第5話「泥棒の恩義」
太陽の光が届かないオーリ領の地下深くには、微かなランプの灯りだけが頼りの広大な空間が広がっている。
ここはかつて、貴族たちから不要なゴミとして捨てられた平民が吹き溜まるスラム街だった場所だ。
だが今は、ルシアン直属の非合法諜報機関である暗部組織の拠点として、作り替えられている。
カビと土の匂いが混じる薄暗い部屋の中で、二十四歳のギャレットは分厚い報告書に目を通していた。
彼の身なりは薄汚れた麻のシャツと使い古された革のズボンという、スラムの住人そのものだ。
しかし、薄暗いランプの光を反射するその鋭い瞳には、高度な教育を受けた者特有の確かな知性が宿っている。
インクの染みがついた指先が、流れるような動作で書類のページをめくっていく。
「相変わらず、ここの空気はジメジメしてやがるな」
不意に背後の古びた木扉が嫌な軋み音を立てて開き、軽薄な声と共にチャラついた身なりの男が部屋に入ってきた。
各地を巡る行商人を装い、情報伝達を担う行商部のザックだ。
彼は背負っていた大きな荷袋をドサリと土間に下ろし、肩を回しながら大げさなため息をついてみせた。
「表の空気はもっと淀んでるぜ、ザック」
ギャレットは書類から視線を外さぬまま、羽ペンにインクを浸しながら呆れたような声で返す。
「バルドー男爵の差し押さえで、領都の商人たちが騒がしく立ち回ってるからな」
「違いねえや」
ザックはニヤリと笑い、近くの木箱に腰を下ろして革靴の踵で床を鳴らした。
「王都からの知らせだ。あの豚男爵、綺麗さっぱり身ぐるみ剥がされて法廷で泣き喚いてたらしいぜ」
ギャレットは唇の端を吊り上げ、羽ペンの尻で机の木目を軽く叩く。
「俺たちがやったのは、あくまで『善意の王国臣民からの通報』だ」
「法務省の連中も、まさかスラムのネズミが証拠を揃えて提出したなんて思っちゃいねえだろうよ」
薄汚れた地下の部屋に、男たちの乾いた笑い声が低く響く。
この国において、平民の識字率はわずか一割にも満たない。
ましてやスラムの住人が、複雑な王国の法体系を理解し、貴族を追い詰めるための法的証拠を正確に抜き出すなど、誰も想像すらしない。
すべては、あの日、ルシアンという一人の少年がこの泥沼に足を踏み入れたことから始まった。
国家存亡の危機に備えるという名目の『防衛税』を払えず、強制労働で使い潰された平民たち。
彼らは合法的にこのスラムへと追放され、ただ飢えと病に苦しみながら死を待つだけの存在だった。
ギャレットもまた、この光の届かない地下で、ただ無力に朽ち果てる運命を呪っていた一人だ。
貴族という理不尽な強者への、行き場のない強烈な憎悪だけを胸に抱いて。
だが、ルシアンは違った。
彼はスラムの住人たちを保護し「王国を内側から切り崩すための絶対的な牙」として、読み書きや算術といった高度な教育を徹底的に叩き込んだ。
それは王国法において、平民への教育を制限するルールへの明らかな反逆行為だった。
それでもルシアンは、自分たちに知識という名の武器と、人間としての誇りを取り戻す居場所を与えてくれた。
だからこそ、暗部に属する者たちは皆、ルシアンに対して狂信的とも言える絶対の忠誠を誓っている。
「旦那は同情で俺たちを拾ったわけじゃねえ。『泥の中で飢えた最も鋭い牙が必要だ』ってな」
ギャレットが葉肉を噛みしめるように呟くと、ザックも真剣な表情になって深く頷く。
「ああ、俺たちは旦那に最高の武器として買われた。だからこそ、命のすべてを賭けられる」
部屋の空気が少し重くなったその時、静かな、しかし確かな存在感を放つ足音が廊下から近づいてきた。
二人の男は弾かれたように立ち上がり、入り口に向かって背筋を伸ばす。
扉の向こうから姿を現したのは、暗部の統括者、セレナだった。
彼女の足音はまるで幽霊のように、気配を感じさせない。
その白い手には、冷たい銀のトレイではなく、黒い革の筒が握り締められている。
「ご苦労様です、ギャレット、ザック」
セレナの声は氷のように冷たく、感情の揺れを感じさせない。
「旦那様から、新たな作戦の指示が下りました」
ギャレットの目に、血の匂いを嗅ぎつけた鋭い光が宿る。
「次の標的はどこのどいつだ?」
「貴族派の金庫番、ヴァルデマール伯爵です」
セレナは無駄のない動きで革の筒から一枚の羊皮紙を取り出し、ギャレットの机の上に広げた。
そこには、伯爵領を縦断する主要街道の緻密な地図が描かれている。
「伯爵の主要街道で、意図的な有事を発生させてください」
「有事、ね」
ギャレットは地図を覗き込み、喉の奥で低く笑う。
「偽の野盗騒ぎでも起こして、物流をストップさせろってことか?」
「ええ。ただし、決して相手の私兵団とは交戦せず、逃げ回るだけで事態を長引かせてください」
「なるほどな」
ギャレットはルシアンの意図を瞬時に理解し、獰猛な笑みを浮かべた。
伯爵が自力で事態を収拾できない状況を作り出し、合法的な介入の口実を作る。
あの冷酷で美しい主人は、またしても法の抜け穴を使って、巨大な敵を絡め捕ろうとしている。
「行商部にも動いてもらいます」
セレナの瞳が、ザックを真っ直ぐに見据える。
「各地の商人に、伯爵領の街道が機能していないという噂を徹底的に流布してください」
「任せときな、情報操作は俺の得意分野だ」
ザックが親指を立ててウィンクする。
セレナは静かに頷き、冷たい声で最後の通達を下した。
「作戦の開始は今夜。失敗は許されません」
「心配すんなって、セレナ姐さん」
ギャレットは乱れた麻のシャツの襟元を正し、薄暗い天井に向かって不敵に笑いかけた。
自分たちに生きる意味を与えてくれた、あの若き当主の顔を思い浮かべながら。
「旦那のためなら、世界中を騙してやるよ」
その言葉を合図にするかのように、地下に潜む暗部の者たちが、音もなく夜の闇へと散っていった。




