第9話「法務省の午睡」
王都の中心部、貴族たちの豪奢な館が立ち並ぶ華やかな区画から少し離れた場所に、アスティア大法院はそびえ立っている。
無駄な装飾を削ぎ落とした白亜の大理石で建造されたその威容は、四百年にわたって王国の秩序を守り続けてきた絶対的な権威の象徴だ。
その深奥に位置する法務省の執務室は、外の喧騒を完全に遮断した、冷たく無機質な空間。
壁に掛けられた黄金の天秤の紋章の下で、一人の司法審判官が淡々と執務机に向かっている。
純白の法衣に身を包んだ彼の表情には、喜怒哀楽といった人間らしい感情が浮かんでいない。
ただ規則正しい羽ペンの擦過音だけが、冷たい石の壁に反響して時を刻んでいた。
彼の机の中央に置かれていたのは、数日前に「匿名の善意の王国臣民」から届けられたという、分厚い告発状。
そこには、バルバロ男爵が領民に対して行っている過酷な徴税と、強制労働による不当な拘束の事実が、法的ロジックとともに綴られていた。
審判官はその書類の体裁の美しさと、引用されている判例の正確さに密かな感心は抱いていたものの、すぐに自ら動こうとはしなかった。
「……戦時法を拡大解釈した不当な徴税と、領民の強制的な拘束、か」
審判官は無感動な声で呟き、証拠として添付されていた裏帳簿の写しを無造作に弾いた。
確かに王国法には違反しているが、この程度の横暴は地方の領主にはよくあることだ。
領民がどれほど悲鳴を上げようとも、国家の屋台骨を揺るがすほどの重大な反逆ではない。
「事実確認の調査官を派遣し、適当な罰金を科せば済む話だ。貴族のつまらぬ小競り合いに、神聖なる法の番人が直接介入するほどの価値はない」
審判官が告発状を「通常処理」の木箱へ移そうとした、まさにその時だった。
分厚いオーク材の扉が乱暴に叩かれ、息を切らせた法務省の調査官が部屋へと転がり込んできた。
神聖な執務室の静寂を破るという重罪を犯してでも、すぐに伝えねばならない異常事態。
「し、審判官閣下!たった今、王都の郊外で不審な飛脚を拘束いたしました!」
「騒々しいぞ。法を司る者が、そのように取り乱してどうする」
「も、申し訳ありません!ですが、飛脚が持っていた荷物の中から、信じがたいものが……!」
調査官は震える両手で、厳重に封をされた黒い革張りの筒を審判官の机に差し出した。
審判官は不快そうに眉をひそめながらその封を切り、中から一枚の羊皮紙を引き出す。
それは、ルシアンの命を受けた暗部が、わざと法務省の手に渡るよう絶妙なタイミングで「拘束させた」破滅への招待状だった。
羊皮紙を一瞥した瞬間、審判官の氷のような眼差しに、微かな亀裂が走った。
文書には、バルバロ男爵の署名と、本人であることを証明する血判がはっきりと残されている。
そしてその取引相手として記されていたのは、アスティア王国が厳しく取り締まっているはずの、非合法な地下武装組織の紋章だった。
「……これは、正規の流通ルートを通さない武具の密輸契約書。そして担保にされた、廃鉱山の権利書だと?」
審判官の声から、先ほどの事務的な響きが消え失せていた。
王国において、王家や法務省の承認を経ない非合法な武器密輸や裏傭兵の雇用は、単なる治安維持の範疇を大きく逸脱している。
それは国家の武力統制に対する明確な反逆であり、建国の法である『創世王典』を真正面から汚す大罪であった。
「バルバロ男爵……たかが一介の領主が、自らの保身のために非合法な武力を領内に引き入れたというのか」
書類を握りしめる審判官の指先が、怒りで白く変色する。
彼の瞳の奥に、事務官としての冷静さではなく、法という名の神を狂信的に崇める聖職者特有の、暗く熱い炎が燃え上がった。
数日前に届いていた「善意の王国臣民からの告発状」と、この「密輸の決定的な証拠」が、審判官の頭の中で一つの線として繋がる。
「領民を不当に拘束し、その血肉を啜って得た資産で、我がアスティアの法を脅かす武力を引き入れる……。もはやこれは、単なる貴族の腐敗ではない」
審判官はゆっくりと立ち上がった。
純白の法衣が翻り、彼から発せられる圧倒的な威圧感が、執務室の空気を重く押し潰す。
調査官は床に這いつくばるようにして、その神聖な怒りに震え上がっていた。
「閣下、いかがなされますか……!」
「決まっている」
審判官は壁に掛けられていた黄金の天秤の杖を手に取り、狂気にも似た冷徹な光を瞳に宿した。
王の軍隊すらをも凌駕する、法務省直属の武力組織。
法を破った者には、どれほど強大な貴族であろうと容赦なく牙を剥く、法の番犬たちを解き放つ時が来た。
「直ちに、独立司法軍の全中隊に出動命令を下せ」
審判官の低く重い声が、冷たい大理石の壁に反響する。
「創世王典を穢す輩は、一人たりとも生かしてはおけん」
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