第5話「廃鉱山の女主人」
酒場の卓には、何度拭いても取れない麦酒の匂いが染みついていた。
窓の外では、鉱滓を踏む靴音が乾いた音を立て、開け放した窓から灰色の粉塵が入り込んでくる。
「リタ。悪い、今日もつけてくれ」
「昨日の分も残ってるよ」
「分かってる。荷運びの仕事が見つかったら、まとめて払う」
「その荷運びが、いつ来るんだい?」
返事はなかった。
二十九歳の酒場の女主人、リタは小さく息を吐き、壁に掛けた板へ新しい印を刻んだ。
客の名前を長々と書くことはできなくても、誰が何杯飲み、いくら借りているかは頭に入っている。
「次の荷が来るまでだ。それ以上は出せないよ」
「助かる」
「礼は金を持ってきてから言いな」
男へ薄い麦酒を渡した直後、店の奥から怒鳴り声が上がった。
「その皿は俺のだ!」
「先に金を払ったのはこっちだろうが!」
二人の元鉱夫が、残り少ない豆の煮込みを挟んで睨み合っている。
リタは卓の間を進み、二人の前から皿を取り上げた。
「何しやがる!」
「半分ずつにする。文句があるなら、何も食わずに外で殴り合いな」
煮込みを二つの器へ分けると、男たちは不満そうに顔を背けた。
それでも拳を振り上げる者はいない。
喧嘩をする体力があるなら、まだ飢えてはいない。
本当に危ない者は、酒場へ来る力すら失っている。
「粉袋は、あといくつ残ってる?」
リタが店の奥へ声を投げると、夫が空になった樽を運びながら答えた。
「三つだ。豆と塩漬け肉は、もっと少ない」
「次の商人が来るまでは?」
「持たないだろうな」
夫は以前、貴族派に属する家の私兵団で傭兵として働いていた。
命を張る仕事だったが、給金は悪くなかった。
少なくとも、リタと子供二人が明日の食事を心配する必要はなかった。
その雇い主は、貴族派の没落とともに領地を失った。
私兵団は解散し、夫は剣と使い道のない革鎧だけを持って帰ってきた。
「坑道の連中から、また声をかけられた」
夫が周囲へ聞こえないように声を落とした。
「見張りに加われば、備蓄から分け前を出すそうだ」
「断ったんだろうね」
「もちろんだ」
夫は迷わず答えたが、樽を握る手には力が入っていた。
「だが、このままお前一人に食わせてもらうのも……」
「冗談じゃないよ」
リタは夫の言葉を遮った。
「家族を食わせるために剣を握ったアンタを、アタシは責めちゃいない。だけど今度は、同じ集落の連中から食料を奪うために剣を握るつもりかい?」
「そんなことはしない」
「なら、その話は終わりだ。恥じる暇があるなら、下の子が割った椅子を直しな」
夫は苦笑し、素直に壊れた椅子を取りに向かった。
鉱山が動かなくなってから、集落の仕事は急速に失われた。
鉱夫だけではない。
鉱石を選別していた者、道具を直していた者、荷車を走らせていた者、食事や寝床を提供していた者。
鉱山一つが止まれば、そこで暮らす全員の金が止まる。
王家は何度か役人を送り込んできたが、帳簿を調べ、滞納した税の額を増やしただけで帰っていった。
やがて武装した元私兵たちが流れ着き、坑道入口と共同備蓄庫を占拠した。
彼らは王家の役人を追い返し、自分たちこそが集落を守っていると言い張った。
だが備蓄を分けてもらうには、食料か金か、彼らの仕事を手伝う必要がある。
「王家の役人も、坑道の連中も変わりゃしない」
リタは空になった粉袋を丸め、棚の奥へ押し込んだ。
「掲げてる旗が違うだけで、腹を空かせた奴から何かを取り立てていく」
「女将さん! 先生を呼んでくれ!」
酒場の扉が勢いよく開き、肩を貸された男が運び込まれてきた。
片脚に巻かれた布から血が滲み、鉱滓の粉が傷口へこびりついている。
「どうした」
「坑道脇の足場が崩れた。落ちた石で切ったんだ」
