第8話「噛み合う狂犬」
冷ややかな大理石の床を叩く乱暴な靴音が、静まり返った法廷の空気を切り裂いた。
血の気を失ったコーダ男爵が、原告席の木の柵から身を乗り出すようにして声を張り上げる。
「ま、待っていただきたい! 本申請は取り下げる! なかったことにしてくれ!」
すぐさまデンゼル子爵も柵にすがりつき、額から滴る汗を拭おうともせずに同調した。
「そ、そうだ! 我々は誤った情報に踊らされていただけだ! 領地間で揉め事など起きていないのだから、さきほどの書類は破棄していただきたい!」
つい先ほどまで互いを出し抜き、地の底へ叩き落とそうと罵り合っていた二人が、今度は奇妙な連帯感を見せて必死に命乞いをする。
頭上に掲げられた黄金の天秤の紋章は、手のひらを返したような彼らの醜態を冷ややかに見下す。
法壇に座る司法審判官は眉一つ動かすことなく、手元の羊皮紙の束を揃える。
「申請の取り下げは認められません」
無機質な声が、地下の特別法廷に響き渡った。
「すでに法務省の正式な受理印が押されております。加えて、双方の王国法違反を裏付ける証言と証拠書類は、この法廷の記録として明確に残されました」
「そんな杓子定規な解釈があるか! 我々はアスティアの貴族だぞ! 多少の裁量というものがあるだろうが!」
コーダ男爵の怒鳴り声に反応し、壁際に控えていた独立司法軍の兵士たちが静かに槍の柄を握り直す。
金属の擦れる冷たい音が響き、男爵はビクッと肩を震わせて口を閉ざした。
「法は身分の貴賤を問いません。双方の不正が証明された以上、定められた手順を粛々と執行するのみです」
審判官の眼差しは、磨き上げられた鉱石のように硬く冷たかった。
法を絶対とする中立派にとって、己の保身に走る腐敗貴族の嘆願など、耳を貸す価値もないノイズでしかない。
正攻法では覆せないと悟った二人の男は、血走った目を傍聴席の最前列へと向けた。
「貴様……! これもすべて貴様の仕組んだ罠だな!」
デンゼル子爵が柵を強く握りしめ、参考人席に座る若き領主へ向かって毒づく。
コーダ男爵もギリッと奥歯を鳴らし、脂肪のついた首を赤く染め上げた。
「我々をハメたな! 商人は貴様の手のものか!」
ルシアンは上質な布張りの椅子に深く腰掛けたまま、ゆっくりと立ち上がった。
静寂に包まれた法廷に、手入れの行き届いた革靴の音が規則正しく響く。
彼は取り乱す中年の男たちを、静かな湖面のような、温度のない瞳で見下ろした。
「奇妙な言いがかりですね。私はただ、この席で黙って見ていただけですよ」
「ふざけるな! 貴様があの商人をよこし、書類を購入させた――」
「誰かが、あなた方の首に刃を当て、無理やり、書類を買わせたのですか?」
静かで落ち着いた問いかけが、男たちの必死の弁明を鋭く切り裂いた。
ルシアンの視線が、床に散らばったままの証拠書類へと向けられる。
隠し持っていた裏帳簿や領民への非道な行いの記録は、彼らが自らの意志で嬉々として法廷に持ち込んだものだ。
「あなた方を突き動かしたのは、少しでも自らの利益を得ようとする浅ましい欲望と、己の懐が尽きることへの恐怖です」
「保身のために同胞の背中を刺すことを、あなた方自身が選んだのです」
二人の男は反論しようと口を開いたが、喉が引き攣ったように動くだけで音にならない。
あまりにも理不尽で、同時に反論の余地がない事実が、彼らの呼吸を浅くしていく。
ルシアンの薄い唇が、静かに弧を描いた。
「私は法を愛している。――法は最強の鎧で有ると同時に、最強の剣にもなるからね。あなた方は自らその剣を喉元に突き立てたのですよ」
静かに紡がれたその宣告は、どんな怒声よりも残酷に法廷の空気を支配した。
彼らがしがみついていた貴族としての特権も、ため込んだ富も、すべてを無に帰す決定的な死刑宣告。
コーダ男爵の太い足から力が抜け、重々しい音を立てて石の床に膝をついた。
デンゼル子爵もまた、虚ろな目をしたままゆっくりと柵から滑り落ちる。
かつて彼らが平民から搾取するために悪用していた『法』。
その象徴である黄金の天秤の巨大な影が、今は彼らの頭上から重く、無慈悲にのしかかる。
ひんやりとした大理石の上に、二つの空虚な肉の塊だけが残される。
息の詰まるような絶望の静寂が、彼らの上に重く降り積もっていった。
ここまでおお読み頂き、ありがとうございます!
今後ともご支援よろしくおねがいします(●'◡'●)
※次回、明日朝6時20分更新です




