第5話「善意の王国臣民」
薄暗いバルバロ男爵の執務室とは対照的に、オーリ領の執務室は柔らかな午後の陽光に包まれていた。
微かに漂うベルガモットの香りが、部屋の主の優雅な趣味を物語っている。
ルシアン・フォン・オーリは、分厚い書類の束をゆっくりと撫でた。
それは、先ほど暗部のクロエから届けられたばかりの、バルバロ男爵の罪を証明する決定的な裏帳簿と命令書だ。
「……ふむ。見事なまでの悪手だな」
ルシアンの薄い唇から、微かな冷笑が漏れた。
机の向かい側には、専属法務補佐官のエマが、両手で抱えるようにして分厚い法典を抱き締めている。
彼女の顔は蒼白だったが、その瞳の奥には、抑えきれない暗い歓喜の炎がチロチロと燃え上がっていた。
「男爵の命令書は、戦時法第三十八条の『防衛陣地構築に関する特例』を根拠としています……が、これは明確な違法行為です」
エマの声は細く震えていたが、法に関する指摘だけは、恐ろしいほどの正確さと熱を帯びていた。
「特例の適用には、隣接領地からの明確な武力侵攻の兆候、あるいは軍務省からの事前通達が必須です。オーリ領からそのような動きはなく、当然ながら通達も存在しません」
彼女は息を呑み、さらに言葉を続ける。
「つまり、男爵が行っているのは、法的根拠のない私的な『違法奴隷化』と『不当徴税』に過ぎません……。これは明確な、王国法違反です……!」
エマの言葉を聞き終えると、ルシアンは満足げに目を細めた。
かつてエマの父親を無実の罪で獄中死に追いやった貴族派。
その残党の一人が、自らの焦りから自滅の道を選んだ。
「素晴らしいよ、エマ。君の精査があれば、この証拠は法務省の審判官たちを動かすための、最高の凶器となる」
ルシアンの言葉に、エマは弾かれたように顔を上げ、頬を紅潮させた。
「は、はいっ……! ですが閣下、この証拠は『草』のクロエが非合法な手段で盗み出したものです。このままでは、証拠能力に疑義が生じるのでは……」
エマの懸念はもっともだった。
どれほど決定的な証拠であっても、不法侵入や窃盗によって得られたものは、法廷においてその効力を失う可能性がある。
しかし、ルシアンは焦ることもなく、優雅な手つきで羽ペンを手に取った。
「そのための『魔法』さ。エマ、書類の体裁を整える準備をしてくれ」
ルシアンは新しい羊皮紙を引き寄せ、滑らかな筆致で文章を綴り始めた。
「告発状の差出人は、私ではない。……名もなき『匿名の善意の王国臣民』だ」
ルシアンの言葉に、エマはハッと息を呑んだ。
「善意の王国臣民……ですか?」
「ああ。日々の過酷な労働と不当な税の搾取に耐えかねた、哀れで純朴な領民の一人。その者が、勇気を振り絞って法務省に駆け込んだ……という筋書きだよ」
ルシアンは冷酷な笑みを浮かべ、羽ペンを走らせる。
「法務省の審判官たちは、法を愛するがゆえに、弱者の悲痛な叫びを無下にはできない。彼らは『善意の通報』という体裁さえ整っていれば、証拠の出所を深くは追求しない」
それが、ルシアンが構築した最強にして最悪の合法システムであった。
暗部がどれほど手を汚そうとも、それが一度「善意の王国臣民からの告発状」というフィルターを通せば違法性が漂白され、純然たる「正義の鉄槌」へと姿を変える。
「……これで、男爵は法的にも逃げ場を失いますね」
エマはゾクゾクとするような快感に身を震わせ、書類を抱きしめる力を強めた。
「さあ、正義の執行を法務省に手伝ってもらおうか」
ルシアンは書き終えた告発状を丁寧に折りたたみ、特別な封蝋で厳重に封印した。
音もなく、執務室の影から一人のメイドが姿を現した。
セレナは、足音一つ立てずにルシアンの傍らへと進み出る。
「旦那様、ザックへの手配はすでに整っております」
彼女は感情を排した冷徹な声で告げた。
「頼むよ、セレナ。これを王都の法務省へ。……それと、商会部への指示も忘れないように」
「かしこまりました。バルバロ男爵領への『食糧の流通遅延』、速やかに実行いたします」
セレナは深く一礼し、封書を受け取ると再び影の中へと消えていった。
ここまでおお読み頂き、ありがとうございます!
今後ともご支援よろしくおねがいします(●'◡'●)
※次回、明日朝6時20分更新です




