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悪徳子爵は裁かれない  作者: 空っぽの零時
第4章:首輪のない猟犬
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第3話「毒入りの契約」

 羊皮紙が擦れ合う乾いた音が、王宮の契約室に響いていた。

卓上では封蝋を温める小さな火が揺れ、壁一面を埋める書棚から古い獣皮と埃の匂いが漂っている。


 エマは、目の前に置かれた王家資産管理委任状を一枚ずつ確認していた。


 本文だけで十数枚。

鉱山の測量記録、過去の収支、住民台帳、滞納記録まで含めれば、資料は小さな山になっている。


「昨日、陛下よりお伝えしたとおり、こちらはオーリ子爵殿の功績に対する褒賞です」


 卓の向こうに座る王家の法務官が、穏やかな声で説明を始めた。


「王都近郊にある鉱山と、その周辺集落の管理を委任いたします。ただし、鉱山そのものは王家資産です。オーリ家へ譲渡されるわけではございません」


 ルシアンは法務官の言葉を黙って聞いている。


 その隣で、ギルバートはすでに収支資料へ目を通していた。

ページをめくる速度が次第に遅くなり、やがて眉間へ深い皺が寄る。


「その……確認させていただきたいのですが」


 ギルバートが、資料の一箇所を指した。


「鉱山から最後にまとまった量の鉱石が採れたのは、数年前となっております。それ以降の採掘量は、維持費を賄う水準にも届いておりません」


「そのとおりです」


「税の滞納も、集落の備蓄不足も、すべて管理者が引き継ぐのでしょうか」


「滞納した税をオーリ家が支払う必要はございません。しかし、今後の治安維持、住民保護、資産調査、復旧に必要な費用は、新たな管理者にご負担いただきます」


 エマは視線を落としたまま、契約書の条文を追った。


エマは十数枚を最後まで確認すると、委任状をルシアンの前へ押し戻した。


「閣下。これは褒賞ではありません」


 鉱脈はほぼ尽きている。

集落には職を失った住民が残り、備蓄庫と坑道の一部は武装した元私兵たちに占拠されている。


 さらに住民の多くは、王家が鉱山を直接管理していた頃からそこで暮らしている。

管理者が代わったという理由だけで、彼らを土地から追い出すことはできない。


 利益を生まない鉱山に金を注ぎ込み、住民を養い、武装集団を排除し、崩れかけた街道まで修繕する。


 成功したとしても、鉱山は王家のものだ。


 失敗した場合に失われるのはオーリ家の金と信用。

成功した場合に価値を取り戻すのは王家資産。


 あまりにも一方的だった。


「閣下」


 エマの声から、普段の迷いは消えていた。


「この契約はお受けになるべきではありません」


 王家の法務官が、僅かに目を細める。


「法務補佐官殿。これは国王陛下より賜る褒賞です」


「名称の話はしておりません。契約の効果について申し上げています」


 エマは委任状の中ほどを開き、ルシアンの前へ差し出した。


「管理者は、治安回復と住民保護を最優先の義務として負います。採算が取れないという理由では、復旧費の支出を止められません」


「そのためのオーリ子爵家でしょう」


 法務官は表情を崩さずに答えた。


「王国でも指折りの財力を持つ家だからこそ、陛下はこの重要な役目を託されたのです」


 拒めば、国王の信任と褒賞を公然と退けたことになる。


 法的には拒否できる。

しかし王都の貴族社会では、国王へ忠誠を示さなかった危険人物という印を押されるだろう。


 形式上の選択肢はあっても、政治的な逃げ道は塞がれている。


「旦那様。現在の当家であれば、初期費用を捻出すること自体は可能です」


 ギルバートが収支資料を閉じた。


「ですが、復旧の期限も、費用の上限も定められておりません。鉱山が利益を生まない以上、毎月の支出だけが積み上がります」


「最悪の場合は?」


「周辺領地で予定していた街道整備と、商会への融資を止めることになります。それでも長期化すれば、当家の財政そのものが傾きかねません」


 王家は、ルシアンが短期間で得た富を正面から奪おうとはしていない。


 代わりに、底の抜けた器を差し出したのだ。

管理者という名誉を与え、そこへ自ら金を注ぎ続けるよう命じている。


 エマは次の資料へ手を伸ばした。


