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悪徳子爵は裁かれない  作者: 空っぽの零時
第4章:首輪のない猟犬
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第6話「忠誠ではなく、契約を」

 閉め切った酒場の中には、人の熱がこもっていた。

卓へ置かれた硬貨が硬い音を立て、開かれたインク壺の匂いが、壁や床に染みついた酒の香りと混ざっている。


 最も大きな卓を挟み、リタとルシアンが向かい合っていた。


 リタの側には、住民数名と老医師が座っている。

反対側にはセレナ、エマ、ギルバート、ギャレットが控えていた。


「坑道にいる連中は?」


 リタが尋ねると、住民の一人が首を横に振った。


「話し合うつもりはないそうだ。王家の犬と契約する奴は、集落の敵だと」


「勝手に吠えさせときな」


 リタは吐き捨て、ルシアンへ視線を戻した。


「先に言っとくけど、アタシらはアンタの家臣になる気はないよ」


「私も、君たちへ忠誠を求めるつもりはない」


「へえ。お貴族様にしちゃ聞き分けがいいね」


「忠誠心では、街道も建物も直らないからな」


 ルシアンはエマへ合図を送った。


 卓上へ、新しい羊皮紙が広げられる。


「これは住民との雇用および復旧協力に関する契約書だ。王家との管理委任状とは別に作る」


「もう契約書を用意してきたのかい」


「何も決めずに来れば、君はそれを理由に追い返すだろう?」


「分かってるじゃないか」


 リタは腕を組んだ。


「命令なら追い返してた。契約なら、こっちからも条件を出せるってことだね」


 リタは契約書から顔を上げた。


「まず、住んでいる連中を勝手に追い出さないこと」


 エマの羽ペンが動く。


「働くかどうかは、家族ごとに決めさせる。全員まとめて雇ったことにするのもなしだ」


「認めよう」


「賃金は前払い。食うものがないのに、一月後まで働けなんて話は通らないよ」


「最初の支払いは契約時。その後は七日ごとに支払う」


 リタは周囲の住民を見回した。


 反対の声は上がらない。


「作業中に怪我をしたら、治療代は管理者が持つ。働けない間の食い扶持もだ」


「作業との関係を、住民側の証人または現場責任者が確認できる場合に限る」


「アンタらの責任者だけで決めるんじゃないだろうね」


「双方から一人ずつ確認者を出す。それでどうだ」


「いいよ」


 要求を口にするたび、エマが文面へ書き加えていく。


 ルシアンはすべてを受け入れたわけではない。

負傷の補償には証人を求め、前払いも無制限には認めない。


「全部、言いなりになるわけじゃないんだね」


リタは組んでいた腕を僅かに緩めた。


「気前のいい救世主を演じる奴よりは、まだ話が早い。もう一つ。住民をアンタの兵隊や、裏仕事をする連中へ勝手に入れないこと」


 酒場の空気が僅かに変わった。


 ギャレットが面白そうに片眉を上げたが、口は挟まない。


「本人が望まない限り、武装組織への所属を雇用条件にはしない」


 ルシアンは迷わず答えた。


「だが、管理者側からも条件がある」


「言ってみな」


「備蓄庫を住民と管理者の共同管理へ移す。受け取った物資と配給した量を記録し、無断で持ち出すことを禁じる」


 数人の住民が顔を見合わせた。


 現在、備蓄庫は武装集団に占拠されている。

取り戻せなければ、契約以前の問題だ。


「次に、王都へ続く街道の修繕へ人を出してもらう。賃金は払うが、復旧作業へ参加しない者へ備蓄から同じ量を配ることはできない」


「病人や怪我人は?」


「働けない者まで切り捨てるつもりはない。彼の確認を受けた者には、別の配給枠を設ける」


 突然話を向けられた老医師は、少し困ったように眉を下げた。


「私が判断してよろしいのですか?」


「あなた以上に適任の者がいるなら、紹介してほしい」


「……承知しました」


「最後に、無許可の採掘を停止する」


 今度は明確な不満の声が上がった。


「待ってくれ!俺たちは残った屑石を拾って、どうにか食いつないでるんだ」


「それまで取り上げるのか!」


「崩落しかけた坑道へ入り、わずかな鉱石のために命を賭けることを仕事とは呼ばない」


 ルシアンは抗議する住民たちへ答えた。


「違法採掘を続ければ、王家は鉱山の管理に失敗したとして私を処分できる。そうなれば、この契約も支援もすべて終わる」


「じゃあ、鉱山を掘らずに何をするつもりなんだい」


 リタの問いに、ルシアンは卓上へ周辺の地図を広げた。


「この集落は王都から一日以内の距離にある。主要街道からも遠くない」


