第6話「忠誠ではなく、契約を」
閉め切った酒場の中には、人の熱がこもっていた。
卓へ置かれた硬貨が硬い音を立て、開かれたインク壺の匂いが、壁や床に染みついた酒の香りと混ざっている。
最も大きな卓を挟み、リタとルシアンが向かい合っていた。
リタの側には、住民数名と老医師が座っている。
反対側にはセレナ、エマ、ギルバート、ギャレットが控えていた。
「坑道にいる連中は?」
リタが尋ねると、住民の一人が首を横に振った。
「話し合うつもりはないそうだ。王家の犬と契約する奴は、集落の敵だと」
「勝手に吠えさせときな」
リタは吐き捨て、ルシアンへ視線を戻した。
「先に言っとくけど、アタシらはアンタの家臣になる気はないよ」
「私も、君たちへ忠誠を求めるつもりはない」
「へえ。お貴族様にしちゃ聞き分けがいいね」
「忠誠心では、街道も建物も直らないからな」
ルシアンはエマへ合図を送った。
卓上へ、新しい羊皮紙が広げられる。
「これは住民との雇用および復旧協力に関する契約書だ。王家との管理委任状とは別に作る」
「もう契約書を用意してきたのかい」
「何も決めずに来れば、君はそれを理由に追い返すだろう?」
「分かってるじゃないか」
リタは腕を組んだ。
「命令なら追い返してた。契約なら、こっちからも条件を出せるってことだね」
リタは契約書から顔を上げた。
「まず、住んでいる連中を勝手に追い出さないこと」
エマの羽ペンが動く。
「働くかどうかは、家族ごとに決めさせる。全員まとめて雇ったことにするのもなしだ」
「認めよう」
「賃金は前払い。食うものがないのに、一月後まで働けなんて話は通らないよ」
「最初の支払いは契約時。その後は七日ごとに支払う」
リタは周囲の住民を見回した。
反対の声は上がらない。
「作業中に怪我をしたら、治療代は管理者が持つ。働けない間の食い扶持もだ」
「作業との関係を、住民側の証人または現場責任者が確認できる場合に限る」
「アンタらの責任者だけで決めるんじゃないだろうね」
「双方から一人ずつ確認者を出す。それでどうだ」
「いいよ」
要求を口にするたび、エマが文面へ書き加えていく。
ルシアンはすべてを受け入れたわけではない。
負傷の補償には証人を求め、前払いも無制限には認めない。
「全部、言いなりになるわけじゃないんだね」
リタは組んでいた腕を僅かに緩めた。
「気前のいい救世主を演じる奴よりは、まだ話が早い。もう一つ。住民をアンタの兵隊や、裏仕事をする連中へ勝手に入れないこと」
酒場の空気が僅かに変わった。
ギャレットが面白そうに片眉を上げたが、口は挟まない。
「本人が望まない限り、武装組織への所属を雇用条件にはしない」
ルシアンは迷わず答えた。
「だが、管理者側からも条件がある」
「言ってみな」
「備蓄庫を住民と管理者の共同管理へ移す。受け取った物資と配給した量を記録し、無断で持ち出すことを禁じる」
数人の住民が顔を見合わせた。
現在、備蓄庫は武装集団に占拠されている。
取り戻せなければ、契約以前の問題だ。
「次に、王都へ続く街道の修繕へ人を出してもらう。賃金は払うが、復旧作業へ参加しない者へ備蓄から同じ量を配ることはできない」
「病人や怪我人は?」
「働けない者まで切り捨てるつもりはない。彼の確認を受けた者には、別の配給枠を設ける」
突然話を向けられた老医師は、少し困ったように眉を下げた。
「私が判断してよろしいのですか?」
「あなた以上に適任の者がいるなら、紹介してほしい」
「……承知しました」
「最後に、無許可の採掘を停止する」
今度は明確な不満の声が上がった。
「待ってくれ!俺たちは残った屑石を拾って、どうにか食いつないでるんだ」
「それまで取り上げるのか!」
「崩落しかけた坑道へ入り、わずかな鉱石のために命を賭けることを仕事とは呼ばない」
ルシアンは抗議する住民たちへ答えた。
「違法採掘を続ければ、王家は鉱山の管理に失敗したとして私を処分できる。そうなれば、この契約も支援もすべて終わる」
「じゃあ、鉱山を掘らずに何をするつもりなんだい」
リタの問いに、ルシアンは卓上へ周辺の地図を広げた。
「この集落は王都から一日以内の距離にある。主要街道からも遠くない」
指先が、鉱山と王都を結ぶ道をなぞる。
