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あの日、校舎裏の東屋で世界の真実と原作者の黒歴史を明かし合って以来、ハリエットさんとの距離は驚くほど急速に縮まった。
前世の記憶を持つ者同士ということもあり、私たちはすっかり意気投合し、今では「ハリエットさん」、「アデライダ様」と呼び合う仲になっている。
私としては「私もアデライダさんで構いませんよ」と提案したのだが、ハリエットさんは「いえ、侯爵家と伯爵家の家格の差もございますし、何より原作者としてアデライダ様尊しの念が強すぎますので、様付けで呼ばせてください」と譲らなかった。
(……最後の一言はちょっとよく分からなかったけれど、まあハリエットさんがそうしたいならそれでいいかな)
「ヒロインが編入してくるまでは特に大きな波乱は起きないはず」というハリエットさんの言葉どおり、学園での日々は穏やかそのものだった。
私たちは今後の展開に最低限の心構えだけはしておきつつ、基本的には等身大の学園生活をのびのびと楽しむことにしたのだった。
◇
「——今日は随分と上機嫌だな」
王宮の対局室。
盤上に黒のビショップを進めながら、殿下がふと眉を上げて私を見た。
私は自分でも口元が緩んでいるのを自覚しながら、にこやかに微笑み返す。
「分かりますか、殿下? ふふ、実は最近、とても嬉しいことがあったのです」
「嬉しいこと?」
「はい! 学園で、人生で初めての友人が出来ました!」
満面の笑みでそう報告した、その瞬間。
殿下の手が、ピタリと止まった。
「……友人が、できた……?」
「ええ。フィッシャー伯爵令嬢のハリエットさんという方なのですが、とても優しくて、お話ししていて本当に楽しい方なのです」
私が嬉しそうに頷くと、殿下はそのまま無言でそっと駒から手を離した。
そして――片手で深々と顔を覆い、そのまま痛みに耐えるように天を仰いだ。
(あ、またやってる……)
この、片手で顔を覆って天を仰ぐポーズ。
私が何か上機嫌な報告をしたり、少し的外れなことを口にしたりすると、殿下は時折こういう謎の反応を見せるのである。
さらにチラリと脇へ視線を送ると、傍らに控えるコンラートさんが、まるで遠い宇宙の果てでも見つめているかのような、白目を剥きかけた絶妙な遠い目をしていた。
(この二人、急にどうしたんだろう……? まあ、いつもの謎の行動だからスルーしておこう)
二人の妙な沈黙をそっとスルーし、私はそのまま上機嫌に盤上へと意識を戻した。
「……そうか。友人か。それは……良かったな」
天を仰いだまま、絞り出すような低い声で呟く殿下。
どこか苦しそうな響きすら混ざっていたけれど、きっと私のぼっち脱出を殿下なりに祝福してくれているのだろう。
(……それにしても)
私は駒を動かしながら、目の前の美しい王太子殿下と、その傍らに控える優秀な側近さんをぼんやりと眺めた。
(ハリエットさんの話によれば、この二人はいずれ編入してくるヒロインに攻略される対象なんだよね……)
悪役令嬢ポジションである自分自身の危うさはいったん棚に上げ、私はどこか他人事のように、目の前の二人を少し気の毒に思ってしまった。
今のところ、殿下はチェスと公務とスイーツ以外にほとんど興味を示さない、超理系思考のツンデレ王子である。
そしてコンラートさんは、そんな殿下に振り回されがちな苦労人だ。
そんな二人が、見目麗しく魔力の強いヒロインを囲んで、あまつさえ逆ハーレムの一員としてデレデレと侍る姿など——
(うん、どうしても想像がつかないなぁ)
もしもヒロインがゲームどおりとても良い子で、無事に殿下と恋に落ちて、エルヴェルートに入ったとしたら——
(私の仮婚約も、契約期間である五年を待たずにお役御免になるのかな?)
もしそうなれば、私は晴れて自由の身だ。
侯爵邸でのんびりお菓子を焼きながら、好きな本を読んで過ごす、理想の引きこもり生活が待っている。
(それはそれで、かなり魅力的な展開かもしれない!)
