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悪徳子爵は裁かれない  作者: 空っぽの零時
第2章:飢えた獣の檻
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第7話「商会の包囲網」

 バルバロ男爵邸の分厚い石壁すら、外から響く怒号を完全に遮ることはできなかった。

松明の炎が夜の闇を赤く染め上げ、領民たちの憎悪に満ちた声が波のように屋敷へと押し寄せている。

領主の執務室で、太った体を激しく揺らしながら、バルバロ男爵は苛立ちのままに最高級のワイングラスを石造りの壁に叩きつけた。


「ええい、五月蝿い奴らだ!少しばかり腹が減ったからといって、領主であるこの私に逆らうなどと、許されるはずがないだろうが!」


 報告に上がった私兵団の隊長は、血走った目で主君の醜態を冷ややかに見下ろしていた。

男爵領への物流網がストップしてから、すでに二週間という途方もない時間が経過している。

隣接するオーリ領の不当な検問のせいだと幾度も抗議の使者を出したが、全て書類の些細な不備を理由に鼻で笑われ、追い返されていた。


 頼みの綱であった食糧庫はとっくに底を突き、活気があったはずの市場からは麦の一粒すら姿を消している。

それにも関わらず、戦時法を盾にした過酷な陣地構築の強制労働だけは、容赦なく続けられていた。

限界を超えた領民たちの不満は、もはや誰にも抑えきれない爆発の時を迎えようとしていた。


「ならば、今すぐ兵を出せ!街区を封鎖し、反逆する豚どもを片っ端から縛り上げて見せしめにしろ!」


 男爵が顔を真っ赤にして唾を飛ばすが、隊長は動こうとしなかった。

その無礼極まりない態度に、男爵のこめかみに青筋が浮かび上がる。


「聞こえなかったのか!さっさと行け、この給料泥棒め!」


「……給料、だと?」


 隊長のひび割れた低い声に、男爵は一瞬だけ息を呑み、言葉を詰まらせた。


「給料など、ここ三ヶ月一度たりとも支払われていないではないですか」

「我々の部下だって、ろくに飯も食えずに腹を空かせて、鎧の重さに耐えるのすら限界を迎えているんです。たかが防衛陣地の構築ごときで、俺たちに暴徒と殺し合いをしろと言うのか」


 男爵は貴族派の強固な金脈から裏金を得ていたが、要であったヴァルデマール伯爵の没落により、その供給は一切絶たれていた。

特例法を悪用してかき集めた防衛税も、大半は自らの保身と見栄のための豪奢な生活費として、とうの昔に消え失せている。

金で雇われた私兵団の士気は、すでに瓦解寸前を通り越して、憎悪すら生み出していた。


「た、たかが平民上がりの傭兵風情が、この私に口答えをする気か!」


「我々も、犬のようにただ死を待つほど馬鹿ではありません」

「このまま武器を持った暴徒と殺し合いになれば、数の暴力で犬死にするのは我々なのです。せいぜい、ご自分の身はご自分で守ることですね」


 隊長は腰の剣の柄から手を離すと踵を返し、男爵のヒステリックな制止の声を無視して、執務室から出て行ってしまった。

分厚いオーク材の扉が重い音を立てて閉まる。

それが、男爵の絶対的な権力の終わりを告げる宣告のように響き渡った。


「……くそっ!役立たずの貧乏人どもめ、誰の金で飯を食ってきたと思っているんだ!」


 男爵は頭を抱え、豪華なマホガニーの机に突っ伏して震えた。

このままでは、暴徒に屋敷の門を破られ、広場へと引きずり出されるのは時間の問題だ。

王都からの援軍など期待できないし、そもそも特例法を振りかざして自立を気取っていた手前、今更泣きついて助けを求めることなどできるはずがない。


 金もない、兵も動かない、食糧もない。

詰んだ盤面の中で、男爵のなけなしの理性が、死の恐怖という名の猛毒によって急速に溶け出していく。


「誰か……誰かいないか!私を、アスティアの誇り高き貴族を救える者はいないのか!」


 虚ろな目で中空を睨む男爵の耳に、コンコンという控えめなノックの音が届いた。

震える声で入室を許可すると、年老いた執事が青ざめた顔で姿を見せた。


「閣下、奇妙な商人が面会を求めております」


「商人だと!このような時に、何をふざけたことを言っている!」


 男爵が怒鳴りつけようとした瞬間、執事の背後から音もなく一人の男が滑り込んできた。

深いフードを目深に被り、口元には胡散臭い笑みを浮かべた、影のように痩せ細った男だ。


「お初にお目にかかります、バルバロ男爵閣下。無礼を承知で、直接ご提案に上がりました」


 男爵は反射的に護身用の短剣に手を伸ばしたが、男の静かで力強い言葉にその動きをピタリと止めた。


「私は、別領地を渡り歩く裏の流通を担う者です。酷くお困りのようですので、『特別な品』をお譲りしようかと」


「……特別な品、だと?」


 フードの男は、芝居がかった手つきで懐から一つの黒い革包みを取り出した。

それを机の上に置き、結び目を解いてゆっくりと布を開く。

現れたのは、正規の流通ルートでは絶対に手に入らない、他領の非合法な工房で打たれた最新鋭の鉄製短剣だった。


「反逆する領民の暴動を鎮めるための、確かな力。そして、命令を聞かぬ役立たずの兵に代わって閣下をお守りする、屈強な『裏の傭兵』たち……ご用意できますよ」


 商人の男の言葉は、泥沼で溺れかける男爵の前に垂らされた、蜘蛛の糸のように甘く魅惑的だった。

王国の法において、正規の手続きを経ない他領からの武器密輸や非正規兵の雇用は、重篤な違法行為とみなされる。

しかし、極限の恐怖で正常な判断力を失った男爵には、その理と命を天秤にかける余裕など、最初から残されていなかった。


「……代金は、どうする。金はもうないぞ」


男爵が掠れた声で問うと、商人の男はフードの奥でニタリと笑みを浮かべた。


「ご心配なく。閣下の領地にある『あの廃鉱山』の権利書を、担保としてお預かりできれば十分です」


 それは、悪魔との契約そのものだった。

だが、暴徒の足音と怒声がすぐそこまで迫っているという強迫観念が、男爵の背中を致命的な一歩へと突き飛ばした。


「……手配しろ。今すぐ、我を守るための最強の武器と兵をありったけ集めるのだ!」


 男爵が狂気の手を血塗られた契約へと伸ばした瞬間、フードの奥で商人の目が鋭く光った。


「かしこまりました。ただちに手配をいたしましょう」


 商人が深く頭を下げる裏で、見えない絞首刑の縄は、男爵の太い首へと掛けられた。



ここまでお読み頂きありがとうございます!

毎日朝6時20分に更新です!


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