第1話「王都への道」
----------------------------Side : セレナ----------------------------
早朝の街道に、馬車の車輪が軋む音が絶え間なく響いていた。
御者台から流れ込む乾いた馬の汗の匂い。
閉め切られた窓掛けの隙間から差し込む白い光が、揺れる車内を細く横切っている。
オーリ子爵領を発ってから、二日目の朝だった。
私の正面では、旦那様が膝の上に広げた報告書へ目を落としている。
車輪が石を踏むたびに文字は小刻みに揺れているはずだが、旦那様は迷いなく羊皮紙を繰り、余白へ短い指示を書き込んでいた。
「旦那様。少しお休みになられてはいかがでしょうか」
「王都に着いてからでは、こうして静かに書類を読める時間もないだろうからね」
予想していた答えだった。
私は膝の上に置いた銀の水筒へ視線を落とす。
揺れる馬車の中では、いつもの茶器で紅茶を淹れることもできない。
旦那様を支えるために同行しているというのに、休ませることすらできない自分が歯痒かった。
「セレナこそ、少し目を閉じたらどうだい」
「私は問題ございません」
「君はいつもそう言う」
旦那様は書類から目を離さないまま、僅かに口元を緩めた。
「王都で君に倒れられる方が、私としては困るのだけれどね」
「……承知いたしました。次の宿場で休息を取ります」
「今ではないのか」
「旦那様が書類を閉じられましたら」
向かい合ったまま、互いに一歩も譲らない。
やがて旦那様は諦めたように小さく息を吐き、報告書を一枚めくった。
その隣では、エマさんが王都の貴族名簿を抱えている。
対面に座るギルバートは膝の上へ地図を広げ、王宮までの道筋と宿泊予定を何度も確認していた。
「王都の夜会では、王族派の席が上座になります」
エマさんが名簿の一角を指で示した。
「中でも筆頭公爵家は、現国王の即位を最初に支持した家です。儀礼上の順序を間違えれば、単なる無作法では済みません」
「ですが、先方の作法に従いすぎれば、旦那様が王族派へ加わったと受け取られる可能性もございます」
ギルバートの懸念に、旦那様は静かに頷いた。
「礼節は尽くす。だが、忠誠は差し出さない。私たちが応じるのは国王個人ではなく、正式な召喚と王国法に対してだ」
穏やかな声だった。
それでも、王都で待つ者たちを一歩も自分の内側へ入れないという意志だけは、はっきりと伝わってくる。
私は謁見の作法も、王族派の家紋も、王宮内の使用人が従う規則もすでに覚えている。
旦那様に恥をかかせるつもりはない。
けれど、相手は地方の腐敗貴族ではない。
王国の頂点に立つ国王と、その周囲で何代にもわたり権力を受け継いできた者たちだ。
私の忠誠や技量だけで、旦那様を守り切れるのだろうか。
その疑念は、旅を重ねるほど胸の奥で重くなっていった。
四日目の昼、一行は街道沿いの宿場で馬を休ませた。
厩の前には、手入れのされていない革鎧を着た男たちが集まっていた。
剣は帯びているが、揃いの紋章だけが乱暴に剥ぎ取られている。
「元私兵のようですね」
私が囁くと、旦那様は男たちの腰元へ一度だけ視線を向けた。
宿の主人によれば、彼らは没落した貴族家に仕えていた者たちだった。
給金を踏み倒され、仕えていた主人を憎んではいる。
それでも家名が消えれば、同時に仕事も住居も失う。
妻子を郷里へ残したまま、次の雇い主を探して街道をさまよっているという。
「オーリ子爵様、ですよね」
男の一人が旦那様の前へ進み出た。
礼を取ろうとはしなかったが、剣へ手を伸ばす様子もない。
その顔に浮かんでいるのは敵意よりも、行き場のない疲労だった。
「あなたが俺たちの主人を潰した。あの男が裁かれたことに文句はありません。ですが、俺たちまで罪人になったわけではない」
「その通りだ」
旦那様は弁解も謝罪もせず、男の言葉を認めた。
「剣を扱える者は何人いる」
「ここにいる全員です。ですが、雇ってくれる貴族なんて、もう……」
「貴族に仕える必要はない」
旦那様がギルバートへ目を向ける。
ギルバートが差し出したのは、周辺の宿場や商会が出している求人と、その所在地を記した木札だった。
新たにオーリ領へ加わった交易路では、荷運びの人足と商隊護衛が不足している。
「日当と契約期間はそこに書いてある。望むなら、商会への紹介状も用意しよう」
男は木札を受け取ったが、喜びは見せなかった。
「全員分の仕事は」
「ない」
旦那様の返答に、男たちの間へ沈黙が落ちる。
「金を配れば、今日の食事にはなる。だが明日、君たちはまた別の誰かから金を受け取るために頭を下げることになる」
「……だから、自分で働けと」
「選ぶのは君たちだ。私は選択肢を示しただけだよ」
それは救済ではなかった。
紹介状を求めて前へ出る者がいる一方、怪我をした足を引きずり、その場に残る者もいる。
剣以外の仕事などできないと木札を突き返す者もいた。
旦那様の勝利は、腐敗した貴族を滅ぼした。
だが、その屋敷で働き、歪んだ秩序の中で糧を得ていた者たちの生活まで、正しく救ってくれるわけではない。
馬車へ戻った旦那様は、何も言わず次の報告書を開いた。
その横顔に後悔があるのか、私には分からない。
ただ、歩みを止めるつもりがないことだけは分かった。
それから二つの宿場を越え、六日目の夕刻。
街道の先に、王都を囲む巨大な城壁が姿を現した。
幾重にも重なる石壁と、空を断ち切るようにそびえる尖塔。
門を行き交う馬車の列だけでも、オーリ領の市場とは比べ物にならない。
王家の旗が高い風を受け、城壁の上で音を立てて翻っている。
私は無意識に、メイド服の裾を握りしめていた。
ここでは、旦那様がどれほど優れた方であるかよりも、爵位や血筋、王への忠誠が先に量られる。
そして私は、苗字すら持たない平民のメイドにすぎない。
「セレナ」
呼ばれて顔を上げると、旦那様の視線がまっすぐに私へ向けられていた。
「王都でも、頼りにしている」
「……必ず、ご期待にお応えいたします」
それ以外の答えを、私は持っていなかった。
馬車が巨大な門の前で停止する。
待ち構えていた王宮の使者が、休息も宿への案内も告げず、王家の紋章が刻まれた書状を差し出した。
「陛下はオーリ子爵を、すぐにでも御前へとの仰せです」
王都は、私たちに息を整える時間すら与えるつもりがないらしい。
開かれた門の向こうで、王宮へ続く白い石畳が、巨大な獣の舌のように伸びていた。
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