胸の内でそんな呑気な将来設計を思い描きつつ、私は再び目の前のチェス盤に意識を戻しかけた。
だが、その時ふと、ハリエットさんから聞いたゲームの攻略対象——その中に含まれていた、ある人物のことが脳裏をよぎった。
(そういえば……、あの男のことは、今のうちに確認しておいた方がいいよね)
私に顔の傷を負わせた人物であり、今なお恐怖の象徴でもある存在。
正直、思い出すだけで背筋が寒くなるような相手の名を、自分から口にするのはためらわれた。
私はなるべく平静を装い、駒を進める手に紛らせるようにそっと問いかける。
「そういえば、殿下。前々から少し気になっていたのですが……殿下には、専属の護衛騎士のような方はいらっしゃらないのですか?」
名前は出さない。
ただの一般的な疑問を装って。
すると殿下は、いかにも興味なさそうに黒のナイトを動かしながら言った。
「専属などいない。必要な時は、その都度、近衛騎士団から適当な者が派遣されてくるだけだ」
「そうなのですね」
「ええ、そうなのです。アデライダ様」
横で聞いていたコンラートさんが、困ったような苦笑を浮かべて会話に加わった。
「本当は専属の護衛をお付けする話も、これまで何度となく上がっているのですが……なにせ殿下は、刺客や危険が迫れば護衛が動くより先に、ご自身で対処してしまわれるのです。こちらとしては肝が冷えるばかりですので、本当におやめいただきたいのですが」
「自分で動いた方が早いからな。ノロノロ守られている時間が惜しい」
殿下は、さも当然のことのように真顔で言い放った。
(……いやいやいや! 専門職の護衛騎士より素早く自分で対処できちゃうって、殿下ってば、どんだけハイスペックなんだ!?)
さすがは文武両道の完璧すぎる王太子様である。もはや護衛が必要なのかどうかすら怪しい。
そんなふうに心の中で激しく突っ込んでいた、その時だった。
「まあ、過去に一人だけ、専属護衛の候補として名前が挙がった奴はいたがな」
殿下がふと思い出したように口にしたその一言に、私の心臓が小さく跳ねた。
「公爵家子息の、アーヴィン・スタントンだ」
その名を直接耳にした瞬間、ぞわりと肌が粟立つような感覚が走った。
しかし、続く殿下の言葉は、そんな緊張をあっさり吹き飛ばしてしまった。
「剣の腕前だけは確かだったようだが……あいつはダメだ。極端に視野が狭く、どこか狂気的な正義感を抱えている。側に置けば、かえって危険だと判断して、俺が最初から蹴った」
「殿下のご判断は、まことに正当でしたね。案の定、彼はその後、騎士団内で揉め事を起こしましたし……」
コンラートさんが頷き、殿下はどこか呆れたように鼻を鳴らした。
「ああ。理由は知らんが、父上が刊行されたあの絵本の影響か、それとも自分で何かやらかしたのか……現在は期限未定の長期謹慎処分中らしい。ついでに、その妹の方も、すっかり家に引きこもっているそうだ」
「えっ……」
思わず、声が漏れた。
(絵本の効果が……あの妹君にまで!? とんでもなく効果絶大……!)
あの時、私の姿を見て、一方的に「悪い魔女だ! 食べられてしまう! 呪われる!」と泣き叫んでいた、公爵家の令嬢。
そもそも、彼女があれほど激しく取り乱さなければ、あの事件が起こることもなかったのだ。
そのアーヴィンと同じ赤銅色の髪に、琥珀の瞳を持つ彼女までもが、国王陛下のお作りになった絵本によって己の愚かさを突きつけられ、引きこもるに至ったという。
(やっぱり……やっぱり陛下は神様だ……!)