「坑道には、鉱石や道具を保管していた広い区画が残っている。集落には採掘だけでなく、石工、鍛冶、荷車の修理ができる者もいるそうだね」
「だから何だっていうのさ」
「鉱石が採れなくても、場所と倉庫と技術は消えない」
ルシアンが見ているのは、枯れた鉱脈だけではなかった。
王都に近い土地。
雨風を防げる坑道。荷車を扱える街道。そして、仕事を失っても技術まで失ったわけではない住民たち。
「当面は王都へ運ぶ物資の保管と、荷車の修理拠点として使う。街道が整えば、仕事と食料をこの集落へ流せる」
「採掘を再開する気はないのかい」
「調査もしないうちから、新しい鉱脈があるなどとは言えない。見つからないものを当てにして計画を立てるつもりもないよ」
「住民を救うため、なんて綺麗事は言わないんだね」
「利用価値があるから投資する。君たちも、賃金と食料があるから協力する。それで十分だ」
リタはルシアンをしばらく見据え、最後に一度だけ頷いた。
「エマ」
「はい、閣下」
エマが完成した契約書を持ち上げ、最初から読み始めた。
強制退去の禁止。
家族ごとの契約選択。賃金の前払いと七日ごとの支給。作業中の負傷に対する治療と補償。
難しい言葉を使いながらも、一つずつ意味を添えて説明していく。
だが、半分ほど読み進めたところで、リタは片手を上げた。
「待ちな」
「何か問題がございましたか」
「アンタらの仲間が読んだんじゃ意味がない」
エマの手が止まる。
「私は、書かれている内容をそのまま読んでいます」
「そうかもしれない。でもアタシには、アンタが飛ばして読んでも分からない」
リタは卓上の文字を睨んだ。
リタは金額欄を迷わず指で追った。
だが、その先に続く長い法文で指が止まった。
「先生。読めるかい」
リタに呼ばれた老医師が、契約書を受け取った。
「多少であれば」
そう答えた直後、老医師は条文へ目を落とし、ほとんど迷うことなく読み始めた。
「この部分は、管理者の都合だけでは住居を取り上げられない、という意味です。ただし住民側が建物を故意に壊した場合や、他者の命を脅かした場合は保護の対象から外れる、と続いています」
難解な表現を、住民にも理解できる言葉へ置き換えていく。
言い淀むことも、エマへ確認することもない。
セレナとエマが、ほぼ同時に老医師へ視線を向けた。
リタの目が、契約書から老医師へ移った。
「先生。アンタ、“多少”どころじゃないだろ」
「昔、必要に迫られまして」
老医師はそれだけ答え、次の条文を読み始めた。
リタも追及せず、再び契約書へ顔を戻した。
老医師の説明は、エマが読み上げた内容と一致している。
それでもリタは、最後まで全条文を確認させた。
「もう二つ、追加だ」
読み合わせが終わると、リタはルシアンへ向き直った。
「備蓄と金の帳簿は、七日ごとに住民の前で読み上げること。あと、管理者と話す住民側の連絡人を置く」
「異論はない。連絡人は誰にする?」
卓を囲む住民たちの視線が、一斉にリタへ集まった。
「……なんでアタシを見るんだい」
「他に、私へこれだけ要求を出せる者がいるなら紹介してほしい」
ルシアンの言葉に、住民の一人が小さく笑った。
リタは舌打ちし、酒場の印を取り出した。
「先に言っとく。アタシはアンタに忠誠なんか誓わないよ」
「必要ない」
「命令されたから動く気もない」
「契約へ書かれた義務だけ果たしてくれればいい」
「アンタもだよ、お貴族様」
「もちろんだ」
契約書へ酒場の印が押され、住民と老医師が証人となる。
同意しない家族には、仕事を断る権利が認められた。
集落を離れることを選んだ場合も、家財を持ち出すことを妨げず、未納税を理由に通行を止めないと記された。
忠誠の誓いはない。
そこにあるのは、互いの利益と義務を書き並べた契約だけだった。
最後の証人が印を押した、その時。
坑道の方角から、甲高い金属音が響いた。
一度。
間を置いて、二度。
酒場の中にいた住民たちの表情が強張る。
「何の音だ?」
「つるはしを打ち合わせる警告だ」
ギャレットが席を立ち、窓の外へ目を向けた。
遠くの坑道入口で、再び金属音が鳴る。
「坑道の連中からの返事らしい」
住民との契約が結ばれたその瞬間、武装集団は拒絶の音を集落中へ響かせた。
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