 指先が、鉱山と王都を結ぶ道をなぞる。


「坑道には、鉱石や道具を保管していた広い区画が残っている。集落には採掘だけでなく、石工、鍛冶、荷車の修理ができる者もいるそうだね」


「だから何だっていうのさ」


「鉱石が採れなくても、場所と倉庫と技術は消えない」


 ルシアンが見ているのは、枯れた鉱脈だけではなかった。


 王都に近い土地。

雨風を防げる坑道。荷車を扱える街道。そして、仕事を失っても技術まで失ったわけではない住民たち。


「当面は王都へ運ぶ物資の保管と、荷車の修理拠点として使う。街道が整えば、仕事と食料をこの集落へ流せる」


「採掘を再開する気はないのかい」


「調査もしないうちから、新しい鉱脈があるなどとは言えない。見つからないものを当てにして計画を立てるつもりもないよ」


「住民を救うため、なんて綺麗事は言わないんだね」


「利用価値があるから投資する。君たちも、賃金と食料があるから協力する。それで十分だ」


 リタはルシアンをしばらく見据え、最後に一度だけ頷いた。


「エマ」


「はい、閣下」


 エマが完成した契約書を持ち上げ、最初から読み始めた。


 強制退去の禁止。

家族ごとの契約選択。賃金の前払いと七日ごとの支給。作業中の負傷に対する治療と補償。


 難しい言葉を使いながらも、一つずつ意味を添えて説明していく。


 だが、半分ほど読み進めたところで、リタは片手を上げた。


「待ちな」


「何か問題がございましたか」


「アンタらの仲間が読んだんじゃ意味がない」


 エマの手が止まる。


「私は、書かれている内容をそのまま読んでいます」


「そうかもしれない。でもアタシには、アンタが飛ばして読んでも分からない」


 リタは卓上の文字を睨んだ。


 リタは金額欄を迷わず指で追った。

だが、その先に続く長い法文で指が止まった。


「先生。読めるかい」


 リタに呼ばれた老医師が、契約書を受け取った。


「多少であれば」


 そう答えた直後、老医師は条文へ目を落とし、ほとんど迷うことなく読み始めた。


「この部分は、管理者の都合だけでは住居を取り上げられない、という意味です。ただし住民側が建物を故意に壊した場合や、他者の命を脅かした場合は保護の対象から外れる、と続いています」


 難解な表現を、住民にも理解できる言葉へ置き換えていく。


 言い淀むことも、エマへ確認することもない。


 セレナとエマが、ほぼ同時に老医師へ視線を向けた。


 リタの目が、契約書から老医師へ移った。


「先生。アンタ、“多少”どころじゃないだろ」


「昔、必要に迫られまして」


 老医師はそれだけ答え、次の条文を読み始めた。

リタも追及せず、再び契約書へ顔を戻した。


 老医師の説明は、エマが読み上げた内容と一致している。

それでもリタは、最後まで全条文を確認させた。


「もう二つ、追加だ」


 読み合わせが終わると、リタはルシアンへ向き直った。


「備蓄と金の帳簿は、七日ごとに住民の前で読み上げること。あと、管理者と話す住民側の連絡人を置く」


「異論はない。連絡人は誰にする?」


 卓を囲む住民たちの視線が、一斉にリタへ集まった。


「……なんでアタシを見るんだい」


「他に、私へこれだけ要求を出せる者がいるなら紹介してほしい」


 ルシアンの言葉に、住民の一人が小さく笑った。


 リタは舌打ちし、酒場の印を取り出した。


「先に言っとく。アタシはアンタに忠誠なんか誓わないよ」


「必要ない」


「命令されたから動く気もない」


「契約へ書かれた義務だけ果たしてくれればいい」


「アンタもだよ、お貴族様」


「もちろんだ」


 契約書へ酒場の印が押され、住民と老医師が証人となる。


 同意しない家族には、仕事を断る権利が認められた。

集落を離れることを選んだ場合も、家財を持ち出すことを妨げず、未納税を理由に通行を止めないと記された。


 忠誠の誓いはない。


 そこにあるのは、互いの利益と義務を書き並べた契約だけだった。


 最後の証人が印を押した、その時。


 坑道の方角から、甲高い金属音が響いた。


 一度。


 間を置いて、二度。


 酒場の中にいた住民たちの表情が強張る。


「何の音だ?」


「つるはしを打ち合わせる警告だ」


 ギャレットが席を立ち、窓の外へ目を向けた。


 遠くの坑道入口で、再び金属音が鳴る。


「坑道の連中からの返事らしい」


 住民との契約が結ばれたその瞬間、武装集団は拒絶の音を集落中へ響かせた。


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