第2話「玉座の傲慢」
磨き上げられた床を、杖の先が硬く叩いた。
王宮の執務室には薄い香が焚かれていたが、積み上げられた報告書から漂うインクの匂いまでは隠せていない。
現国王は、大机に広げられた王国西部の地図を見下ろしていた。
地図上には、貴族派に属していた領主たちの紋章が置かれている。
そのうち四つには、すでに黒い線が引かれていた。
バルドー男爵、ヴァルデマール伯爵、コーダ男爵、デンゼル子爵。
いずれも長年にわたり特例法と私兵を利用し、王家の徴税や統治へ抵抗してきた者たちだ。
彼らが失った街道、鉱山、商会との契約は、いまや一人の若い子爵の周囲へ集まりつつある。
「わずかな期間で、四家か」
国王の呟きに、傍らへ控えていた侍従長が深く頭を下げた。
「いずれも、王国法に基づく正式な裁定でございます。オーリ子爵本人の不正を示す証拠は、現在まで確認されておりません」
「分かっておる。だからこそ厄介なのだ」
国王は、オーリ領を示す駒を杖の先で軽く押した。
「貴族派の資金網が崩れたこと自体は望ましい。奴らは父王の治世から王家を軽んじ、領地特例法を盾に私腹を肥やしてきた」
杖の先が、黒い線を引かれた四家の紋章を順になぞる。
「だが、散らばっていた富と物流が別の貴族の手へ集まっただけでは、王権が強まったことにはならぬ」
「オーリ子爵は、没収された領地の払い下げまで受けております。近隣の商会も、彼との取引を望んでいるようでございます」
「金だけではない。法務官、商人、裏社会の者まで使いこなすと聞く」
国王は報告書をめくった。
そこに記されているのは、ルシアンが残した結果だけだ。
どの敵も自ら法廷へ立ち、自らの判断で逃げ道を塞ぎ、最後には王国法によって破滅している。
国王は、肘掛けを指先で二度叩いた。
「偶然が四度続くとは思わぬ。遠ざけるには惜しいが、放置するには危険だ。高位貴族としての血筋も、王都での地盤もない。どれほど地方で富を得ようと、王家の承認なく中央の権力へは手を伸ばせぬ」
国王は、オーリ領を示す駒を貴族派の紋章へ押し当てた。
「遠ざける必要はない。残党へ向けて放て」
侍従長が顔を上げる。
「十分に働かせた後は、いかがなさいますか」
「役職を与える。必要なら、王族派の家と婚姻させればよい。謁見の準備をせよ」
「すでにオーリ子爵は、控えの間に到着しております」
「ずいぶんと早いな」
「王都へ入った直後、そのまま参内したとのことです」
「王都へ入って、そのまま参内したか」
国王は満足げに頷き、杖の石突きで床を一度叩いた。
「少なくとも、召喚へ応じるだけの分別はあるらしい」
ほどなくして、謁見の間の扉が開かれた。
玉座の背後に設けられた高窓から光が差し込み、長い床の中央を白く照らしている。
その光の中をルシアンが進み、定められた位置で足を止めた。
「オーリ子爵、御前に参りました」
跪く角度も、頭を下げる時間も、王宮の作法から僅かも外れていない。
国王は声をかけず、杖を両手の間に立てたままルシアンを見下ろした。
謁見の間に、長い沈黙が続く。
だがルシアンは、身じろぎ一つせず王の言葉を待ち続けた。
「面を上げよ」
「はっ」
「貴公の働きは聞いておる。王国西部に巣食っていた腐敗を、よくぞ取り除いた」
「もったいなきお言葉にございます。私は領主として、王国の秩序を守るために必要な務めを果たしたまでです」
国王の指が、肘掛けを一度だけ叩いた。
「王国のため、か」
その声は、先ほどより僅かに低かった。
「謙遜するな。貴公が潰した者たちは、代々の王を悩ませてきた古狸どもだ」
国王は肘掛けへ片手を置き、僅かに身を乗り出した。
「余の猟犬として働くなら、さらに栄誉を与えよう」
玉座の周囲に控える臣下たちの間へ、微かなざわめきが広がった。
猟犬。
貴族に向けるには、あまりに露骨な呼び方だった。
国王は笑みを崩さず、ルシアンから視線を外さない。
ルシアンは抗議しなかった。
不快感を露わにすることもなく、礼節を保ったまま答える。
「私は王国法の許す範囲で、陛下の御意向に沿いましょう」
整った返答だった。
しかし、忠誠を誓う言葉はどこにもない。
王国法の許す範囲という条件を置き、国王の意思すら法の下へ並べている。
国王の指が、肘掛けを一度だけ叩いた。
「王国法の許す範囲、か」
「はい」
国王は口元の笑みを崩さなかった。
「貴公は、まだ妻を持たぬそうだな」
「はい」
「直系の相続人もおらぬか」
「おりません」
国王はゆっくりと背もたれへ身を預けた。
杖の先が床を滑り、跪くルシアンの足元で止まる。
「貴公の功績にふさわしい褒賞を、余自ら選んでおいた」
「恐悦至極にございます」
「詳しい内容は、明日、王家の法務官より伝えさせる。王国の繁栄へ資する、栄誉ある役目だ」
ルシアンは再び深く頭を下げた。
表情も声も、謁見へ入った時から変わっていない。
王都近郊に残された王家所有の廃鉱山。
鉱脈は尽きたとされ、税は滞納され、周辺の集落には職を失った者が溢れている。
王家の資産であるため捨てることもできず、治安維持と住民保護の費用だけが国庫から失われ続けていた。
その管理を、褒賞という形でルシアンへ押し付ける。
国王は地図から廃鉱山を示す駒を取り、オーリ領の駒へ押し当てた。
「失敗すれば、オーリ家の金と信用が失われる。成功すれば、再生した王家資産と税収が余の手元へ戻る」
「いずれにせよ、王家に損はないと」
侍従長の確認に、国王は杖の先で駒を押し込んだ。
「褒賞とは、そういうものだ」
「下がってよい」
「御意にございます」
ルシアンは最後まで隙のない礼を取り、謁見の間を退出した。
重い扉が閉ざされるのを見届けると、国王は侍従長へ杖を向ける。
「例のものを」
運び込まれた木箱が、玉座の前で静かに開かれた。
中には王家資産の管理委任状と、それを発効させるための大印が収められている。
国王は木箱の中の大印へ指を置いた。
閉じた扉を見据えたまま、杖の先を床へ落とす。
「首輪のない猟犬ほど、主人へ牙を向けやすい。だからこそ、その首輪は余が選ぶ」
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