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「せめて、ゲームの設定どおりに気立ての良い、素朴なヒロインであってほしい……」
「できれば前世の記憶など持っていない、純粋な現地の子であってほしいですわ……」
学園の回廊を歩きながら、私とハリエットさんは切実な祈りを捧げ合っていた。
だが——
そんな私たちのささやかな願いは、編入初日の朝、あまりにもあっさりと粉々に打ち砕かれることになる。
「ちょっとアンタたち! そこ退きなさいよ! あたしが通るんだから!」
回廊に響き渡ったのは、甲高く、品の欠片もない声だった。
その主こそ、今日この学園に編入してきたヒロイン——男爵令嬢プリシラ・モーフィーである。
ふわふわとした鴇色の髪に、くりりと大きな珊瑚の瞳。
一見すれば小動物のように愛らしく、まさに乙女ゲームのヒロインそのものといった容姿をしている。
……が、問題はその顔つきと態度だった。
「なんなのよこの学校、階段多すぎ! 攻略対象の教室どこよ!? モブがウロウロして邪魔なんだけど!」
せっかくの美少女ぶりも、他人を見下した表情と横柄な物言いですっかり台無しである。
にじみ出る性格の悪さは、まるで隠せていなかった。
(うわぁ……。前世の記憶、バッチリあるどころか隠す気ゼロじゃん……!)
周囲を歩いていた生徒たちは、突然現れた傍若無人な男爵令嬢の振る舞いに「なんなんだあの子は」「男爵家の令嬢が何という言葉遣いだ」と早くも引いていた。
回廊には、初日からドン引きした空気が一気に広がっていく。
しかし、当の本人はそんな冷ややかな視線などどこ吹く風だった。
彼女にとって、この世界の人間はすべてゲームのモブに過ぎないのだろう。
周囲の目も憚らず、前世のゲーム知識を隠そうともしないまま、「我こそはヒロイン!」とでも言いたげに猪突猛進に振る舞っていた。
ゲームの設定では、彼女は類い稀な魔力過多のせいで病弱だった。
そのためこれまでは学園に通えず、三年生の春になってようやく不安定だった魔力が安定し、編入してくる——ということになっていたはずである。
しかしどう見ても、とてもついこの前まで病弱だった人間には見えなかった。
私の隣で、ハリエットさんが顔を青くしながら、ひそひそと耳打ちしてくる。
「あ、あれは……前世で重度のヘビープレイヤーだったタイプですわ……」
「ハリエットさん、分かるのですか?」
「はい……。自分の思いどおりにストーリーが動くのが当たり前だと思っていて、モブに気を遣う概念がないタイプです。原作者として頭が痛くなってまいりました……」
ハリエットさんはこめかみを押さえ、ついには胃まで痛めているようだった。
私たちは回廊の陰から、そっとその暴走ヒロインの動向をうかがう。
プリシラは手にした学園の案内図を乱暴に広げながら、ぶつぶつと文句をこぼしていた。
「ちっ、アーヴィンルートは存在すら消えてるし、コンラートは硬すぎてイベントが面倒なのよね……。やっぱりあたしの狙いは、顔良し、身分良し、ハイスペックな王太子エルヴェ様一本よ! エルヴェ様さえ落とせば、あたしの勝ち組人生は確定なんだから!」
その声からは、凄まじい執念と欲望が隠しようもなくにじみ出ていた。
(……あ、ターゲットは殿下一本絞りなんだ)
それを聞いて、私はほんの少しだけ胸を撫で下ろした。
(うーん……。全員を侍らせる逆ハーレム狙われるよりはマシだけど……)
けれど同時に、胸の底から強烈な同情が湧き上がってきた。
(ターゲットにされた殿下、かわいそう……!)