 契約書の末尾には、独立監査についての条項が記されている。


「……監査開始後、王家は管理者に明確な契約違反がない限り、委任を一方的に取り消せない」


 エマは声に出して読み上げた。


「同時に、管理者も監査が終了するまで、管理義務を一方的に放棄できない」


 王家が気まぐれに成果を奪うことを防ぎ、管理者が途中で逃げることも防ぐ。

一見すれば、双方を公平に拘束する条文だ。


 だが、王家は鉱山を失わない。

一方のルシアンは、監査が続く限り費用を支払い続けなければならない。


「独立監査には、どれほどの期間が必要なのですか」


「資産調査と治安回復が完了するまでです」


「具体的な期限をお答えください」


「現地の状況を確認する前に、期限を定めることはできません」


 終わりを決めるのは、鉱山の状態と独立司法。


 ルシアンが望んでも終わらせられず、国王が満足するまで鎖につながれる可能性がある。


 エマは委任状を閉じかけた。


 その指が、監査条項の下に添えられた小さな引用で止まった。


「創世王典……王家資産保全条項?」


 四百年前に定められた、王家資産の管理に関する規則だった。


 管理権が婚姻や養子縁組、相続人の指定によって、別の貴族家へ迂回して移ることを防ぐための条文。


 独立監査が終わるまで、管理者は王家資産の支配関係に影響する身分変更を行えない。

婚姻によって配偶者の家が共同管理権や相続請求権を得る場合、その婚姻は監査終了まで停止される。

あるいは、事前に司法の承認を得なければならない。


「鉱山の管理だけではありません」


 エマは、婚姻、養子縁組、相続人指定に関する条項を指で順に追った。


「この契約を結べば、監査中は閣下の婚姻、養子縁組、相続人指定まで制限されます。オーリ家の継承そのものを、王家資産の管理へ結び付ける条項です」


 エマは、婚姻、養子縁組、相続人指定の三項目を順に指した。


「これは復旧費用だけの問題ではありません。契約が続く限り、王家はオーリ家の継承まで拘束できます」


 エマは言い切った。

王家の法務官が、初めて委任状から視線を上げた。


「王家としては、管理者本人の婚姻まで一律に禁じる条項とは解しておりません。令嬢がオーリ家へ入ったところで、鉱山の所有者も管理者も変わりませんので」


「所有権だけの問題ではありません」


エマは王家資産保全条項へ指を置いた。


「公爵令嬢には、婚姻によって共同代表権と相続請求権が生じます。それを“支配関係の変更”に含めるかは、王家ではなく独立司法が判断することです」


法務官は否定しなかった。


「閣下。拒絶すべきです。公然の不忠と見なされたとしても、この契約が当家へ与える損害は大きすぎます」


 エマは改めて言い切った。


 ルシアンは答えず、創世王典の引用部分へ視線を落としていた。


 一度目は文章を追うように。

二度目は、言葉の位置を確かめるように。


 そして三度目に、条文の末尾を指でなぞった。


「閣下?」


「鎖は、引く者の手にも巻き付く」


 それだけを告げると、ルシアンは署名欄へ羽ペンを走らせた。


「旦那様!」


 ギルバートが止めるより早く、オーリ子爵家当主の署名が書き上げられる。


 王家の法務官は委任状を受け取り、王家の大印を押した。

重い印章が羊皮紙へ触れ、乾いた音を立てる。

契約は発効した。


 続けて独立司法へ提出する監査開始届が作成され、王家とオーリ家、それぞれの控えに受領印が押されていく。


 後戻りはできない。


 王都の滞在先へ戻った後も、エマは委任状の控えを手放さなかった。


 卓上には、王家から渡された鉱山周辺の地図が広げられている。

ギルバートは必要な費用を書き出し、セレナは現地へ向かう人員と物資の確認を進めていた。


 ルシアンだけが、地図を静かに眺めている。


 その視線の先にあるのは、廃鉱山を示す大きな印ではなかった。

「ここは……」


 エマは、地図の端に打たれた小さな点へ顔を寄せた。


 鉱山へ続く街道から外れた場所に、住居が集まっている。

しかし、地図には集落の名前すら記されていない。


 王家が与えた毒の中心には、帳簿にも名前を残されなかった人々が暮らしていた。



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