第4話「給仕の視線」
バルバロ男爵邸の廊下を、粗末な木綿のドレスを着た給仕の少女が小走りで進んでいく。
手にした銀の盆には、男爵の夜食である分厚いローストビーフと安酒が乗せられていた。
「急ぎなさい、こののろま」
恰幅の良いメイド長の怒声が背中に浴びせられ、少女は怯えた声で深く頭を下げる。
彼女の名前はクロエ。
どこにでもいるような、少し要領の悪い健気な平民の娘という役を、彼女は完璧に演じきっていた。
だが、床に伏せられた前髪の奥の瞳には感情が宿っていない。
盆を運ぶ足取りはただの給仕にしてはあまりにも無音であり、重心のブレすら皆無だった。
廊下の窓越しに、領都の広場で夜通し続く強制労働の松明の明かりが揺れているのが見える。
ムチを打たれる音と平民たちの絶望的なうめき声が、夜風に乗って屋敷の中まで届いていた。
防衛陣地構築という名目でタダ働きさせられる領民たちは、泥にまみれて文字通り使い潰される。
だが、クロエの心に同情の念は欠片も湧かなかった。
彼女にとって世界は、自分を地獄から救い出してくれたただ一人の主人、ルシアンの意志のみで構成されている。
他の誰がどれほど不幸になろうとも、そんなことは路傍の石ころほどの興味も湧かない些事であった。
クロエは男爵の執務室の前に辿り着き、深呼吸をしてから控えめに扉をノックした。
「夜食をお持ちいたしました、旦那様」
中から苛立たしげな声で入室を許可され、彼女はおどおどとした手つきで重い扉を開ける。
部屋の中は酒と汗の悪臭が立ち込め、バルバロ男爵が血走った目で古い羊皮紙を睨みつけていた。
「そこに置いてさっさと出て行け」
クロエは盆をサイドテーブルに逃げるように置きながら、男爵の机の上の配置を瞬時に記憶した。
右端に積まれた書類の束。
一番上に置かれているのは、王国法務省の印が押された古い法典の写しだ。
そしてその下にある黒い革張りのファイルこそが、彼女が狙う本命の標的だった。
クロエは何度も頭を下げながら退室し、背後で重厚な扉が閉まる音を確認する。
その瞬間、怯えた小動物のような少女の気配は消え去り、冷酷な工作員のそれに切り替わった。
深夜。
屋敷の全ての灯りが消え、見張りの兵士たちも安酒を煽って居眠りを始めた頃。
クロエは音もなく自室の窓を抜け出し、屋根伝いに執務室の窓へと忍び寄る。
薄い金属の板を隙間に差し込み、手首を軽く捻るだけで単純な鍵は呆気なく開け放たれた。
月明かりだけが差し込む執務室の床に、彼女は黒い影のように滑り込む。
寝室から聞こえる男爵のいびきを聞き流しながら、一直線に執務机へと向かう。
記憶の通りの場所に置かれていた黒い革張りのファイルを躊躇なく開いた。
そこにあったのは、戦時法発動を悪用して平民から絞り上げた防衛税の裏帳簿と、強制労働の指示書だった。
正規の手続きをいくつも飛ばし、ただ自分の懐を潤すためだけに書かれた非道の証拠。
クロエは懐から、全く同じ装丁の黒い革張りのファイルを取り出した。
中身は巧妙に偽造されたダミーの書類であり、一見しただけでは本物と見分けがつかない。
本物の証拠を油紙に包んで自らの衣服の下に隠し、ダミーのファイルを元の位置に寸分違わず配置する。
滞在時間はわずか一分にも満たない。
部屋の空気を乱すことすらなく、クロエは再び窓から夜の闇の中へと溶け込んだ。
屋敷の裏手にある高い煙突の陰に身を潜めると、彼女は油紙で包んだ証拠の束を小さな革袋に詰め替える。
鳩には重すぎるその荷物をどうやって運ぶのか。
クロエが夜の闇に向かって短く二回、舌打ちのような音を鳴らした。
すると何もない空間から突如として、行商部のザックが音もなく姿を現した。
「見事な手際だねえ、お嬢ちゃん」
「無駄口はいいから、これを早くオーリ領へ」
クロエは冷たい声でザックに革袋を放り投げる。
ザックはそれを受け取ると、ニヤリと笑って闇に紛れるような黒い外套を翻した。
「これで、あの豚男爵は首とオサラバだな」
「ええ」
クロエは煙突に背中を預け、眼下に広がる男爵邸を冷ややかに見下ろした。
その瞳の奥には、これから始まる蹂躙への静かな熱狂が宿っている。
彼女の小さな唇が、夜風に紛れるような微かな声で紡がれた。
「旦那様の裁きの時間です」
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※次回、明日朝6時20分更新です




