第4話「書庫の亡霊」
分厚い革張りの帳簿がパタンと閉じられる音が、静まり返った執務室に響き渡った。
オーリ子爵家の財務を取り仕切る執事のギルバートが、主人の机の前で恭しく一礼する。
「ルシアン様」
元商会の帳簿係であった彼の声には、僅かな誇らしげな響きが混じっていた。
「バルドー男爵から差し押さえた資産の三割、無事に当家の金庫への移管が完了いたしました」
「見事な手際だね、ギルバート」
ルシアンは窓辺に立ち、分厚いガラス越しに領都の街並みを見下ろしながら答える。
「表向きの帳簿と裏の帳簿、どちらも徹底的に処理してあります」
叔父が私腹を肥やして溜め込んでいた大量の金貨や美術品は、ギルバートの手によって素早くロンダリングされていた。
すでにそれらは、オーリ領の清廉な財源として、そして暗部組織の活動資金として組み込まれている。
「これで当面の活動資金は確保できたな」
ルシアンは満足げに頷き、ゆっくりと踵を返して執務机へと歩み寄った。
「地下の連中にも、十分な予算を回してやれる」
だが、あの傲慢な叔父の排除など、彼にとってはただの余興に過ぎない。
本命の標的は、貴族派の巨大な資金源となっているヴァルデマール伯爵だ。
ルシアンの机の上には、伯爵領に関する膨大な資料や、王国法の法典がうず高く積まれている。
その資料の山の影から、ひょっこりと顔を出した小柄な人影があった。
「ル、ルシアン様……あの、お探しのもの、見つかりました」
没落した元宮廷法務官の娘であり、現在は専属法務補佐官を務めるエマだ。
彼女の目の下には、何日も徹夜を重ねたことを物語る濃い隈がくっきりと刻まれている。
その両手には、古びて変色した羊皮紙の束が大事そうに抱えられていた。
おどおどとした手つきで、エマがその書類をルシアンの前に滑らせる。
ルシアンの瞳に、鋭い猟犬のような光が宿った。
「ご苦労だったね、エマ」
彼は手袋に包まれた指先で、書類の束を軽く叩く。
「伯爵の無敵の盾を打ち砕く方法は見つかったかい?」
「は、はい……」
エマは震える指先で、書類に記された複雑な条文の羅列をなぞっていく。
「ヴァルデマール伯爵は、新王陛下が発布された『領地特例法』を最大限に利用しておられます。この特例法がある限り、伯爵領内の治安維持や物流の管理に、他領の貴族や国軍が介入することは法的に不可能です」
伯爵はその特権を隠れ蓑にして、堂々と資金のロンダリングを行い、強大な私兵団を養っている。
現代の王国法で彼を裁こうとしても、王が与えた特例法の壁に阻まれて一切の手出しができない。
「ですが……その、四百年前の古い記録の中に、一つだけ矛盾を見つけました」
エマが別の、端がボロボロに風化した羊皮紙をルシアンの前に差し出す。
それは建国時に定められ、今では誰一人として中身を読まなくなった絶対憲法、『創世王典』の写しだった。
「第七章、第十四条……『街道独占時の有事査察』に関する項目です」
ルシアンは身を乗り出し、色褪せたインクで書かれた古い文字を目で追った。
「有事の際、領主が事態を収拾できなければ……隣領の主が査察と介入の義務を負う、か」
エマが、大きく何度も首を縦に振る。
「創世王典は、あらゆる王国法や特例法よりも上位に位置する、絶対不可侵の法です」
彼女の怯えた瞳の奥に、暗く淀んだ悦びの火がチラチラと燃え上がっていた。
無実の罪を着せられ、獄中で暗殺された父の無念。
貴族社会への深い憎悪が、彼女に膨大な資料の海からこの一文を探し出させた。
「もし伯爵領の街道で有事が発生し、彼らがそれを解決できなければ……陛下の特例法すらも無効化され、査察が可能になります」
ルシアンはゆっくりと息を吐き出し、革張りの背もたれに深く体を沈めた。
建国時の王が、後世の独裁を防ぐために善意で作った法。
四百年の時を経て、それは改正すら不可能なバグの塊として放置されている。
誰も手を出そうとしない、書庫の奥で埃を被った忘れ去られたルール。
だが、ルシアンにとってそれは、いかなる権力者の首をも切り落とすことができる無敵の武器だ。
「素晴らしい」
ルシアンの顔に、邪悪なまでの笑みが広がる。
「君は本当に優秀な法務補佐官だよ、エマ」
「も、もったいないお言葉です……」
「謙遜はいらない」
ルシアンは窓の外へ視線を向けた。
「これで、伯爵の足元を合法的に崩すことができる」
分厚い雲が太陽を覆い隠し、領都の街並みにどんよりとした暗い影が落ちていく。
特例法という分厚い鎧を着込んだ巨大な敵を、どうやって法廷という断頭台へ引きずり出すか。
そのパズルの最後のピースが、今、組み上がった。
「ギルバート、セレナを呼んでくれ」
「ここに、旦那様」
声のした方へ振り向くと、執務室の入り口の影にセレナが立っていた。
彼女の背筋はピンと伸び、その瞳は主人の次の命令を静かに待っている。
足音一つ立てずに待機していた彼女の気配の消し方に、ルシアンの口元が自然と緩む。
「セレナ」
「はい」
「地下の連中を動かす時が来た」
「いつでも出立の準備は整っております」
ルシアンは机の上の『創世王典』の写しを、指先でトントンと叩いた。
「標的はヴァルデマール伯爵だ。我が領地に隣接する彼の主要街道で、ちょっとした有事を起こしてもらう」
セレナは表情一つ変えず、ただ深く頭を下げた。
氷像のように無表情を貫くルシアンの顔に、ほんの僅かに唇の端だけが引き攣るように上がった。
冷ややかな瞳には、これから始まる残虐な狩りを待ちわびる捕食者の光が宿っていた。
「この『埃を被った剣』で、伯爵の首を刎ねよう」




