第3話「毒入りの契約」
羊皮紙が擦れ合う乾いた音が、王宮の契約室に響いていた。
卓上では封蝋を温める小さな火が揺れ、壁一面を埋める書棚から古い獣皮と埃の匂いが漂っている。
エマは、目の前に置かれた王家資産管理委任状を一枚ずつ確認していた。
本文だけで十数枚。
鉱山の測量記録、過去の収支、住民台帳、滞納記録まで含めれば、資料は小さな山になっている。
「昨日、陛下よりお伝えしたとおり、こちらはオーリ子爵殿の功績に対する褒賞です」
卓の向こうに座る王家の法務官が、穏やかな声で説明を始めた。
「王都近郊にある鉱山と、その周辺集落の管理を委任いたします。ただし、鉱山そのものは王家資産です。オーリ家へ譲渡されるわけではございません」
ルシアンは法務官の言葉を黙って聞いている。
その隣で、ギルバートはすでに収支資料へ目を通していた。
ページをめくる速度が次第に遅くなり、やがて眉間へ深い皺が寄る。
「その……確認させていただきたいのですが」
ギルバートが、資料の一箇所を指した。
「鉱山から最後にまとまった量の鉱石が採れたのは、数年前となっております。それ以降の採掘量は、維持費を賄う水準にも届いておりません」
「そのとおりです」
「税の滞納も、集落の備蓄不足も、すべて管理者が引き継ぐのでしょうか」
「滞納した税をオーリ家が支払う必要はございません。しかし、今後の治安維持、住民保護、資産調査、復旧に必要な費用は、新たな管理者にご負担いただきます」
エマは視線を落としたまま、契約書の条文を追った。
エマは十数枚を最後まで確認すると、委任状をルシアンの前へ押し戻した。
「閣下。これは褒賞ではありません」
鉱脈はほぼ尽きている。
集落には職を失った住民が残り、備蓄庫と坑道の一部は武装した元私兵たちに占拠されている。
さらに住民の多くは、王家が鉱山を直接管理していた頃からそこで暮らしている。
管理者が代わったという理由だけで、彼らを土地から追い出すことはできない。
利益を生まない鉱山に金を注ぎ込み、住民を養い、武装集団を排除し、崩れかけた街道まで修繕する。
成功したとしても、鉱山は王家のものだ。
失敗した場合に失われるのはオーリ家の金と信用。
成功した場合に価値を取り戻すのは王家資産。
あまりにも一方的だった。
「閣下」
エマの声から、普段の迷いは消えていた。
「この契約はお受けになるべきではありません」
王家の法務官が、僅かに目を細める。
「法務補佐官殿。これは国王陛下より賜る褒賞です」
「名称の話はしておりません。契約の効果について申し上げています」
エマは委任状の中ほどを開き、ルシアンの前へ差し出した。
「管理者は、治安回復と住民保護を最優先の義務として負います。採算が取れないという理由では、復旧費の支出を止められません」
「そのためのオーリ子爵家でしょう」
法務官は表情を崩さずに答えた。
「王国でも指折りの財力を持つ家だからこそ、陛下はこの重要な役目を託されたのです」
拒めば、国王の信任と褒賞を公然と退けたことになる。
法的には拒否できる。
しかし王都の貴族社会では、国王へ忠誠を示さなかった危険人物という印を押されるだろう。
形式上の選択肢はあっても、政治的な逃げ道は塞がれている。
「旦那様。現在の当家であれば、初期費用を捻出すること自体は可能です」
ギルバートが収支資料を閉じた。
「ですが、復旧の期限も、費用の上限も定められておりません。鉱山が利益を生まない以上、毎月の支出だけが積み上がります」
「最悪の場合は?」
「周辺領地で予定していた街道整備と、商会への融資を止めることになります。それでも長期化すれば、当家の財政そのものが傾きかねません」
王家は、ルシアンが短期間で得た富を正面から奪おうとはしていない。
代わりに、底の抜けた器を差し出したのだ。
管理者という名誉を与え、そこへ自ら金を注ぎ続けるよう命じている。
エマは次の資料へ手を伸ばした。
契約書の末尾には、独立監査についての条項が記されている。
「……監査開始後、王家は管理者に明確な契約違反がない限り、委任を一方的に取り消せない」
