第2話「毒を含む蜜」
王都の裏通りにひっそりと佇む、会員制の酒場。
そのさらに奥にある特別室は、分厚い扉によって外の喧騒が遮断されていた。
部屋には安っぽい油の焦げる匂いと、行き場のない欲望の熱気が淀んでいる。
「……ほう。これが、例の『特効薬』の作り方だと言うのか」
コーダ男爵は、テーブルの上に置かれた革張りの書類入れを食い入るように見つめる。
彼の太い指先が、書類の表紙をなぞるように小刻みに震えている。
目の下に濃い隈を刻んだ男爵は、どうにか貴族としての威厳を保とうと咳払いを一つした。
「ええ、その通りでございます。王宮の奥深くで埃を被っていた、知る人ぞ知る王家布告の手続き書」
対面に座るザックは、愛想の良い商人特有の笑みを浮かべてみせた。
彼は上質な仕立ての外套を羽織り、いかにも胡散臭い高級裏ブローカーを演じきっている。
声のトーンはどこまでも滑らかで、相手の懐にスッと入り込むような親しみを帯びていた。
「『隣接領地救済法』……管理能力を欠いた不適格な領主から、国のために領地を保護する。つまり、正当な手続きさえ踏めば、合法的に隣の領地を丸ごと吸収できる夢のような代物でさぁ」
その言葉に、コーダ男爵の喉がゴクリと大きく鳴る音が聞こえた。
私兵団の維持費に首を絞められ、金庫の底が見え始めている今の彼にとって、それは喉から手が出るほど欲しい情報だ。
男爵は書類入れを自分の手元へと素早く引き寄せ、テーブルの上にずっしりと重い皮袋を投げ出す。
「いいだろう。貴様の口の硬さへの対価も込みだ」
皮袋の隙間から、鈍い光を放つ金貨が数枚こぼれ落ちる。
ザックはその金貨の山を大げさな手つきで撫で回し、深々と頭を下げた。
「毎度あり。男爵様の輝かしい未来に、大いなる祝福があらんことを」
恭しく退室したザックは、分厚い扉が閉まった直後、顔の筋肉を緩めて小さく息を吐き出した。
商人としてのへりくだった態度は消え去り、そこにあるのは路地裏を生き抜いてきた暗部としての鋭い眼差しだ。
重い金貨の袋を外套の内側にしまい込みながら、彼は足早に酒場の裏口へと向かう。
(旦那の読み通り、あの豚は一瞬で食いつきやがった)
ザックは夜の冷たい空気を肺に吸い込み、喉の奥で低く笑う。
ルシアンが仕組んだ罠は、獲物の心理をあまりにも正確に突きすぎている。
飢えに苦しむ獣の目の前に極上の肉を吊るせば、それが毒入りだと疑う余裕すら失う。
ザックは裏路地の暗がりで外套を裏返しにし、帽子を深々と被り直した。
次なる商談の相手は、王都を挟んで反対側に位置する高級宿に滞在している。
彼は軽い足取りで夜の街を駆け抜け、約束の時刻ちょうどに、指定された宿の裏口から滑り込む。
案内された薄暗い一室には、デンゼル子爵が苛立たしげに貧乏揺すりをしながら待ち構えていた。
部屋には安価な香水がキツく焚かれており、彼の焦燥感を誤魔化そうとする必死さが鼻を突く。
「遅いぞ。わざわざこんな裏口から商人などを招き入れたのだ。それに見合うだけの情報なのだろうな」
「ご機嫌斜めなようで。ですが、こちらをご覧頂ければご機慮も直るかと」
ザックは先ほどと寸分違わぬ動作で、真新しい革張りの書類入れをテーブルに滑らせた。
中身は先ほどコーダ男爵に売りつけたものと、同じ内容が記された書類だ。
デンゼル子爵は怪訝そうに眉をひそめながら、羊皮紙の束を手に取る。
「『隣接領地救済法』……? これが、私の窮地を救うと言うのか」
「隣の領地の税収がそのまま手に入れば、子爵様の私兵団は以前よりもさらに強固なものとなるはずです」
ザックが甘く囁きかけると、デンゼル子爵の視線が羊皮紙の文字に釘付けになった。
彼の細い指先が紙の端を強く握りしめ、シワが寄るのも構わずに何度も条文を読み返している。
やがて、その神経質そうな顔に、隠しきれない歓喜の色がじわりと広がっていった。
「……素晴らしい。これならば、あの憎きコーダ男爵の領地を合法的に奪い取れる!」
デンゼル子爵は興奮で上ずった声を漏らし、机の引き出しから乱暴に金貨の束を取り出してザックに押し付けた。
その目はすでに、目前の商人など見ていない。
己の勝利を確信し、憎き隣人をどうやって法務省に突き出すかという甘美な妄想に支配されている。
「お買い上げ、感謝いたします」
ザックは金貨を受け取り、誰にも気づかれないほどの冷ややかな視線を子爵に向けた。
部屋を後にした彼は、夜空に浮かぶ月を見上げながら、手の中の金貨を一枚だけ空高く弾く。
チャリン、という小気味良い金属音が、静まり返った路地裏に響いた。
落ちてきた金貨を見事な手際でキャッチし、ザックはニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
今頃、離れた場所にいる二人の領主は、それぞれが同じ書類を抱きしめているはずだ。
自分だけが最強の武器を手に入れたと信じて疑わず、相手を叩き潰す計画に酔いしれている。
(あの書類に、お互いの首を絞め合う最悪の欠陥が隠されてるなんて夢にも思わずに)
ルシアンが用意した極上の蜜は、彼らの胃袋を満たすどころか、内側から腐らせる猛毒だ。
これで舞台の幕は上がり、役者たちは嬉々として自滅へのダンスを踊り始める。
ザックは軽快な足取りでオーリ邸の方角へと歩き出し、口笛混じりに夜の闇へと消えていった。
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※次回、明日朝6時20分更新です