あの超理系思考で、社交辞令すら煩わしがり、チェスとスイーツをこよなく愛するツンデレ王太子殿下のもとへ、あんな周囲の見えていない強欲な猪突猛進ヒロインが突撃していくのだ。
(殿下、どうかご無事で……)
嵐の予感をひしひしと感じながら、私は心の中でそっと祈りを捧げた。
◇
プリシラが編入してきてから、数日が過ぎた。
だが彼女の目論見に反して、学園では何ひとつ乙女ゲームらしいイベントは起きていない。
それも当然だった。
攻略対象のひとりであるアーヴィンはすでに表舞台から退場しているし、放課後の殿下は多忙で、さっさと王宮へ戻って公務に追われるか、私と息抜きにチェスを指している。
そのうえ、悪役令嬢であるはずの私がヒロインをいじめるどころか、ハリエットさんと平和に過ごしているのだから、イベントなど起こりようがない。
(まあ、ゲームの前提がこれだけ崩れてれば当然だよね……)
そう思っていた矢先のことだった。
ある日の昼休み、私がハリエットさんとともに図書室で静かに本を読んでいると——勢いよく扉が開け放たれた。
「ちょっとアンタ! アデライダ・ルセナ!!」
甲高い怒声が図書室に響き渡り、静かに読書を楽しんでいた生徒たちが一斉に不快そうな顔で振り返る。
現れたのは、肩を怒らせ、顔を真っ赤にしたプリシラ・モーフィーだった。
彼女はドスドスと品のない足音を立てて私たちのテーブルまで突き進んでくると、勢い任せに机を叩いた。
「なんなのよこれ! どういうことなのアンタ!?」
「……プリシラ様。図書室では、どうかお静かに願えますでしょうか。他の方々のご迷惑になりますので」
私が本をそっと閉じ、落ち着いて注意を促すと、プリシラは「ハァ!?」と眉を吊り上げた。
「教師ぶらないでよ気持ち悪い! そんなことよりアンタ、なんでエルヴェ様と仮婚約なのよ!? 原作どおり正式に婚約しなさいよ!」
(……はい? なんで私が怒られているの?)
あまりにも理不尽すぎる言い分に、私とハリエットさんは思わず顔を見合わせた。
ハリエットさんに至っては「原作どおりって……」とでも言いたげに、今にも頭を抱えそうになっている。
プリシラは、周囲の生徒たちがドン引きしていることなど露ほども気にせず、ヒステリックにまくし立てた。
「あたしがせっかく、生徒会イベント狙いでわざわざ生徒会役員に立候補して入ったのに! なんでエルヴェ様が生徒会長じゃないのよ!? 今の生徒会長、全然知らない地味なモブじゃない!!」
(……あ!)
その言葉を聞いた瞬間、私はハッとした。
(そういえば、前に殿下が『なぜか生徒会からしつこく役員就任の打診が来てウザい』って零していたことがあったっけ。あれって、世界がゲームの筋書きに戻ろうとした、ゲームの強制力だったんだ!)
しかし、あの超理系思考で無駄が大嫌いな殿下は、「チェスと公務で忙しい」「そんな面倒なものに入る意味が分からない」と一蹴し、生徒会役員への打診などあっさり辞退していた。
(……殿下、ゲームのことなんて知るはずもないのに、自分でゲームのフラグをバキバキ折っていたんだなぁ)
無自覚のまま、ゲームの強制力すら力技で叩き潰していた殿下の危機管理センサーに、私は心の中で密かに拍手を送ってしまった。
ふと横を見ると、ハリエットさんも「え……そういえば確かに、殿下が生徒会長になっていない……」と目を見開いている。
どうやら彼女も今、プリシラの言葉で原作との大きな乖離に改めて気づいたらしい。
そんなこちらの気づきなど意にも介さず、プリシラはなおも鼻息荒くまくし立てる。
「生徒会に入れば、エルヴェ様と放課後ふたりきりの甘いイベントが発生するはずだったのに! なのにエルヴェ様ってば、なんでいつもさっさと王宮に帰っちゃうのよ! 意味分かんないんだけど!」
「それは……殿下はお忙しい方ですから……」
「アンタのせいでしょうが! なんで仮婚約なんて中途半端な立場に収まってんのよ! アンタがさっさとウザい悪役令嬢としてエルヴェに粘着してくれないと、あたしがエルヴェ様を慰めて好感度を上げるイベントが発生しないじゃないの!!」
理不尽、ここに極まれり。
要するに、自分の思いどおりに攻略が進まない鬱憤を、全部私にぶつけてきているのだ。
前世で重度のヘビープレイヤーだったようだと聞いてはいたが、世界がゲームの筋書きどおりに動かないからといって、現実の人間に食ってかかるとは……。
呆然とするハリエットさんを横目に、私は嵐のように怒り狂うプリシラを静かに見つめた。
「だから! アンタがちゃんと働かないから、あたしのシナリオが狂いまくってんのよ!」
