第11話「静かなる祝杯」
----------------------------Side : セレナ----------------------------
暖炉の薪が爆ぜる低い音が、夜の執務室に心地よく響いている。
琥珀色の水面が、壁掛けのランプの光を反射して静かに揺れていた。
上質な茶葉が熱湯の中でゆっくりと開き、芳醇な香りが部屋の空気を優しく包み込んでいく。
私は音を立てずにティーカップを四つ、手元の銀のトレイに並べた。
室内にいるのは、ルシアン様、ギルバート、エマさんの四人のみだ。
窓の外はすでに深い夜闇に包まれているが、部屋の中には静かな熱気が渦巻いていた。
「……これで、最後の一枚です」
執務机の前に立つ財務担当のギルバートが、手にした書類の束を差し出す。
その声は落ち着きを装っていたが、差し出された指先は興奮で小刻みに震えている。
ルシアン様が流麗なサインを書き終え、領主としての証である重厚な印章を押す。
その乾いた音が、王国の歴史が大きく塗り替えられたことを告げる合図のように聞こえた。
ギルバートは書類を胸に抱きかかえ、こらえきれないといった様子で大きく息を吐き出す。
「信じられません。国庫に没収されたコーダとデンゼルの領地が、そのまま当家のものになるなんて」
「あの二人が国庫へ領地を没収されることを見越し、『払い下げの事前申請書』の提出まで済まされていた旦那様の手腕……恐れ入ります」
ギルバートの言葉に、法務補佐官のエマさんが静かな微笑みを浮かべて答えた。
彼女の目元には長時間の法務作業による疲労が滲んでいたが、その奥には確かな熱が宿っている。
自らの手で過去の因縁に決着をつけた彼女の背筋は、以前よりもずっと真っ直ぐに伸びていた。
ルシアン様は羽ペンを置き、椅子の背もたれに深く体を預ける。
窓の外に広がる領都の夜景を眺めるその横顔は、途方もない大仕事を終えた後だというのにひどく涼しげだった。
「中堅の二人が潰れたことで、貴族派の連中は資金網を断たれました。もはや彼らに、オーリ領を害する力はありません」
私は静かに歩み寄り、四人の前にそれぞれティーカップを置いた。
湯気とともに立ち上る特別な茶葉の香りに、ルシアン様の目元がふっと和らぐ。
「ご苦労だったね、セレナ、エマ、ギルバート。地下の連中には特別報酬として、今回没収したコーダ領の主要な宿場町の運営権をそのまま渡そう」
「ありがたき幸せ。すぐに手配いたします」
ギルバートが深く一礼し、エマ、私もそれに倣って頭を下げる。
敵対する二人の領主を合法的に破滅させ、その莫大な資産と領地を底値で買い叩く。
ルシアン様が今回手に入れた領地と財力は、すでに周辺の小国の王をも凌ぐほどの規模に膨れ上がっていた。
物流の要所を抑え、巨大な鉱山までも手中に収めたオーリ領は、今や王国経済の心臓部と言っても過言ではない。
スラムの泥水の中を這いずり回っていた私が、まさかこのような国家を揺るがす偉業の只中に立たされる日が来るとは思いもしなかった。
平民であるというどうしようもない劣等感が、ふとした瞬間に私の胸を締め付ける。
私がこの方の隣に立つ資格など、本当はないのかもしれない。
ただ役に立つ手足として、有能なメイドであり続けることでしか、恩返しをする術を持たないのだから。
たった一人の若き子爵様が、王国を裏で牛耳っていた巨大な派閥の牙を根こそぎ抜き取ったのだ。
それでも、このお方は決して満ち足りたような顔を見せない。
ティーカップの縁に口をつけるその横顔は、すでに遠くの別の獲物を見据えているかのようだった。
「素晴らしい香りだ。やはり、君の淹れる紅茶は格別だよ」
「お口に合って何よりでございます、旦那様」
ルシアン様の言葉に、私は静かに、深く頭を下げる。
自らの劣等感を心の奥底へ押し込み、私はただ表情のない冷たい影として振る舞う。
この方が望む世界を作るためならば、いかなる感情も捨て去り、どこまでも付き従うだけだ。
「……さて」
ルシアン様がカップをソーサーに戻す微かな音が、部屋の緩んだ空気を一瞬にして引き締めた。
ルシアン様の手元にあるのは、新たに広大な領地を示すことになった書き込みだらけの地図だ。
その地図のさらに奥、王国の中心部へと彼の視線が静かに移動する。
「貴族派の解体は、あくまで第一歩にすぎない。ここから先は、彼らが黙っていないだろうね」
窓越しに見える夜空の彼方には、豪奢な光を放つ王宮の尖塔がそびえ立っている。
新王が支配する王族派、そして絶対の法を司る中立派。
そう、一地方領主の枠を大きく飛び越え、強大になりすぎたオーリ子爵領は、もはや王宮にとって無視できる存在ではなくなっていた。
「静かな祝杯はここまでだ。次は、保守派の古狸どもとの腹の探り合いになる」
ルシアン様の口元に、これから始まる未知の戦いを楽しむような不敵な笑みが浮かんだ。
その時、執務室の分厚い扉の向こうから、屋敷の静寂を破るような慌ただしい足音が近づいてくる。
夜も更けたこの時間に、これほど無作法な足音を立てる者などこの屋敷にはいない。
「旦那様! 領堺の警備隊より緊急の報せでございます!」
扉越しに響いた兵士の声は、ただごとではない緊迫感を帯びていた。
私とギルバートが顔を見合わせる中、ルシアン様だけが静かに目を細める。
「……王都方面から、豪奢な馬車が到着したとのこと! 掲げられている紋章は……王家のものです!」
王国最高の権力者からの突然の接触だ。
訪れる新たな嵐の予感が、静かな祝杯の空気を容赦なく塗り替えていく。
ルシアン様はカップの持ち手に指をかけたまま、低く、楽しげに喉を鳴らした。
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※次回、明日朝6時20分更新です




