第10話「蜘蛛の糸の切断」
大公爵の背後に隠れるようにして法廷へ転がり込んできたランズデール侯爵は、額から滝のような冷や汗を流していた。
中堅の二人が領地を没収されるという凶報を受け、慌てて王族派の大物を引っぱり出してきたのだ。
ヴァルデマール伯爵に続き中堅の領主たちまで失えば、貴族派の資金網は今度こそ瓦解する。
ランズデール侯爵はマクシミリアン大公爵に莫大な裏金を渡し、王宮の権威という力技で法廷の決定を覆す強硬手段に出たのだった。
「待て! この判決は無効だ! 陛下の特例法を蔑ろにするような裁定など、王宮が認めるはずがない!」
大公爵の怒声に、法壇の審判官たちが顔を見合わせる。
王の側近であり、王族派の重鎮でもある大公爵の介入となれば、いかに中立派の審判官とて無下に扱うことはできない。
ランズデール侯爵は、大公爵の威光に隠れながら密かに唇の端を吊り上げた。
いかにあの生意気な若造が小賢しい法廷戦術を練ろうとも、権力の頂点から力でねじ伏せてしまえばただの紙屑にすぎない。
事態の収拾を確信し、侯爵が安堵の息を吐き出そうとしたその時だった。
「……大公爵閣下が、わざわざこのような地下の法廷まで足を運ばれるとは」
張り詰めた空気を切り裂いたのは、静かでなめらかな青年の声だった。
ルシアン・フォン・オーリ。
彼は大貴族の威圧を前にしても眉一つ動かさず、優雅な足取りで大公爵の前に歩み出る。
「判決の無効を主張されるとのことですが、少々到着が遅れられたようですね」
ルシアンは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、大公爵とランズデール侯爵の目の前に差し出した。
そこには、法務省長官の署名と、王宮文書局の厳重な封蝋が押されている。
「すでにコーダ男爵とデンゼル子爵の領地および資産は、創世王典の規定に基づき『国庫への編入』が正式に完了しております。ここにあるのは、その受領証明書です」
「な、なんだと……!」
大公爵の顔からさっと血の気が引いた。
ランズデール侯爵も、信じられないものを見るように目をむく。
判決が下ってからまだ数分しか経っていないのに、国庫への編入手続きがすでに終わっているなど、あり得るはずがない。
「事前に法務省の窓口へ申請の手配を済ませておいたのですよ。彼らが互いに告発状を提出し、有罪が確定した瞬間に、自動的に手続きが完了するようにね」
ルシアンは手元の書類を軽く指先で弾き、冷たい光を宿した瞳で大公爵を見据えた。
その涼しげな表情の裏には、権力者の介入すらも盤上の駒として計算し尽くしていた冷酷さが透けて見える。
「創世王典によって確定し、国庫に納められた資産の返還を求めるということは……建国の法を否定し、国家の財産を私物化しようとする行為に等しい」
ルシアンの言葉は、静かでありながら、大公爵の喉元に突きつけられた鋭い刃だ。
「大公爵閣下は、ご自身の立場を危うくしてまで、一介の罪人たちを庇うおつもりで?」
大公爵はギリッと奥歯を鳴らし、握りしめた拳を小刻みに震わせる。
建国の絶対法に逆らうということは、王族へ反旗を翻したとみなされる。
彼が貴族派から受け取った裏金の額よりも、失うであろう権力のリスクの方が遥かに上回ってしまった。
「……ランズデール侯爵。どうやら私は、貴殿のつまらぬ身内喧嘩に巻き込まれただけのようだな」
大公爵は口元の筋肉を引き攣らせながらも鉄面皮を取り繕い、トカゲの尻尾切りとばかりに冷たく言い放って法廷を後にした。
遠ざかる大公爵の足音を、ランズデール侯爵はただ口を開けて聞いていることしかできなかった。
蜘蛛の糸は、彼がしがみつくよりも前に根元から焼き切られていた。
王宮の権威すらも盤上の駒として弄ぶ『化け物』が目の前にいる事実に、侯爵の分厚い脂肪の下で、心臓が警鐘のように早鐘を打った。
「侯爵。ずいぶんと顔色が優れないようですが」
ルシアンの声が、硬直するランズデール侯爵の耳に届く。
彼は薄く微笑んでいたが、その目の奥底には獲物を値踏みするような底知れない闇が広がっている。
侯爵は弾かれたように後ずさり、荒くなる呼吸を必死に抑え込む。
この若造は、単に法に明るい小生意気な子爵などではない。
盤上の駒の動きをすべて読み切り、自らは安全な場所から敵の首を真綿で絞め上げる怪物だ。
「オーリ子爵……貴様……」
ランズデール侯爵の額から、嫌な汗が流れ落ちる。
彼はルシアンの底知れない眼差しから逃れるように法廷を飛び出し、暗い回廊を足早に歩きながら、激しく脈打つ胸を押さえた。
貴族派の資金源はこれで失われた。
そして何より、あのルシアン・フォン・オーリという存在。
彼をただの小物と侮っていた己の愚かさを、侯爵は骨の髄まで思い知らされていた。
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