは、現地で確認できた事実。
住民との雇用契約が締結されたこと。
契約書は全文を読み上げ、住民側と管理者側、双方の証人によって内容が確認されたこと。
共同備蓄庫が住民へ返還され、保管されていた穀物と道具の数量を確認したこと。
王都へ続く街道の修繕が開始され、最初の賃金が住民へ支払われたこと。
どれも嘘ではない。
エマは一つずつ証言と現物を照合し、報告書へ書き加えていった。
「備蓄庫の粉袋は、記録より二つ少ないよ」
帳簿を確認していたリタが、卓の向こうから声を上げた。
「武装してた連中が持っていったのか、もっと前から足りなかったのかは分からないけどね」
「では、原因は断定せず、確認できた数量だけを記載します」
「それならいい」
リタは酒場の印が押された備蓄確認書を、エマの前へ滑らせた。
報告書は少しずつ形になっていく。
問題は、武装集団だった。
エマは新しい羊皮紙へ、昨夜までの経緯を書き出してみた。
武装した元私兵たちが坑道と備蓄庫を占拠していた。
住民へ契約の破棄を迫り、拒絶すれば食料を与えないと脅していた。
その夜、ギャレットたちが令状なしに坑道へ侵入した。
見張りを拘束し、抵抗した者へ暴力を加えた。
首領格を縛り上げ、盗み出した帳簿と過去の犯罪を使って退去を強要した。
そして、持ち出した帳簿と木札、過去の脱走記録を写した羊皮紙を処分した。
エマは、新しい羊皮紙へ一文を書いた。
『昨夜、管理者側の人員が令状なく坑道へ侵入し――』
羽ペンが止まる。
「この行為を証言できる者はいますか」
誰も答えなかった。
エマはその一文へ横線を引いた。
続いて、『武装集団は自発的に退去した』と書きかけ、今度は文字になる前に羽ペンを上げた。
自発的だったと証言できる者も、ここにはいなかった。
その空白は、あまりにも不自然だった。
「閣下」
エマは、少し離れた卓で復旧計画を確認していたルシアンへ声をかけた。
「武装集団について、どこまで記載いたしますか」
「君が公式に確認できた範囲で構わない」
「それでは、退去の経緯が報告書から抜け落ちます」
「経緯を証明できるものは?」
エマは答えられなかった。
ギャレットが盗み出した帳簿は燃やされた。
住民へ配られた指示の木札も、過去の脱走記録を写した羊皮紙も残っていない。
拘束に使った縄は回収され、坑道内の争った跡も片付けられている。
残っているのは、退去した男たちの傷と縄の痕だけだ。
彼らが訴え出れば捜査の端緒にはなる。
しかし、誰に、どこで、なぜ拘束されたのかを証明する物証はない。
「私は、昨夜の行為があったことを知っています」
「それは証言できるか?」
「……現場を見ておりません」
エマが確認できたのは、前夜にギャレットが酒場を出たことと、夜明け後に武装集団が消えていたことだけだ。
誰が坑道へ入り、誰を拘束し、どのような暴力を使ったのか。
法廷で証言できる形では、一つも知らされていない。
エマの手元には、命令書も作戦書もなかった。
ギャレットから聞かされた内容にも、出発時刻や侵入経路は含まれていない。
エマは羽ペンを持ち直した。
そして報告書へ、静かに一文を書き加える。
『管理者による査察時点において、坑道および共同備蓄庫における武装占拠は確認されなかった』
事実だった。
正式な査察を行った時には、武装集団はすでに退去していた。
続く一文。
『現時点において、管理者および住民契約に対する組織的な武装抵抗は確認されていない』
これも事実だ。
なぜ抵抗がなくなったのかは、書かれていない。
罪を消したわけではない。
罪は確かに行われた。
ただ、その罪へ至る道だけが、公式記録から抜け落ちている。
エマは自分が作った文章を読み返した。
嘘は一つもない。
エマは、完成した報告書と、横線で潰した草稿を並べた。
完成稿に虚偽はない。
だが草稿にあった侵入、拘束、暴力という文字は、一つも残っていなかった。
エマは父から譲られた法務書の表紙へ一度だけ触れ、草稿を脇へ退けた。
そして羽ペンを置かず、確認できた事実だけを新しい一枚へ書き始めた。