「奥へ寝かせな。誰か、先生を呼んどいで!」
ほどなくして、集落に身を寄せている老医師が現れた。
老医師は傷を一目見ると、沸かした湯と清潔な布、酒を用意するよう指示した。
傷口の周囲だけを迷いなく切り開き、細かな鉱滓を取り除いていく。
男が痛みに呻いても、手元は揺れない。
「傷そのものは深くありません。しかし、このまま塞げば中で腐ります。今夜は熱が出るでしょう。水を少しずつ飲ませてください」
「縫わなくていいのかい?」
「汚れを残したまま縫えば、かえって悪くなります。明日の朝、もう一度状態を確認しましょう」
言葉は平易だが、使う道具も手順も、リタがこれまで見てきた町医者とは違っていた。
なぜ、これほど腕のいい医師が名もない集落にいるのか。
何度尋ねても、老医師は昔少し学んだだけだと笑う。
「治療代は、いつものように酒場のつけへ」
「待ちな。これ以上増やしてどうするんだい」
「では、私の食事を一品減らしてください」
「それじゃ先生が倒れるだろ。まったく、面倒な年寄りだね」
リタが頭を抱えた時、外から馬の嘶きが聞こえた。
一頭や二頭ではない。
酒場にいた者たちが会話を止め、窓の外へ目を向ける。
集落の入口に、数台の馬車が停まっていた。
先頭の馬車には、王家から管理を委任された者であることを示す旗が掲げられている。
「今度は何を取り立てに来たんだ」
客の一人が低く吐き捨てた。
「税か、家か。それとも残った食料か」
誰も歓迎に出ようとはしなかった。
リタは夫へ目を向ける。
「子供たちを奥へ」
「お前は?」
「アタシはここの女主人だよ。客が来たなら、用件くらいは聞かなきゃならない」
酒場を出ると、すでに住民たちが道の両側へ集まっていた。
馬車から降りたのは五人。
先頭に立つ若い貴族。その斜め後ろへ控えるメイド。
書類を抱えた法務官らしき女と、集落の建物や荷車を見回す執事。最後に降りた男だけは、人の顔より屋根の上や路地の奥を確かめていた。
王家の役人とは雰囲気が違う。
リタは歓迎へ出ず、夫に子供たちを店の奥へ連れていくよう顎で示した。
若い貴族が住民たちの前で足を止めた。
「ルシアン・フォン・オーリだ。国王陛下より、この鉱山と周辺集落の管理を委任された」
エマが王家の印を押された委任状を掲げる。
住民の間にざわめきが走ったが、頭を下げる者はいない。
「本日より、鉱山の資産調査と集落の状況確認を行う。住民の代表者がいるなら、話をしたい」
正式な代表者など、この集落にはいない。
けれど住民たちの視線は、自然とリタへ集まった。
「代表になった覚えはないんだけどね」
リタは人垣を抜け、ルシアンの前へ進み出た。
「アンタが新しい管理者かい」
「そうなる」
「王家から何を聞いてきた」
「鉱山は止まり、住民は困窮し、武装した一団が坑道と備蓄庫を占拠している」
「王家の書付には、そう記されてたんだろうね」
リタはエマが掲げる委任状へ顎を向けた。
「でも、そこには誰が腹を空かせてるかも、誰が明日まで薬を待てないかも書いちゃいない」
ルシアンは反論せず、リタの言葉を聞いている。
リタの眉間に、さらに深い皺が刻まれた。
これまで来た役人たちも、最初だけは住民の話を聞くふりをした。
最後には王家の命令だと言い、帳簿へ数字を足して帰っていった。
「王家の書付一枚で、ここに住んでる連中まで買ったつもりかい」
「そのつもりはない」
「なら、勝手に話を進めるんじゃないよ」
リタは扉を背にして腕を組み、坑道とルシアンの間へ立った。
「話なら聞く。頭は下げない。それで嫌なら帰んな」
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