第5話「先制攻撃の法務」
夜が明けきらない薄暗い時間帯、デンゼル子爵の寝室の分厚い扉が外から激しく叩かれた。
身支度を整える間もなく飛び込んできた側近の顔は、血の気が引き青ざめきっている。
「旦那様、一大事でございます! コーダ男爵が、昨夜のうちに王都の法務省へ駆け込んだとの報せが!」
息を呑む音とともに、デンゼル子爵は羽織ろうとしていたナイトガウンを乱暴に床へ叩きつけた。
彼の細い目に、血走った憎悪と、首元に刃を突き立てられたような強烈な焦燥が浮かび上がる。
机の上に置かれた革張りの書類入れから、商人から買い取った羊皮紙の束が冷たい存在感を放っていた。
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空が白み始める中、デンゼル子爵を乗せた馬車が王都の石畳を荒々しく駆け抜ける。
すり減った車輪が跳ねるたびに、豪華な装飾が施された車内が不快なきしみ音を立てた。
彼の額には冷ややかな汗が滲み、組まれた指先は己の膝を強く握りしめている。
「先手を打たれたとはいえ、焦る必要はない……。私には、奴の不正の動かざる証拠があるのだ」
独り言のように呟く声は、馬車の振動に掻き消されていく。
彼の手元にあるのは、コーダ男爵が裏で手を染めていた鉱山開発における違法な強制労働の記録だ。
どれも法務省の厳しい審査に耐えうる、緻密で裏付けの取れた告発材料。
あの小太りの男の杜撰な領地経営を明るみに出せば、法案の効力で奴の領地と財産はすべて自分のものになる。
そうすれば、今にも暴発しそうな私兵団の給料を支払い、この致命的な資金難を乗り越えられる。
デンゼル子爵の乾いた唇が、執念深い笑みの形に歪んだ。
法務省の特別庁舎は、王都の喧騒から切り離されたように重苦しい静寂に包まれていた。
巨大な大理石の柱が立ち並ぶ広間には、中立派を象徴するような無機質で冷たい空気が漂う。
デンゼル子爵が息を切らして受理窓口のある広間へ飛び込むと、そこにはすでに忌々しい先客の姿があった。
「……コーダ男爵!」
広間の中央で、胸元に黄金の天秤の紋章を掲げた司法審判官と向き合っていた男が、弾かれたように振り返る。
彼の顔は徹夜明けの疲労で脂ぎっていたが、その口元には先手を打ったという醜い優越感が張り付いていた。
「おお、デンゼル子爵。随分と朝早くから慌ただしいご様子で」
コーダ男爵のねっとりとした声が、広間の冷たい空気を不快に震わせる。
その手には法務省の受理印が押されたばかりの書類が、誇らしげに握りしめられていた。
「残念でしたな。あなたの領地は、管理能力の欠如により、この私が正当に保護・吸収する手続きを済ませたところですよ」
その宣告を聞いた瞬間、デンゼル子爵の脳内で何かが激しく弾け飛ぶ音がした。
彼が必死に保とうとしていた貴族としての威厳が、怒りと恐怖の熱によってドロドロに溶け落ちていく。
呼吸が荒くなり、肩が大きく上下に揺れた。
「ほざくな! 領地経営が破綻しているのは貴様の方だろうが!」
デンゼル子爵は周囲の目も気にせず、天井の高い広間に響き渡る声で怒鳴り散らした。
彼の手から、握りしめていたコーダ男爵の不正の証拠書類がバサバサと床にばら撒かれる。
「審判官殿! この男は鉱山の開発費用を浮かすため、領民を不当に酷使しております! これがその証拠だ!」
「でたらめを言うな! 貴様こそ、私兵団の維持費を捻出するために二重徴税を行っている裏帳簿がここにある!」
コーダ男爵もまた、顔を真っ赤にして自身の懐から別の書類の束を引きずり出した。
互いに隠し持っていた致命的な不正の証拠を、法務省のど真ん中で叩きつけ合う。
二人の顔はすでに、憎悪と恐怖で醜く歪みきっていた。
「貴様のせいで、どれだけの領民が苦しんでいると思っている!」
「黙れ! 貴様が裏金を独占しようと浅ましい真似をしたからだろうが!」
静謐なはずの大理石の広間に、貴族としての品性のかけらもない罵声が響き渡る。
彼らは生き残るために、自らの手で相手の罪を公の場に引きずり出してしまった。
黄金の天秤を掲げた司法審判官は、騒ぎ立てる二人をただ無機質な冷ややかな瞳で見下ろしていた。
「……双方の告発状、および不正の証拠書類。確かに受理いたしました」
感情を排した機械的な宣告が、激昂する二人の間に響く。
だが、己の生存と相手への憎悪だけで頭が満たされている彼らは、誰一人として気づいていない。
二つの分厚い告発状に、法務省の受理印がガシャン、ガシャンと冷たく並んで押される。互いを食い殺すことしか頭にない二人の獣は、並んだ二つの赤い印が『自らの退路を完全に塞いだ』という事実に、まだ気づいていない。
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