「アタシに何を証言させる気だい」
リタが報告書を覗き込む。
「武装集団が、誰からも脅されず、自分たちの意思で出ていった。そんな話へ印を押せっていうなら断るよ」
「その証言は求めん」
エマが答えるより早く、ルシアンが告げた。
「エマ。その文言が入っているなら外してくれ」
「初めから入れておりません、閣下」
「なら問題ない」
リタはルシアンを疑うように見た。
「ずいぶん正直じゃないか」
「虚偽の証言は、後から覆された時に証人と報告書の両方を傷つける。必要のない危険を増やす理由はない」
「善人だから嘘をつかせない、ってわけじゃないんだね」
「私を善人だと思っていたのか?」
「まさか」
リタは鼻で笑った。
エマは報告書から、武装集団の退去理由に関する項目そのものを外した。
自発的に去ったとは書かない。
脅されて去ったとも書かない。
公式に確認できたのは、査察時には彼らが存在せず、武装抵抗も起きなかったという結果だけだった。
午後には、ギルバートが作成した暫定収支が届いた。
「現時点で、鉱山と集落からの収益はありません」
ギルバートが数字を読み上げる。
「食料の購入、街道修繕、賃金の前払い、治療費、資産調査。すべてオーリ家からの先行負担です」
「夜会で集めた予約金は?」
「調査と最初の荷馬車で消えました。見事なほどの赤字です」
「予想どおりだね」
「予想どおりで安心できる数字ではございません、旦那様」
報告書には、利益が出ていないこともそのまま記載した。
復旧が始まっただけで、鉱山は再稼働していない。
集落の治安も、住民との契約によって一時的に保たれているにすぎない。
ルシアンの手腕を誇張する必要はなかった。
確かめられる成果だけでも、王家が押し付けた崩壊寸前の集落を、数日で復旧へ向かわせたことになる。
「これ、アタシにも読ませな」
リタが報告書へ手を伸ばした。
エマは最初から読み上げた。
難しい表現は老医師が言い換え、リタは備蓄の数量や賃金の額を一つずつ確認していく。
リタは署名欄の手前で指を止めた。
「数字は読める。けど、この文章が本当にそう書いてあるかは、アンタと先生を信じるしかないんだね」
読み合わせが終わると、リタは報告書を睨んだまま尋ねた。
「エマ。こういうのを自分で読めるようになるには、どれだけかかる」
「文字を覚えるだけなら、毎日学べば数か月で基礎には届きます」
「契約書や報告書まで読むなら?」
「もっとかかります。法律の意味まで自分で確かめるには、何年も学ぶ必要があります」
「そうかい」
リタは短く答えた。
諦めたようには見えなかった。
「じゃあ、今から始めりゃいい」
二日目の午後。
エマは王都の独立司法庁舎を訪れ、監査開始届と鉱山安定化報告書を提出した。
窓口の司法官が書類の枚数と印章を確認し、住民契約、備蓄確認書、暫定収支を順に照合していく。
やがて受領証へ印が押された。
「本日付けで独立監査を開始します。監査終了まで、この受領証の原本を保管してください」
「承知いたしました」
これで鉱山管理は、王家だけの判断では動かせなくなった。
公式記録上、ルシアンは武装抵抗を起こさず、住民の合意を得て集落を安定させた有能な管理者となる。
違法侵入も、無令状の拘束も、威圧も暴力も、報告書のどこにも書かれていない。
罪は消えていない。
ただ、法が読める場所に存在しないだけだった。
エマが受領証を受け取った直後、庁舎の入口から王宮の使者が入ってきた。
「オーリ子爵家法務補佐官、エマ殿で間違いありませんか」
「はい」
「国王陛下より、オーリ子爵へ召喚状です。至急、王宮へ出頭するようにとの仰せです」
差し出された書状の封蝋には、王家の紋章が刻まれている。
エマはその場で用件欄を確認した。
独立司法の受領印が乾くより早く、次の鎖が王宮から伸ばされていた。
『オーリ子爵家の継承について』
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