第1話「飢餓の連鎖」
重厚なビロードのカーテンが引かれた薄暗い遊戯室には、紫煙と安酒のツンとした匂いが充満していた。
本来ならば王都の夜を彩る特級の葉巻と年代物のワインが用意されるはずのテーブルに、今は下級貴族が嗜むような粗悪品が無造作に転がる。
壁にかけられたランプの頼りない灯りが、向かい合って座る二人の男の顔に深い影を落とす。
「ヴァルデマール伯爵の領地が国庫に没収されてから、ずいぶんと王都の夜が冷え込むようになりましたな」
恰幅の良いコーダ男爵が、グラスの底に残った濁った赤ワインを揺らしながら口を開く。
その言葉の裏には、貴族派という派閥の巨大な金庫番を失ったことによる、致命的な資金繰りの悪化に対する焦燥が隠されていた。
彼の目の下には濃い隈が刻まれていたが、表面上はあくまで余裕のある貴族の笑みを貼り付け、決して苦しい内情を悟らせまいとしている。
「ええ、全くです。彼が抱えていた物流の利権が凍結され、我々の事業にも少なからず波風が立っておりますよ」
対面に座るデンゼル子爵が、乾いた音を立てて葉巻の灰を大理石の灰皿に落とした。
彼もまた、細められた神経質な瞳の奥で、自身の領地が抱える莫大な負債から目を逸らそうと必死だった。
平和ボケしたお飾りの国軍の代わりに領地を守る自慢の私兵団は、もはや彼らの正当な税収だけでは到底賄いきれない規模に膨れ上がっている。
「デンゼル子爵の領地は、街道の整備事業で随分と腕利きの傭兵を雇い入れていたはず。給金の支払いは滞りなく進んでおいでかな?」
コーダ男爵の探るような視線が、チクリと相手の皮膚を刺す。
少しでも弱みを見せれば、ハイエナのように噛み付いてこようとする露骨な牽制だ。
デンゼル子爵は微かに眉を動かしただけで、手元のグラスを軽く掲げてみせた。
「ご心配には及びませんよ、男爵。当領地の財政は盤石そのものですから。むしろ、そちらの新しい鉱山開発の進捗こそ気がかりですが」
虚勢と牽制が、薄暗い部屋の空気をピリピリと張り詰めさせる。
互いに致命傷を負っていることを知りながら、決して腹の内を見せようとはしない。
相手の資金がいつショートするのか、その決定的な破綻の瞬間を待ち構えるような泥沼の探り合い。
「私兵団の規模を縮小しようものなら、すぐにでも領内で暴動が起きますからね。……お互い、領主というものは難儀な立場です」
コーダ男爵がグラスをテーブルに置く音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。
特例法を悪用し、平民からの搾取で成り立っていた強気な支配は、武力という暴力装置が機能してこそ。
彼らが雇い入れた傭兵たちは、忠誠心ではなく金貨の輝きにのみ従う血の気の多い獣たち。
ひとたび金払いが遅れれば、大枚をはたいて養ってきたその牙は、一瞬にして主人の喉元へと向けられる。
その恐怖が、領主たちの首を真綿で絞めるようにじわじわと追い詰めていた。
「ええ。我々のような誇り高き貴族が、下賤な傭兵や平民どもの顔色を窺うなど、あってはならないことです」
二人の間に落ちた沈黙は、もはや取り繕うことのできないほどの重苦しさを帯びている。
これまで当たり前のように分配されていた、ヴァルデマール伯爵からの潤沢な裏金。
その甘い蜜が断たれた今、彼らに残されたパイは絶望的なほどに少ない。
「……とはいえ、このまま指をくわえて事態の好転を待つわけにもいきませんな」
コーダ男爵が、脂汗の滲む額を絹のハンカチで拭いながら呟いた。
デンゼル子爵も深く同意するように頷き、短くなった葉巻を指先で揉み消す。
互いの顔を見つめ合いながら、分厚い唇を歪めて同調の笑みを浮かべた。
「ええ。新たな活路を見出さねばなりません。我々貴族派の誇りを守るためにも」
上辺だけの美しい言葉を交わし、二人はゆっくりと立ち上がった。
「本日は有意義な夜会でした」と、友好的な握手を交わす。
だが、触れ合った掌は互いに酷く冷たく、そしてひどく嫌な汗をかいていた。
遊戯室を出て、灯りの少ない回廊を別々の方向へと歩き出す二人。
互いの背中が見えなくなった瞬間、彼らの顔から貴族としての洗練された笑みがドロリと剥がれ落ちた。
その瞳には、餓死寸前の獣が放つような、ギラついた狂気と絶望が宿っている。
残されたパイが少ないのなら、どうすればいいか。
答えはあまりにも単純で、残酷なものだった。
他の誰かが持っているパイを、丸ごと自分のものにしてしまえばいい。
王国法には、管理能力を失った隣接領地を正当に保護・吸収するための手続きが存在する。
もし、あの男の領地経営が破綻し、暴動や税の未納で首が回らなくなったとしたら。
自分の領地とあいつの領地を合わせれば、この致命的な資金難を乗り越え、自分だけは確実に生き残ることができるのではないか。
コーダ男爵は暗い回廊の先を睨みつけ、ギリッと強く奥歯を噛み締めた。
全く同じ時、反対方向へ歩くデンゼル子爵もまた、壁に掛けられた絵画の額縁を無意識に強く握りしめていた。
静まり返った王都の片隅で、全く同じ黒い欲望が、二人の男の胸の中で産声を上げる。
あいつを蹴落とせば、俺は助かる。
そのためには、先手を打ってあいつの不手際を法務省に突き出さなければならない。
誰かを犠牲にしてでも、己の地位と命を守り抜く。
追い詰められた獣たちが、互いの喉元に食らいつくための血なまぐさい晩餐の準備が、今まさに始まろうとしていた。
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