第13話「埃を被った剣」
ベルガモットの芳醇な香りが、静寂に包まれた執務室の空気をゆっくりと塗り替えていく。
アンティークの銀のトレイから、透き通るような白磁のティーカップが、音を立てずにソーサーの上へと下ろされた。
ルシアン・フォン・オーリは、山のように積まれた報告書の束から視線を上げ、指先でカップの縁に触れる。
熱い紅茶が喉の奥へと滑り落ちる感覚に、彼は小さく、ひどく心地よい息を吐き出した。
ヴァルデマール伯爵が王都の法廷で断罪され、その地位を追われてから、すでに数日の時が流れていた。
王国の勢力図は、たった一人の若き子爵の暗躍によって、歴史の裏側で静かに、だが決定的に書き換えられている。
伯爵が特例法を悪用して溜め込んでいた莫大な資産の四割と、広大な領地の半分。
それらはすべて、合法的な手続きと正当な権利の行使によって、オーリ子爵家の所有物となっていた。
財務を担当する執事のギルバートは、連日連夜、増えすぎた財源と新たな領地の帳簿処理に追われている。
彼は山積みになった財産目録の束を抱えながら、血走った目で執務室と地下金庫を往復し、狂気的なまでの歓喜の笑いを漏らして仕事に没頭していた。
彼から報告される数字は、たった数日でオーリ領の財政を数十年分も跳ね上げるほどの、常軌を逸した額。
だが、全ての絵図を描き、この莫大な利益を強奪した張本人であるルシアンの態度は、以前と何一つ変わっていなかった。
彼はただ、いつものように革張りの椅子に深く体を沈め、専属メイドが淹れた極上の紅茶を堪能している。
「本日の茶葉は、新しく当家の領地に組み込んだ南部の特産品を取り寄せてみました」
セレナが感情の読めない瞳を伏せ、恭しく一礼する。
「素晴らしい香りだ」
ルシアンは細められた瞳で、カップの水面に揺れる琥珀色を見つめた。
「君の淹れる紅茶さえあれば、私はこの退屈な世界でも十分に生きていける気がするよ」
「もったいないお言葉です」
セレナの表情はピクリとも動かないが、主君への絶対的な忠誠と、阿吽の呼吸とでも呼ぶべき完璧な空気が二人の間には流れていた。
彼女の白い指先が、空になったティーカップを滑らかな所作でトレイへと引き下げる。
その細い指には、いかなる装飾品も嵌められていない。
ルシアンの瞳の奥で、いつかその指に最高級の宝石をはめる日のための、暗く熱い執着が渦を巻いた。
セレナはトレイを小脇に抱え、静かな、しかし確かな冷たさを帯びた声で問いかける。
「次のお茶会の準備を、始めますか?」
それは、次の標的を狩るための作戦を開始するかという、暗部統括としての確認だった。
ルシアンの薄い唇が、三日月のように美しく、そして残酷な形に吊り上がる。
「ああ。飢えた獣たちの檻を、そろそろ開けようか」
彼の視線は窓の向こう、分厚い雲に覆われた、遠く離れた王都の方角へと向けられていた。
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その頃、王都の中心部に位置する、貴族派の重鎮たちが集う豪奢な秘密サロン。
普段は優雅な弦楽器の生演奏と、高価なヴィンテージワインの芳醇な香りに満ちているはずのその空間は、耳を塞ぎたくなるような怒号と悲鳴に支配されていた。
「 ヴァルデマール伯爵が国家反逆罪に問われただと!それは確かか!」
最高級のクリスタルグラスが壁に叩きつけられ、赤いワインが血痕のように分厚い絨毯を汚していく。
「我々の資金源はどうなる! 来月の私兵団の維持費すら払えないぞ!」
「中立派の連中は狂っているのか! あんな四百年前の法を引っ張り出してくるなど!」
ふくよかな体躯を最高級の絹で包んだ大貴族たちが、顔を真っ青にして口々に叫び合っている。
太い指に嵌められた宝石の指輪が、主の震えによってカチャカチャと情けない音を立てていた。
彼らにとってヴァルデマール伯爵は、単なる一人の領主ではない。
貴族派全体の資金ロンダリングを担い、莫大な裏金を生み出し続ける絶対的な「金庫番」だ。
その無尽蔵の資金源が、ある日突然、法という刃によって絶たれた。
自慢の私兵団を養うための金が底を突けば、彼らは武力を失い、領民から搾取してきた恨みの矛先を直接向けられることになる。
それは彼らにとって、喉元を締め上げられ、首に縄をかけられたに等しい死活問題だ。
「誰だ! 誰がこんなふざけた真似を仕組んだ!」
「オーリ子爵だ! あの田舎の青二才が、法務省に告発状を叩きつけたのだ!」
「あの小僧……! 絶対に許さん! 貴族派の総力を挙げて、必ずあの領地ごとすり潰してやる!」
焦りと恐怖に駆られた貴族たちは、もはや理性を失った獣のように、口から泡を飛ばして吠え猛っていた。
だが、彼らはまだ気づいていない。
自分たちの手足となって動くはずの私兵団の維持費がない今、彼らはただの牙をもがれた老犬に過ぎないということに。
そして、パニックに陥り、互いの残り少ないパイを奪い合うために醜い内輪揉めを始めることすらも、全てはあの冷徹な若き子爵の描いた盤面通りであるという事実に。
資金という名の餌を絶たれ、飢餓状態に陥った獣たちの檻。
その重たい鉄の扉の鍵は今、ルシアンの手によって確実に外された。
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