胸の奥から、深く温かな感謝の思いがこみ上げてくる。
陛下が授けてくださった大きな救いは、巡り巡って私の周囲から脅威を遠ざけてくれていたのだ。
そして何より——
(アーヴィンは……もう、私の前に現れることはないんだ)
本来のゲームシナリオであれば攻略対象として表舞台に立つはずだった男は、殿下の鋭い眼と陛下の御威光によって、すでにそこから完全に退場していた。
もう、あの恐ろしい刃が私に向けられることはない。
あの、気味の悪い熱を宿した瞳に脅かされることも、もうないのだ。
(良かった……本当に、良かった……!)
ふと、長年胸の奥に重く絡みついていた見えない鎖が、ガラガラと音を立ててほどけ落ちていくような気がした。
体の芯から、圧倒的な解放感と安堵がじわりと湧き上がってくる。
思わず深く息を吐くと、視界まで明るくなったように思えた。
「……アデライダ? どうした、急にぼーっとして」
私の様子の変化に気づいたのか、殿下が不思議そうに紫水晶の瞳を向けてくる。
「あ……いえ! 何でもございません、殿下」
私は胸の前でそっと手を重ね、晴れやかな笑みを向けた。
「ただ……とても安心いたしました。殿下がご慧眼の持ち主でいらっしゃることが、本当にありがたくて……胸が軽くなったのです」
「はあ? 何を急にわけのわからんことを言い出すんだ、お前は……」
不意打ちの言葉に毒気を抜かれたのか、殿下はぶつぶつと文句を言いながら、耳まで赤くしてプイと顔を背けてしまった。
その横で、コンラートさんが「やれやれ」とでも言いたげな、微笑ましいものを見る目を向けている。
私は頬の傷をそっと撫でながら、心の中で、これまで私を守ってくれたすべての人々と、神様のような陛下に、深く深く感謝を捧げた。
◇
それからの日々は、驚くほど穏やかで、それでいてにぎやかに過ぎていった。
学園では、ハリエットさんと図書室で本を読んだり、中庭でお茶を飲みながら他愛もない雑談を交わしたりした。黒歴史設定の裏話を聞いては心の中でくすくす笑い、友人がいることの温かさをしみじみと噛み締めた。
そして放課後や休日になれば王宮へ赴き、殿下と真剣勝負のチェスに没頭した。
甘いものは頭脳の働きを整える潤滑油だと真顔で主張する殿下と一緒に、今日もまた絶品のスイーツを味わうのだった。
(……うん、本当に幸せな日々だなあ)
そんな満ち足りた日常を重ねていくうちに、季節は巡った。
瞬く間に過ぎていった二年の歳月は、気づかぬうちに私たちを少しずつ成長させていた。
そうして私は十五歳になった。
王立学園では三年生へと進級し、二つ年上の殿下はいよいよ最高学年である五年生になられた。
「アデライダ様、おはようございます」
校門の近くで待っていてくれたハリエットさんが、晴れやかな笑顔で手を振りながら駆け寄ってくる。
栗色の髪を揺らす彼女の隣に並び、私は「おはようございます、ハリエットさん」と微笑んだ。
「いよいよ三年生ですわね。あっという間の二年間でしたわ」
「本当にそうですね。……でも、ハリエットさん」
私は胸の奥に小さな高鳴りを覚えながら、静かに言葉を継いだ。
「ついに……ですね」
「……ええ」
ハリエットさんも表情を引き締め、小さく頷く。
今日から始まる新しい年度。
それは、ハリエットさんが原作者として知る、あの乙女ゲームの物語がいよいよ動き出す、節目の春でもあった。
今日、この学園にひとりの少女が編入してくる。
見目麗しく、類まれなる魔力を持つ少女——ヒロイン。
物語の引き金となる存在が、ついにこの舞台へ足を踏み入れるのだ。
(さて……これから一体、どんな日々が始まるんだろう?)
だが、不思議と私の心に恐れや不安はなかった。
隣には信頼できる友人がいて、王宮には相変わらずチェスに熱中するツンデレな王太子殿下がいる。
そして今の私は、ちゃんと自分の足で立っていられる。
たとえどんな物語が始まろうとも、私は私らしく、この穏やかな日々を守っていこう。
春の光が降り注ぐ石畳を、私たちは一歩、踏み出した。