エマは声に出して読み上げた。
「同時に、管理者も監査が終了するまで、管理義務を一方的に放棄できない」
王家が気まぐれに成果を奪うことを防ぎ、管理者が途中で逃げることも防ぐ。
一見すれば、双方を公平に拘束する条文だ。
だが、王家は鉱山を失わない。
一方のルシアンは、監査が続く限り費用を支払い続けなければならない。
「独立監査には、どれほどの期間が必要なのですか」
「資産調査と治安回復が完了するまでです」
「具体的な期限をお答えください」
「現地の状況を確認する前に、期限を定めることはできません」
終わりを決めるのは、鉱山の状態と独立司法。
ルシアンが望んでも終わらせられず、国王が満足するまで鎖につながれる可能性がある。
エマは委任状を閉じかけた。
その指が、監査条項の下に添えられた小さな引用で止まった。
「創世王典……王家資産保全条項?」
四百年前に定められた、王家資産の管理に関する規則だった。
管理権が婚姻や養子縁組、相続人の指定によって、別の貴族家へ迂回して移ることを防ぐための条文。
独立監査が終わるまで、管理者は王家資産の支配関係に影響する身分変更を行えない。
婚姻によって配偶者の家が共同管理権や相続請求権を得る場合、その婚姻は監査終了まで停止される。
あるいは、事前に司法の承認を得なければならない。
「鉱山の管理だけではありません」
エマは、婚姻、養子縁組、相続人指定に関する条項を指で順に追った。
「この契約を結べば、監査中は閣下の婚姻、養子縁組、相続人指定まで制限されます。オーリ家の継承そのものを、王家資産の管理へ結び付ける条項です」
エマは、婚姻、養子縁組、相続人指定の三項目を順に指した。
「これは復旧費用だけの問題ではありません。契約が続く限り、王家はオーリ家の継承まで拘束できます」
エマは言い切った。
王家の法務官が、初めて委任状から視線を上げた。
「王家としては、管理者本人の婚姻まで一律に禁じる条項とは解しておりません。令嬢がオーリ家へ入ったところで、鉱山の所有者も管理者も変わりませんので」
「所有権だけの問題ではありません」
エマは王家資産保全条項へ指を置いた。
「公爵令嬢には、婚姻によって共同代表権と相続請求権が生じます。それを“支配関係の変更”に含めるかは、王家ではなく独立司法が判断することです」
法務官は否定しなかった。
「閣下。拒絶すべきです。公然の不忠と見なされたとしても、この契約が当家へ与える損害は大きすぎます」
エマは改めて言い切った。
ルシアンは答えず、創世王典の引用部分へ視線を落としていた。
一度目は文章を追うように。
二度目は、言葉の位置を確かめるように。
そして三度目に、条文の末尾を指でなぞった。
「閣下?」
「鎖は、引く者の手にも巻き付く」
それだけを告げると、ルシアンは署名欄へ羽ペンを走らせた。
「旦那様!」
ギルバートが止めるより早く、オーリ子爵家当主の署名が書き上げられる。
王家の法務官は委任状を受け取り、王家の大印を押した。
重い印章が羊皮紙へ触れ、乾いた音を立てる。
契約は発効した。
続けて独立司法へ提出する監査開始届が作成され、王家とオーリ家、それぞれの控えに受領印が押されていく。
後戻りはできない。
王都の滞在先へ戻った後も、エマは委任状の控えを手放さなかった。
卓上には、王家から渡された鉱山周辺の地図が広げられている。
ギルバートは必要な費用を書き出し、セレナは現地へ向かう人員と物資の確認を進めていた。
ルシアンだけが、地図を静かに眺めている。
その視線の先にあるのは、廃鉱山を示す大きな印ではなかった。
「ここは……」
エマは、地図の端に打たれた小さな点へ顔を寄せた。
鉱山へ続く街道から外れた場所に、住居が集まっている。
しかし、地図には集落の名前すら記されていない。
王家が与えた毒の中心には、帳簿にも名前を残されなかった人々が暮らしていた。
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