プリシラは図書室の机をバンバンと叩き、肩で息をしながら私を睨みつけてくる。
周囲の引きつった視線も、図書室の静けさを乱していることも、彼女の頭にはまるで入っていないようだった。
隣のハリエットさんは、あまりの理不尽さに「なんですのこの身勝手な言い分は……!」と震えている。
だが、私は落ち着いていた。
彼女の放った支離滅裂な主張を、ひとつずつ丁寧に分解していく。
(……うん。言いたいことは分かったけど、ツッコミどころしかないよね)
私はそっと息を吐き、背筋を正して、穏やかに口を開いた。
「プリシラ様。まず第一に、殿下が生徒会長にお就きにならないことや、生徒会役員をお引き受けにならないことについて、私に詰め寄られましても困ります」
「はあ!? なんでよ!」
「殿下が生徒会にお入りにならないのは、殿下ご自身の意思であり、ご多忙ゆえのご判断でもあります。私に殿下の行動を縛る権限などございません。その件で私に苦言を呈されるのは、さすがに筋違いではありませんか?」
「くっ……! それは、そうだけど……!」
まずは一つ目。事実関係の整理である。
プリシラは苦虫を噛み潰したような顔で言葉を詰まらせた。
私は微笑みを崩さぬまま、本題となる二つ目の論点を静かに差し出す。
「それから、第二に……私と殿下が正式な婚約ではなく、仮婚約であることがお気に召さないようですが……それも少々、不思議に思います」
「何が不思議なのよ! 原作通りにしろって言ってるの!」
「ふふ。よくお考えになってみてください」
私は小さく首を傾げ、困惑する彼女を諭すように言葉を重ねた。
「もし私と殿下が正式な婚約者であったなら、王家の婚約を解消するのは至難の業です。国を揺るがすほどの重大な過失か、あるいは私を断罪できるだけの明確な口実でもなければ、そう簡単には覆りませんでしょう?」
「そりゃそうよ」
「ですが、現在の私たちはあくまで仮婚約——つまり、ただのお試し期間に過ぎません。期間が満了すれば、あるいは殿下が他の女性をお選びになれば、何事もなく穏やかに解消できる契約なのです」
私は一歩だけ身を乗り出し、プリシラの珊瑚の瞳をじっと見つめた。
「プリシラ様が本気で殿下との交際や、その……いわゆる攻略とやらを望んでおいでなら、障害の少ない仮婚約である今の状況の方が、あなたにとっては圧倒的に好都合なのではありませんか?」
「————あ」
図書室に、間の抜けた声がぽつんと響いた。
プリシラは目を丸くし、口を半開きにしたまま固まっている。
彼女の頭の中で、私が差し出した正論がぐるぐると回っているのが見えるようだった。
(よし、完璧に論破できた)
感情論で暴れる相手には、こちらまで感情的にならず、筋道立てて返すのがいちばんである。
横で見ていたハリエットさんも、私の切り返しに「あ、鮮やか……!」と目を見開いていた。
数秒の静寂ののち、プリシラは何かに気づいたようにハッとし、ポンと自分の手を叩く。
「……あ、あーっ! 本当だわ! アンタにしては、すっごく良いこと言うじゃないの!」
(「アンタにしては」は余計な一言だけど、納得してくれたなら何よりだよ)
さっきまでの激怒が嘘のように、プリシラは一転して勝ち誇ったようなニヤニヤ顔を浮かべた。
「そうよ! 仮婚約なら、あたしがエルヴェ様をちょっと誘惑して落とせば、すぐにアンタなんてお役御免じゃない! むしろ願ったり叶ったりだったわ!」
「ええ。ですから、先ほどからそう申し上げております」
「ふん、感謝しなさいよね! じゃああたし、さっそくエルヴェ様に運命の出会いをしに行ってくるわ! 今なら教室にいるはずだからね!」
「どうぞ、行ってらっしゃいませ」
「見てなさいよーっ!」
捨て台詞を残し、プリシラは再び風のように図書室を飛び出していった。
扉がバタンと派手な音を立てて閉まる。
その場にようやく静けさが戻り、私とハリエットさんはそろって、ふぅ……と深いため息を漏らした。
「アデライダ様……お見事な手腕でしたけれど……本当によろしかったのですか? あの猛毒のようなお嬢様を、そのまま殿下のもとへ向かわせてしまって……」
ハリエットさんが、心底気の毒そうな目で私を見る。
私は手元の本を再び開きながら、穏やかに微笑んだ。
「良いのです、ハリエットさん。一度、殿下ご本人からきっぱりと冷たくあしらわれれば、プリシラ様も少しはご自分の言動を振り返るきっかけになるかもしれませんから」
(あのハイスペックで超理系思考のツンデレ殿下が、あんな猪突猛進ヒロインの戯言をまともに相手にするとは思えないからね)
嵐の去った図書室で、私はそっとそう思った。




