第12話「算盤と紅茶」
オーリ子爵邸の別棟に設けられた財務局は、まるで戦場のような喧騒に包まれていた。
数十名の書記官たちがインクで指を染めながら、猛烈な勢いで羊皮紙に数字を書き込んでいる。
壁際に並べられた巨大な黒板には、刻一刻と変動する周辺領地の資産価値がチョークで殴り書きされていた。
その部屋の最奥で、執事のギルバートは羽ペンを走らせる手を休めることなく、次々と運ばれてくる書類に目を通していた。
彼の目の前には、かつて貴族派の中堅領主たちが支配していた広大な領地の権利書が山のように積まれている。
数日前まで偉そうにふんぞり返っていた彼らは、今や法務省の地下牢で震えるだけの存在に成り下がっていた。
資金源を絶たれ破産した彼らの資産は、今まさに競売にかけられている最中だ。
ギルバートは使い古した銀縁の丸眼鏡を中指で押し上げ、冷徹な目で数字の羅列を追いかける。
彼の頭の中では、オーリ領の莫大な資金をいかに効率よく分配し、敵の心臓部を合法的に抉り取るかという計算が凄まじい速度で行われていた。
「ギルバート様、ダート子爵領の主要な流通網に関する権利書の譲渡手続きが完了いたしました」
「カルロ男爵領の鉱山採掘権についても、間もなく当家の名義へと書き換えが完了する見込みです」
部下の報告を受け、ギルバートの薄い唇に微かな笑みが浮かんだ。
かつて商会のしがない帳簿係だった彼は、貴族の理不尽な圧力によってすべてを奪われた過去を持つ。
だからこそ、傲慢な領主たちが築き上げた富を合法的に搾取し尽くすこの瞬間に、底知れない暗い悦びを感じていた。
「素晴らしい。残るバルバロ男爵領の農地と水源の権利も、市場の底値で全て買い叩け」
「我々はあくまで『破産した領主の負債を肩代わりしてやる善意の隣人』なのだから、手続きに法的な瑕疵を残してはならないぞ」
「はっ、直ちに手配いたします」
部下が慌ただしく駆け出していくのを見送り、ギルバートは口元を歪めて深く息を吐き出した。
ルシアンが仕掛けた物流の封鎖と法務省への告発は、貴族派という巨大な獣を内側から食い破った。
彼らが遺した莫大な利権は、今やオーリ子爵家という底なしの胃袋へと次々に呑み込まれていく。
ギルバートは綺麗に整理された譲渡証明書の束を抱え、早足で本館の執務室へと向かった。
分厚いオーク材の扉をノックして部屋に入ると、そこにはいつもと変わらぬ静謐な空間が広がっている。
ルシアン・フォン・オーリは革張りの椅子に深く腰掛け、優雅にティーカップを傾けていた。
「ルシアン様、ご指示いただいた貴族派中堅の領地および利権の買い取り、すべて完了いたしました」
「当家の資産は、昨日の時点でさらに数倍に膨れ上がっております」
ギルバートが書類の束をマホガニーの机に恭しく置くと、ルシアンは細められた瞳を向けた。
その瞳の奥には、圧倒的な勝利を手にした者特有の、冷酷で底知れない歓喜の光が宿っている。
部屋の隅では、セレナが音もなく次の紅茶の準備を進めていた。
「ご苦労だったね、ギルバート。君の財務処理の速さは、我がオーリ領にとって何よりも頼もしい武器だよ」
「もったいないお言葉です。しかし、よろしかったのですか? これほど露骨に買い占めを行えば、王都の権力者たちの警戒を招くことになりますが」
ギルバートの懸念はもっともであり、これほど巨大な富の移動は必ず他派閥の目を引く。
しかしルシアンは全く意に介する様子もなく机の上の書類を軽く叩き、喉の奥で低く笑う。
「構わないさ。我々は一切の武力を使わず、法と経済のルールに則って正当な取引を行ったに過ぎないのだからね」
「これに異を唱えるということは、アスティア王国の法体系そのものを否定することに他ならない。あの誇り高き大貴族たちが、自ら定めたルールを曲げてまで我々に手出しできるはずがない」
ルシアンの言葉は、自らの法務知識に裏付けられた絶対の自信に満ちていた。
敵の軍事力を物理的に叩き潰すのではなく、資金源という血液を止めて干上がらせる。
そして残された死骸から、合法的かつ優雅にすべての養分を吸い尽くす。
「セレナ、君の暗部の働きも見事だった。あの知らせがなければ、これほど迅速に盤面を支配することはできなかっただろう」
「旦那様の手足として動くことは、私の使命にございます。次なる布石についても、すでに草の者たちを王都へ潜伏させております」
セレナは感情の読めない瞳をわずかに伏せ、新たな紅茶を淹れる。
立ち上るベルガモットの香りが、執務室の重厚な空気を優しく包み込んでいった。
ルシアンは新しく注がれた紅茶の香りを楽しみながら、再び視線をマホガニーの机へと落とす。
「王族派の老害どもが我々の存在に気づく頃には、盤面はすでに次の段階へと移行している。彼らが慌てて駒を動かしたところで、そこはすでに私が作り上げた新たな罠の上というわけさ」
ルシアンは空になったティーカップをソーサーに戻し、窓の外へと視線を向けた。
外には、豊かなオーリ領の街並みが穏やかな日差しに照らされている。
だがその平和な景色の裏側で、彼の手によって王国の巨大な権力構造は確実に崩壊への道を歩み始めていた。
「さあ、極上の紅茶と甘い焼き菓子で、この見事な勝利を静かに祝おうか。飢えた獣たちは互いを食い殺し、私たちのための素晴らしい養分となってくれたのだからね」
静まり返った執務室に、ルシアンの甘く冷酷な声が溶けていく。
盤上の敵を完膚なきまでに蹂躙した若き悪徳子爵は、たった一滴の返り血を浴びることなく、ただ優雅に次の策を練り始めていた。
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